前振りが冗長になってしまいましたけれど、この衣通郎姫。知るかぎりでは引用させて戴いた2首しか見つけられないのですが、歌詠みにとってはある意味とても重要人物と言えます。
 和歌三神、という言葉があります。読んで字の如く和歌の神様、3柱ということです。といって例えば天細女命が神楽の神であるように、記紀に登場する天つ神、国つ神には和歌の神様がいるのか、といえばそうではありません。素盞鳴尊による「八雲立つ〜」より始まる和歌の連綿たる歴史の中で、実際に秀歌を残した歌人が神格化しているんですね。
 さて、では和歌の神様といってどの歌人を真っ先に思い浮かべましたでしょうか。恐らく1人目は誰もが正解できるでしょう。...はい、人麻呂です。そして2人目。こちらも前作や本作でも、人麻呂との対比として書かせて戴いていますし、その功績からすればそう、想像には難くないと思います。山柿の門、という言葉や古今集仮名序の通り、赤人です。
 そして問題の3人目。貫之、定家、業平、小町、家持、西行、などなど色々考えられるでしょうが、全員外れなんですね。36歌仙にも入っていません。...そう、それが衣通郎姫なんです。

 そもそも、歌の神を祀っていた、もしくは歌道を守護していた神社が3ヶ所あります。摂津の住吉大神、明石の柿本大神、そして紀伊の玉津島明神で、恐らく大元の和歌三神は住吉大神、玉津島明神、柿本人麻呂、というラインナップだったのだろうと思います。...後世の別説には人麻呂ではなくて、天満天神(菅原道真)というものもありますけれども。
 ですが、現在最もポピュラーではないか、と思われる和歌三神は、前述の通り人麻呂、赤人、そして衣通郎姫、と。彼女に関しては玉津島明神、つまりは玉津島神社の祭神の1柱、玉津島姫が衣通郎姫と同一視されたようで、そういう経緯から彼女が和歌の神となった、とされています。
 余談ですが、柿本大神はともかく、住吉大神や玉津島明神が歌道を守護している、という発想は多分に住吉も玉津島も古くから歌枕として名を馳せていたからではないか、とも言えそうですね。

 お話を核心に戻しますが、さて。では、どうして彼女が、玉津島姫と同一視されるほど和歌の世界で名を馳せたのでしょうか。実はこれには理由があるんですね。
 明確にそれと断言できる、日本最古の勅撰和歌集は古今集となります。「万葉集」に関しては、前述のように巻1、2は勅撰説が濃厚ではありますが、断言まではできません。そして、その古今集の冒頭、有名な仮名序には、和歌の歴史などについて貫之の筆による記述があります。つまり、古代歌謡から始まった歌は万葉期、平安初期と時代が進む中で、詩歌へと変質してゆきますが、それを明確に固着、決定付けたものが、最古の勅撰歌集・古今和歌集、と言えるということですね。
 そして、その冒頭にあたり記されたことこそが、まだまだフレキシブルな部分を残していた和歌のその後をある程度、規定したとも言えるわけで、古今集仮名序には、以下のことが記されています。

 1) 和歌の本質
 2) 和歌の起源
 3) 和歌の姿
 4) 和歌の歴史
 5) 古今集の編纂過程

 そして、これら記述の中にあるのがこの件です。

|小野小町は、古の衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よき女
|のなやめるところあるに似たり。つよからぬは女の歌なればなるべし。
                             「古今和歌集 仮名序」


 「小野小町の歌は、古代の衣通姫の歌と同じように、嫋々とした女心を歌ったものである」

 実際に記載されているのはこれだけです。...が、この件が歌のみに留まらず小町と衣通郎姫が似ている、と解釈されていったわけでして。なので、優れた歌人であった小町に似ていることから、衣通郎姫の歌は優れたものとなり、果ては和歌三神にまで祀られしまった一方、日本書紀に衣通郎姫は絶世の美女とあることから、小町もまた絶世の美女、という評判になってしまった次第。...わたしが知る限りの文献では、大体がこんな解釈を展開しています。
 さらには、日本書紀に残る衣通郎姫の歌に関しても、情感豊かなものではあるけれど、人麻呂や赤人らには及ばない、神業とは思えない。そう結んでいることが多いようです。

 それともう1つ。それでは何故、玉津島明神と衣通郎姫が同一視されるようになったのか、です。こちらも説話が残っています。
 元々、玉津島神社は歌枕として名高い和歌の浦にありますが、何も古代から衣通郎姫とイコールで結ばれていたわけではなく、文献にその手の記述が現れ始めるのが、藤原清輔の「袋草子(1191年成立)」あたりからだと言います。私見ですが、古今集の成立は905年ですから、小町ほどの歌の誉れというイメージの固定化による部分も大きいのでしょう。
 そして決定打が南北朝時代、北畠親房が「古今集註」の中で記したことで、平安時代中期、光孝天皇の夢枕に衣通郎姫が立ったと云うお話。曰く光孝が和歌浦に御幸した際、その夢の中に女性が現われ、自ら衣通郎姫と名乗ります。そして残したのがこちら。

|立ち帰りまたもこの世に跡垂れむ名もおもしろき和歌の浦波
                              北畠親房「古今集註」


 この歌自体が実際に衣通郎姫のものとは、形上はどうであれ信じるには厳しいものがありますが、それでもこの説話によって玉津島明神=衣通郎姫、という考え方が定着していったんですね。


 暗峠から茅渟、そして和歌の浦にまでお話が拡散してしまいましたが、やはり和歌の神様の1人ということで、敢えて触れさせて戴きました。蛇足ですが、わたし個人も和歌の浦にはまだ出向いたことがありません。いつか必ず行こうとは思っていますが、出来るならもっともっと歌をたくさん詠んで、「わたしの歌」というものがある程度、確立できてからにしたく思っています。そして現地で即詠したいですね。

 和歌の浦 越えばいつにか奉りたく
 誓ひてもあれえ越えじていまだしく得ず  遼川るか
 (本日さねさしさがむゆ)


           −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 お話を茅渟に戻します。「万葉集」には、幾つか似たエピソードがあります。桜児女子や真間手児名などの説話です。桜児女子は巻16の冒頭、由縁ある雑歌にて語られていますが、曰く2人の男性から求愛され、答えに窮して自ら首を括って自決した、というもの。

|春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも
                           作者不詳「万葉集 巻16-3786」
|妹が名に懸けたる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに
                           作者不詳「万葉集 巻16-3787」


 もう一方の真間手児名も山部赤人や高橋虫麻呂などよって追悼の歌を詠まれていて、やはり3人から求愛され、こちらも井戸に身を投げ自決。
 
|鶏が鳴く 東の国に
|古へに ありけることと
|今までに 絶えず言ひける
|勝鹿の 真間の手児名が
|麻衣に 青衿着け
|ひたさ麻を 裳には織り着て
|髪だにも 掻きは梳らず
|沓をだに はかず行けども
|錦綾の 中に包める
|斎ひ子も 妹にしかめや
|望月の 足れる面わに
|花のごと 笑みて立てれば
|夏虫の 火に入るがごと
|港入りに 舟漕ぐごとく
|行きかぐれ 人の言ふ時
|いくばくも 生けらじものを
|何すとか 身をたな知りて
|波の音の 騒く港の
|奥城に 妹が臥やせる
|遠き代に ありけることを
|昨日しも 見けむがごとも
|思ほゆるかも
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1807」 高橋蟲麻呂歌集より撰
|勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1808」 高橋蟲麻呂歌集より撰


 そしてもう1人。同様な謂われの女性を詠んだ歌があります。

|葦屋の 菟原娘子の
|八年子の 片生ひの時ゆ
|小放りに 髪たくまでに
|並び居る 家にも見えず
|虚木綿の 隠りて居れば
|見てしかと いぶせむ時の
|垣ほなす 人の問ふ時
|茅渟壮士 菟原壮士の
|伏屋焚き すすし競ひ
|相よばひ しける時は
|焼太刀の 手かみ押しねり
|白真弓 靫取り負ひて
|水に入り 火にも入らむと
|立ち向ひ 競ひし時に
|我妹子が 母に語らく
|しつたまき いやしき我が故
|ますらをの 争ふ見れば
|生けりとも 逢ふべくあれや
|ししくしろ 黄泉に待たむと
|隠り沼の 下延へ置きて
|うち嘆き 妹が去ぬれば
|茅渟壮士 その夜夢に見
|とり続き 追ひ行きければ
|後れたる 菟原壮士い
|天仰ぎ 叫びおらび
|地を踏み きかみたけびて
|もころ男に 負けてはあらじと
|懸け佩きの 小太刀取り佩き
|ところづら 尋め行きければ
|親族どち い行き集ひ
|長き代に 標にせむと
|遠き代に 語り継がむと
|娘子墓 中に造り置き
|壮士墓 このもかのもに
|造り置ける 故縁聞きて
|知らねども 新喪のごとも
|哭泣きつるかも
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1809」 高橋蟲麻呂歌集より撰
|芦屋の菟原娘子の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1810」 高橋蟲麻呂歌集より撰
|墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも
               高橋蟲麻呂「万葉集 巻9-1811」 高橋蟲麻呂歌集より撰


 「葦屋の菟原娘子は八歳の頃から婚期が近づき髪を結い上げる年頃まで、周囲の人たちに姿を見せず籠りきっていた。男たちは一目見たいと、もどかしがっては人垣を作り言い寄った。茅渟壮士と菟原壮士は、血気に逸り娘子に求婚。焼き鍛えた太刀の柄を握り、白木の弓と靫を背負い、水にでも火にでも入ろうと立ち向かい争ったその時、この愛しい娘子は母に語って曰く、
「賎しいわたしの為、立派な方たちが争うのを見ると、生きていたとて想う人に添えるとは思いません。いっそ黄泉の國で待ちます」
 と世を去って行った。茅渟壮士は続いて後を追った。先を越された菟原壮士は、天を仰ぎ叫びわめいて地団太踏んで歯ぎしりし、猛り口走り
「あいつに負けてはならない」
 と後を追った。一族の者たちは遠い未来に語り伝えよう、と娘子の墓を真中に壮士たちの墓を右と左に作った。...その謂われを聞いて昔のことは分らないのに、今亡くなった人の喪のようにわたしは泣いてしまった」
「葦屋の菟原娘子の墓を行き来するたびに、声をあげて泣かずにはいられない」
「墓の上に生えている木の枝は茅渟壮士に靡いている。やはり伝え聞く通り彼の方を好きだったのだろう」

 これが有名な「菟原娘子/うなゐおとめ」の説話で、引用歌以外にも田辺福麻呂や大伴家持も詠んでいます。もう少し書きますと、どうやら菟原娘子が好きだったのであろう、とされている茅渟壮士は、読んで字の如く舞台となった集落・菟原の人々から見れば余所者、ということですね。菟原とは摂津の国(現・大阪府北部〜兵庫県東部)、茅渟は和泉の国(現・大阪府南部)、と。なので彼女は選べなかったわけです。
 この説話自体は後に平安期、大和物語の中にも変質しながらも、収められています。

|すみわびぬわが身投げてむ津の國の生田の川は名のみなりけり
                               「大和物語 147段」


 また、この大和物語を題材に藤原定家が詠んだのがこちら。

|いかばかり深き心の底を見て生田の川に身を沈めけん
                  藤原定家「拾遺愚草 巻上 400 皇后宮大輔百首」


 さらに時代を下った室町。観阿弥による謡曲も成立しています。求塚です。

|シテ「さらば、語つて聞せ申し候ふべし。昔此処にうなゐ乙女のありしに。又その頃さゝ
|  だ男ちぬのますらをと申しゝ者。かのうなゐに心をかけ。同じ日の同じ時に。わり
|  なき思の玉章を贈る。彼の女思ふやう。一人になびかば一人の恨深かるべしと。左
|  右なうなびく事もなかりしが。あの生田川の水鳥をさへ。二人の矢さきもろともに。
|  一つの翅に中りしかば。其時わらは思ふやう。無慙やなさしも契は深緑。水鳥まで
|  も我ゆゑに。さこそ命はをし鳥の。つがひ去りにしあはれさよ。住みわびつ我が身
|  捨てゝん津の国の。生田の川は名のみなりけりと。
|地 「これを最期の詞にて。これを最期の詞にて。此河波に沈みしを。
                                  謡曲「求塚」



 世にありて絶ゆるを許されざるあるは
 けだし沁むるに
 幸はひか
 あはれなるかは
 もろひとのうらのまにまにあるとても
 在るゆゑえ変はらざるなれば
 絶ゆるも愛し
 あれ欲るは
 あれゆゑ繰れば
 地の鳴り
 海鳴り
 山鳴り
 時も鳴り
 ゆゑに魂鳴るとふ知りぬ
 茅渟廻をとほみ
 鳴る魂もあり

 流れてはなほし流るゝみづにむだかれ綿津見は
 変はり変はりてえ変はらざるもの         遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 引用歌一括で。「鶏が鳴く」は東、「しつたまき」は賤し、「ししくしろ」は黄泉をそれぞれ伴う枕詞です。

 暗峠からは見えなかった茅渟の海、そして大和盆地。それでも峠に、そして国と国との境界の上に立って覚えた感慨はまた格別なものがあって、その思いを胸に再び生駒山を下ります。







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