現代の地図で語るならば、大和盆地は奈良県の北西部。その大和盆地のちょうど真ん中辺りを、当時の人々はこう呼んでいました。
 国中/くんなか。呼んで字の如し、まさしく国の中央ということですね。そしてこの国中辺りには、応神期から移住が始まったという、百済の人々が多く住んでいたらしく、それゆえに百済野、という別の呼ばれ方も、定着していたようです。

|題詞:高市皇子尊の城上の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂が作る歌一首
|かけまくも ゆゆしきかも
|言はまくも あやに畏き
|明日香の 真神の原に
|ひさかたの 天つ御門を
|畏くも 定めたまひて
|神さぶと 磐隠ります
|やすみしし 我が大君の
|きこしめす 背面の国の
|真木立つ 不破山超えて
|高麗剣 和射見が原の
|仮宮に 天降りいまして
|天の下 治めたまひ
|食す国を 定めたまふと
|鶏が鳴く 東の国の
|御いくさを 召したまひて
|ちはやぶる 人を和せと
|奉ろはぬ 国を治めと
|皇子ながら 任したまへば
|大御身に 大刀取り佩かし
|大御手に 弓取り持たし
|御軍士を 率ひたまひ
|整ふる 鼓の音は
|雷の 声と聞くまで
|吹き鳴せる 小角の音も
|敵見たる 虎か吼ゆると
|諸人の おびゆるまでに
|ささげたる 幡の靡きは
|冬こもり 春さり来れば
|野ごとに つきてある火の
|風の共 靡くがごとく
|取り持てる 弓弭の騒き
|み雪降る 冬の林に
|つむじかも い巻き渡ると
|思ふまで 聞きの畏く
|引き放つ 矢の繁けく
|大雪の 乱れて来れ
|まつろはず 立ち向ひしも
|露霜の 消なば消ぬべく
|行く鳥の 争ふはしに
|渡会の 斎きの宮ゆ
|神風に い吹き惑はし
|天雲を 日の目も見せず
|常闇に 覆ひ賜ひて
|定めてし 瑞穂の国を
|神ながら 太敷きまして
|やすみしし 我が大君の
|天の下 申したまへば
|万代に しかしもあらむと
|木綿花の 栄ゆる時に
|我が大君 皇子の御門を
|神宮に 装ひまつりて
|使はしし 御門の人も
|白栲の 麻衣着て
|埴安の 御門の原に
|あかねさす 日のことごと
|獣じもの い匍ひ伏しつつ
|ぬばたまの 夕になれば
|大殿を 振り放け見つつ
|鶉なす い匍ひ廻り
|侍へど 侍ひえねば
|春鳥の さまよひぬれば
|嘆きも いまだ過ぎぬに
|思ひも いまだ尽きねば
|言さへく 百済の原ゆ
|神葬り 葬りいまして
|あさもよし 城上の宮を
|常宮と 高く奉りて
|神ながら 鎮まりましぬ
|しかれども 我が大君の
|万代と 思ほしめして
|作らしし 香具山の宮
|万代に 過ぎむと思へや
|天のごと 振り放け見つつ
|玉たすき 懸けて偲はむ
|畏かれども
                         柿本人麻呂「万葉集 巻2-0199」


 「万葉集」4516首の中で最長、柿本人麻呂が高市皇子の死に際して詠んだという、この挽歌にも
「百済の原」
 として登場する地は、現在の住所だと北葛飾郡広陵町に該当します。

 龍田大社を後にして、橿原方面へ車を運転していると、再び空が曇り始めてきます。進行方向には、晴れていればきっと見えるに違いない大和三山や三輪山がうすぼんやりと霞んでしまっていて、早くも雨の匂いが漂ってきていました。
 百済野。ちょうど大和盆地を南から北へと流れる川のうち、葛城川と曽我川が平行に流れ、その両方に挟まれた一帯を、大和国の人々はそう、古くから呼んでいたようです。また、曽我川は別名・百済川ともいうようですね。
 その昔、渡来人たちが大陸の進んだ技術や文化を倭の人々に伝えた、現代で言うところのカルチャーセンターのようにして、賑わっていた地域。それが百済野なのだ、といいます。

 前述していますが、そもそもこの地への百済人の移住が始まったのは応神天皇の時代。

|この年、弓月君が百済からやって来た。奏上して、
|「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をして
|いるので、みな加羅国に留まっています」」
| といった。そこで葛城襲津彦を遣わして、弓月の民を加羅国によばれた。しかし三年
|たっても襲津彦は帰ってこなかった。
                    「日本書紀 巻10 応神天皇14年(283年)2月」


 はい、すでにご紹介させて戴いている葛城襲津彦と秦氏に関する件や、日本書紀の菟道稚郎子の勉学に関連する記述は、すべて百済人の移住と関連がある、ということなんですね。時系列としても、それぞれがさほど大きくずれることなく、前後して起こっています。
 ともあれ、そうやってこの国へ渡来し、大陸文化を伝えてきてくれた百済の人々と、その里・百済野。新撰姓氏録を眺めると、諸蕃氏族は漢・百済・高麗・新羅・任那、と5分類されているのですが、百済系とされる氏族は漢に次ぐ多さになっています。

 但し、秦氏のように渡来時は百済人であっても系譜としては漢まで遡れてしまう氏族は漢の系統として記載されていますから、当時の倭人にとって百済人、と認識していた氏族の数はさらに多いようにも考えられますし、加えて大前提として、新撰姓氏録はほんの1部だけが現存している抄記です。
 ...当然、この国に渡来した百済の人々やその氏族は、きっとわたしたちが安易に考える以上に、膨大な数だったことでしょう。

 そんな大和盆地の中央にして、渡来人たちが静かに暮らしていた百済野が、人々の喧騒や造成工事の音で賑やかになったのは、舒明期。そう、天智・天武兄弟の父親であった第34代舒明天皇の時代です。

| 秋七月、詔して、
|「今年、大宮と大事を造らせる」
| といわれた。
| 百済川のほとりを宮の地とした。西国の民は大宮を造り、東国の民は大寺を造った。
|また書直県をそのための大匠とした。
                      「日本書紀 巻23 舒明11年(639年)7月」
|この月百済川のほとりに九重の塔を建てた。
                      「日本書紀 巻23 舒明11年(639年)9月」
|この月百済宮にお移りになった。
                      「日本書紀 巻23 舒明12年(640年)10月」
| 十三年冬十月九日、天皇は百済宮で崩御された。十八日、宮の北の殯宮を設けた。こ
|れを百済の大殯という。
                      「日本書紀 巻23 舒明13年(641年)10月」


 つまり舒明の時代の宮の1つに百済宮があって、しかも彼はそこで他界している、ということになります。日本書紀からの引用によれば、百済野の地には宮と大寺があった、ということになりますし、ではそれはどこなのか、ということにもなるでしょう。
 ...が、結論から言ってしまえば、宮跡に関する詳細は、全く判っていないみたいですね。また、一方の大寺。こちらについても中々にややこしいようです。

 万葉期、畿内随一の穀倉地帯だったという国中、すなわち百済野は21世紀の現代でも、田圃が広がっています。まだまだ田植えには早いらしい薄黄色の視界に雨雲が垂れ込めて、雨の匂いは次第に濃くなってきていました。
 ちょうど三重塔が見えた辺りでフロントガラスにぽつり、ぽつり。また春の嵐が少し機嫌を悪くしてしまったようです。

 百済川 九重なる塔流れてはいづへとも
 三重の巌藻しなるかいつもいつも          遼川るか

 国中に春のまとひて
 名告藻いましたれとも名をこそ違へ、違へども名を   遼川るか
 (於:百済寺、のち再詠)


 薄暗い空に向って聳える三重塔。地図には
「百済寺」
 と記載されていますが、実質的には百済寺跡というべきなのかも知れません。いや、それとも...。


 百済寺。...正直、こちらも寓話に彩られた不明確な存在です。曰く、そもそもの起源は聖徳太子こと、厩戸皇子。仏教を普及・隆盛させるべくして努めた国内最初の存在の彼が、平群の地に熊凝精舎を建て、その熊凝精舎が舒明期に百済寺として百済野へ移設された、とのことらしく。
 さらには後に、百済寺は天武によって高市大寺として飛鳥に移設され、その後に大官大寺と改称。けれども今度は藤原から平城への遷都とともに、現在の奈良市内に三度、移設されて名称も大安寺となった、というのが定説となっているようです。
 ただ、今わたしの目の前にある三重塔そのものは、鎌倉時代のものということで、バックボーンとなる百済寺自体が遠く平城へ移動してしまった後、この地に建てられたもの。そもそも九重塔と三重塔という、明確な相違もあります。

 ...無粋にもなりかねない余談ですが、考古学的にはこの地から、宮跡はおろか寺跡すら発掘されていないのだ、といいます。また、大津の磐余の池跡に関連して書いた吉備廃寺跡。考古学的な見地では、あの地こそが舒明期に建てられた百済寺跡である可能性かなり高い、としていることも聞き及んでいますけれどもね。
 ともあれ、少なくともここ。そう、この地が百済野であったことは間違いないですし、上記引用歌に「〜百済の原ゆ神葬り葬りいましてあさもよし城上の宮を常宮と高く奉りて〜」とあることは事実です。


 高市皇子。はい、天武の長子で壬申の乱の功労者です。本来ならば立太子してもおかしくない存在だったのですが、そこは同じ天武の息子でも、母親の出身身分が重要だった時代です。片や長子とは言え母親の身分が低かった高市、片や高市より若くとも母親が菟野讃良、つまり天智天皇の娘にして天武の皇后だった草壁。...草壁が立太子するのは、もはやセオリー通りだったのでしょう。
 けれども、天武亡き後に、その草壁が即位するより早く病死したものですから、事態は複雑になってしまったわけで。...草壁に次いで皇位継承権があったのは大津皇子ですが、既に他界していることは、本作でも何度かふれてきました。

 結果、草壁の遺児・軽皇子(後の文武天皇)が成人するまでの中継ぎとして、讃良本人が即位。第41代持統天皇となったわけですし、高市自身も太政大臣という実質的には皇太子とほぼ同格の立場となり、その位のまま42歳(43歳とも)で病死。

|死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而埋(*)。
|及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。
                                 「隋書倭国伝」
                        ※ (*)厳密には「」という文字です。


 これは隋書にある倭国伝の一部ですが、要するに衾道に関連して書いた、火葬の習慣が始まる以前の、この国の葬儀についての記述です。
 曰く、死者は棺に納めること。親しい者達は亡骸の側で謡い踊り、その際に妻子や兄弟は白い衣服を纏うこと。貴人が他界したならば3年間は棺にいれて仮の殯に安置、庶民ならば埋葬日を占ってから決めること。葬儀では棺を舟に置いて地上を牽くか、輿のようなもので担ぐかして行うこと、などとされています。

 高市が他界したのは持統10年(696年)7月10日。

|十日、高市皇子尊が薨去された。
                    「日本書紀 巻30 持統10年(696年)7月10日」


 高市の他界に関して、愛孫・軽皇子にとって邪魔、と考えた持統による暗殺、という説は拭っても、拭っても、拭いきれない向きは多々ありますが、個人的にはそういう印象は希薄で、定説通り病死だと思っています。
 そして彼を殯宮へ安置するための葬列が、彼の宮があった香具山界隈から、百済野を経て、城上の宮へと進んだのでしょう。
 城上。「万葉集」には、この高市の挽歌の他に3首、同じく挽歌の中に城上は詠まれています。

|飛ぶ鳥の 明日香の川の
|上つ瀬に 石橋渡し
|下つ瀬に 打橋渡す
|石橋に 生ひ靡ける
|玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる
|打橋に 生ひををれる
|川藻もぞ 枯るれば生ゆる
|なにしかも 我が大君の
|立たせば 玉藻のもころ
|臥やせば 川藻のごとく
|靡かひし 宜しき君が
|朝宮を 忘れたまふや
|夕宮を 背きたまふや
|うつそみと 思ひし時に
|春へは 花折りかざし
|秋立てば 黄葉かざし
|敷栲の 袖たづさはり
|鏡なす 見れども飽かず
|望月の いやめづらしみ
|思ほしし 君と時々
|出でまして 遊びたまひし
|御食向ふ 城上の宮を
|常宮と 定めたまひて
|あぢさはふ 目言も絶えぬ
|しかれかも あやに悲しみ
|ぬえ鳥の 片恋づま
|朝鳥の 通はす君が
|夏草の 思ひ萎えて
|夕星の か行きかく行き
|大船の たゆたふ見れば
|慰もる 心もあらず
|そこ故に 為むすべ知れや
|音のみも 名のみも絶えず
|天地の いや遠長く
|偲ひ行かむ 御名に懸かせる
|明日香川 万代までに
|はしきやし 我が大君の
|形見かここを
                          柿本人麻呂「万葉集 巻2-0196」
|かけまくも あやに畏し
|藤原の 都しみみに
|人はしも 満ちてあれども
|君はしも 多くいませど
|行き向ふ 年の緒長く
|仕へ来し 君の御門を
|天のごと 仰ぎて見つつ
|畏けど 思ひ頼みて
|いつしかも 日足らしまして
|望月の 満しけむと
|我が思へる 皇子の命は
|春されば 植槻が上の
|遠つ人 松の下道ゆ
|登らして 国見遊ばし
|九月の しぐれの秋は
|大殿の 砌しみみに
|露負ひて 靡ける萩を
|玉たすき 懸けて偲はし
|み雪降る 冬の朝は
|刺し柳 根張り梓を
|大御手に 取らし賜ひて
|遊ばしし 我が大君を
|霞立つ 春の日暮らし
|まそ鏡 見れど飽かねば
|万代に かくしもがもと
|大船の 頼める時に
|泣く我れ 目かも迷へる
|大殿を 振り放け見れば
|白栲に 飾りまつりて
|うちひさす 宮の舎人も
|栲のほの 麻衣着れば
|夢かも うつつかもと
|曇り夜の 迷へる間に
|あさもよし 城上の道ゆ
|つのさはふ 磐余を見つつ
|神葬り 葬りまつれば
|行く道の たづきを知らに
|思へども 験をなみ
|嘆けども 奥処をなみ
|大御袖 行き触れし松を
|言問はぬ 木にはありとも
|あらたまの 立つ月ごとに
|天の原 振り放け見つつ
|玉たすき 懸けて偲はな
|畏くあれども
                       作者不詳「万葉集 巻13-3324」再引用
|礒城島の 大和の国に
|いかさまに 思ほしめせか
|つれもなき 城上の宮に
|大殿を 仕へまつりて
|殿隠り 隠りいませば
|朝には 召して使ひ
|夕には 召して使ひ
|使はしし 舎人の子らは
|行く鳥の 群がりて待ち
|あり待てど 召したまはねば
|剣大刀 磨ぎし心を
|天雲に 思ひはぶらし
|臥いまろび ひづち哭けども
|飽き足らぬかも
                          作者不詳「万葉集 巻13-3326」


 正直なお話、この城上についてもここ広陵町から数km以内にあった、明日香にあった、磐余界隈にあった、と突き詰めて考えてしまえばもう、収拾がつかなくなってしまうくらい、様々な説がありますし、そうなってしまうと百済の原自体も、ここ・百済野とは別に百済の原があったのではないか、というレベルまでを検証しなければならなくなることでしょう。







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