ただ、説ではなくて、あくまでも記述という面でならば、わたしが知っているのは、これだけです。

|三立岡墓 高市皇子墓 在大和国広瀬郡
                             「延喜式 巻21 諸陵寮」


 三立岡。これは現在の見立山のことだ、とされていて広陵町には見立山公園が百済寺より西約2.5kmの場所に存在していますが、果たしてどうなのでしょうね。当たり前のことですけれど、事実は歴史という大きな、大きな、藪の中です。
 ですが、人麻呂が謳いあげた、高市を弔う葬列が“百済の原”を通ったことと、ここが百済野であるということと...。1300年というタイムラグ越しに存在しているわたしには、この2つだけで充分だと思っています。

                   

 ついに、ばらばらと本降りになった雨の中、物言わぬ三重塔は地面に淡い影を落とし続けます。寺、とは言っても実際には本堂や金堂の跡も礎石もなく、ただ塔だけがぽつんと建っている百済寺で、塔の次に存在感を放っていたのは歌碑でした。

|百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも
                          山部赤人「万葉集 巻8-1431」


 赤人のお歌です。前述の通り、赤人が活躍していた時期には、もうこの百済野に百済大寺はありませんでした。そしてまた、今ある三重塔もありませんでした。
 何の根拠もない、身勝手な読みではありますが、冬ざれて半ば枯れているかのような萩の枝と、そこにとまって春が来るのを待ち望み、ようやく春だ、と囀りだす鶯が、まるで歴史の中に置き去りにされてしまった百済寺跡と三重塔にオーバーラップしてしまう、といいますか...。

 赤人一流の端正で、ほんの小さな動きが、大きな躍動として伝わる叙景歌ですけれど、謡われた瞬間を切り取った、彼の心。そこにあったのは、ある種の無常観と、それゆえに存在する、ということへの祈りにも似た愛情と。...そんな印象が、この百済野に来て一層、深まってしまったようです。
 さらに雨は激しく、もう明日香や磐余方面も殆ど見えません。ただ、周囲の田圃や三重塔と、同じ雨に
「もう少し濡れていたい...」
 と感じていました。

 玉鉾の道ゆかばゆき
 玉鉾の道ゆくものゝ
 みなひとに
 問はまくほしきこともあり
 かつもなきゆゑ
 黙をりぬ
 言にぞ易く沁みゐるに
 言に出づれば
 うつそみにありとし見ゆる
 まこと絶ゆ
 百済の原にありしとも
 かつもなきとも
 覚ゆるに
 言繁きものゝ影もなく
 音もまたなく
 あるはなき
 またなきはあるかぎりなむ
 あれば違はず絶ゆるらむ
 あれば変はらず果つるらむ
 世のなすものゝ在りきとふ
 いめかまことの跡なるを
 跡なるかぎりを
 集はせつ
 い行き廻ほり
 玉鉾の道なほしゆく
 あれも空蝉

 えかはらざるものなき世にそなほあり賜ふ天に地
 いづへに行かむひとの子ゆゑに          遼川るか
 (於:百済寺、のち再詠)


            −・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 百済野からゆるゆると北上します。左手には葛城川、右手には曽我川、という別々の川と川に挟まれた野が、やがて中州と感じられるほどに狭まり、合流。地図上では、葛城川はここまでとなります。
 そのまま曽我川沿いをさらに進むと、またしても大きな川と合流。地図上では、曽我川はここまでなのですが、曽我川とそれに合流した葛城川が合流した川。これが大和川で、上流では泊瀬川という別名で呼ばれています。

 この大和川と曽我川の合流ポイントのほんの上流で、やはり飛鳥川も大和川に合流していますし、そのまたさらに少し上流では寺川、もうさらに上流では佐保川もです。
 一方、曽我川との合流ポイントからほんの少し下流では富雄川も大和川に合流している、というまさしく水路に於ける八十の岐が、国中にはあります。現在の自治体区分はそのものずばりの河合町。川と川とが合う土地です。


 もちろん、上述しているだけがすべてではありません。葛城川のように、大和川のほんの手前で別の川と合流し、そのまま大和川とひとつになっている支流も存在しているわけで、では何故、この地で大和盆地の河川の多くが合流しているのか、と言えば答えは簡単。
 この地が、大和盆地の中で1番低いんですね。低平部は川向こうの安堵町が該当するようで海抜は約30m、と聞き及んでいますが。

|広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ
                          作者不詳「万葉集 巻7-1381」


 「広瀬川は袖が水面に漬かってしまうほど浅いのに、わたしはどうしてこんなに思いつめてしまうのだろうか」

 広瀬川。現在、こう呼ばれる川は大和盆地内にはありませんが、恐らくは万葉期、大和川の中流はこう呼ばれていたのだろう、と考えられているそうです。そして、ではそれは何故なのか。
 はい、この根拠として挙げられるのが前述している広瀬神社です。

|   広瀬大忌祭
| 広瀬の川合に称辞竟へ奉る皇神の御名を白さく、
| 御膳持たする若宇加能売命と御名は白して、此の皇神の前に辞竟へ奉らく、皇御孫
|命の宇豆の幣帛を捧げ持たしめて、王臣等を使として、称辞竟へ奉らくを、神主・祝部
|等諸聞食せと宣る。
| 奉る宇豆の幣帛は、御服は明妙・照妙・和妙・荒妙・五色物、楯・戈・御馬、御酒はみか
|(*)閉高知り、みか(*)腹満て雙べて、和稲・荒稲に、山に住む物は、毛の和き物・毛の荒
|き物、大野原に生ふる物は、甘菜・辛菜、青海原に住む物は、鰭の広き物・鰭の狭き物、
|奥津藻菜・辺津藻菜に至るまで、置き足らはして奉らくと、皇神の前に白し賜へと宣
|る。
| 如此奉る宇豆の幣帛を、安幣帛の足幣帛と、皇神の御心に平けく安けく聞食して、
|皇御孫命の長御膳の遠御膳と、赤丹の穂に聞食さむ。皇神の御刀代を始めて、親王等・
|王等・臣等・天下の公民の取作る奥都御歳は、手肱に水沫画き垂り、向股に泥画き寄せ
|て取作らむ奥都御歳を、八束穂に皇神の成し幸へ賜はば、初穂は、汁にも穎にも、千稲
|・八千稲に引居ゑて、横山の如く打積み置きて、秋祭に奉らむと、皇神の前に白し賜へ
|と宣る。
| 倭国の六御県の山口に坐す皇神等の前にも、皇御孫命の宇豆の幣帛を、明妙・照妙・
|和妙・荒妙・五色物、楯・戈に至るまで奉る。如此奉らば、皇神等の敷き坐す山山の口よ
|り、狭久那多利に下し賜ふ水を、甘き水と受けて、天下の公民の取作れる奥都御歳を、
|悪しき風・荒き水に相はせ賜はず、汝命の成し幸へ賜はば、初穂は汁にも穎にも、みか
|(*)閉高知り、みか(*)腹満て雙べて、横山の如く打積み置きて奉らむと、王等・臣等・
|百官人等、倭国の六御県の刀祢、男女に至るまで、今年の某月の某日、諸参出で来て、
|皇神の前に宇事物頚根築き抜きて、朝日の豊逆登に称辞竟へ奉らくを、神主・祝部等
|諸聞食せと宣る。
                         「延喜式 巻8 祝詞 広瀬大忌祭」
                        ※ (*)は「瓦長」という表記です。



 広瀬神社が創建されるまでの経緯については、すでにお話しましたが、龍田の風神に対し広瀬の水神が祀られたこの、川と川とが出合う地。それぞれの支流沿いで営まれていた人々の暮らしと、そこで起こる泣き笑いが、川面に浮かぶ泡のように流れて、集い、ひとつになってまた流れていった...。
 それが空に1番遠く、水に1番近いこの地だったのでしょう。

 ちょうど曽我川が、大和川と落ち合う地点のごく近い傍に広瀬神社、つまりはその祭神である若宇加能売命が鎮座しているのですが、この若宇加能売命。どうもまったく記憶になかったんですね。
 記紀神話に登場する神様。その数はとんでもないですし、もちろんすべてはおろか五分の一も覚えていないんですけれど、全く記憶にないというのもまた少なく...。えてして字面だったり、名前の音の響きだったり、と何かには薄っすらと反応できるものなんですが、それができないのはあまりないことです。

 神奈川帰還後に調べたところ、やはり記紀神話には登場しない存在のようですね。ですが、実際は豊受大神の分身とされていたり、あるいは倉稲魂命と同一視されているようで、ようやく納得。豊受大神というのは伊勢神宮の外宮に祀られている穀物神ですし、倉稲魂命は素盞鳴尊の息子で、やはり穀物神。別名は稲荷神、と。はい、全国のお稲荷さんはこの神様を祀っているものです。
 また、他にも別名が幾つかあって、そのうちの1つが大物忌神ということですから、これで上記引用している広瀬大忌祭の祝詞とも若宇加能売命が繋がります。

 鳥居の傍で車を降りると、本降りのはずなのに、その空間だけが違う空のしたにあるかのように雨が小降りになりました。いや、確かに雨は変わらずに降っています。事実、雨が木々の葉を叩く音は、薄暗い参道に響いてもいます。ですが、雨が弱くなったように感じられてしまうほど、鬱蒼と繁った森。
 広瀬神社は深くて大きな森に匿われるかのようにしてありました。

 長い、長い参道。わたしの感覚では春日大社の参道よりも長かった気もしましたが、とにかく人気もなく、薄暗い参道を独りで黙々と歩きます。途中々々に摂社なのか、小さな祠も幾つかあって、そのうちの1つは三輪山遥拝所になっていました。
 遥拝所。読んで字の如し、お宮さんや、山や、島、などの神聖なる地を、遠くから拝む場所ですが三輪山、というのには思わず頷いてしまいましたね。


 前作でも書きましたが、三輪山は突き詰めると水神信仰の地。一方、ここ広瀬神社もまた、水神信仰の地です。
 そしてその三輪山は、鴨氏の末裔・意富多々泥古が初代の祭祀であり、同時に祭神は国譲りで高天原に帰順した、国つ神・大国主。もう一方で、天つ神・天照大神を祀るのは伊勢神宮であり、すなわち風神信仰であり。

 勝手な感覚論ですが、天つ神の風神と国つ神の水神。そんな風にも感じられていました。そして、そのいずれが欠けても稲は稔らず、万民は健やかであることなどできず...。
 天と地と人が和す、ということの本質は、やはりここにあるのでしょう、きっと。

 奈良入りしてからの4日間が、わたしの中でようやく1つになってゆくのを感じていました。志貴と人麻呂と赤人と。高天原と国譲りと天孫降臨と。鴨氏と天皇氏、葛城山と三輪山。
...この4日間にあったのは“ない”ということと“判らない”ということだけで、けれどもそれがとてもとても温かくて。
 正しさの追求は、同時に排他の道。境界をさらにさらに設け、増やしてゆく道です。もちろん、それもとても大切なことですが、境界線を引ける限り引いてしまったならば、あとはその境界線を世界も、人も、再び自ら越え始めます。
 分裂と統合。その繰り返しが世界なのかも知れず、同時に人間1人ひとりの中で湧いては消えてゆくものなのかも知れません。

 大和盆地を囲む、あちこちの山から流れ出した幾筋もの川たちが、大和盆地で最も低いこの地に1つとなって流れてゆくように、4日間に渡って考え散らかした、感じ散らかした、様々なロジックとエモーションの欠片が重なり合って、見せてくれたもの。
 それは突き詰める、ということの重みと、脆さと、けれどもその脆さを破壊することの難しさ、だったのだと思っています。

 地ありて
 地に立ち臥しまつろひて
 天を望めど
 天のもと
 天つ日
 天つみづを受く
 天つみづとて綿津見に
 川に
 淡海に
 はろはろにゆく道の果て
 山あればしがいなだきの
 しろたへの雪とてもみづ
 とほきとほき背面の海に寄る氷
 とほき日緯
 黒土の隠る霜さへ
 もろひとの玉の緒繋ぐ
 稲の穂の玉の緒繋ぐ
 みづの魂
 みづの霊をし
 あな畏こ
 あなあな畏こ
 あな畏こ
 生くは隠るのことはりに
 隠るも生くもつかねては
 天あるゆゑにあり賜ひ
 地あるゆゑにあり賜ふ
 うつそみにゐて
 うつそみに生くるかぎりの道なれば
 いづへは知らに
 ゆきゆきて
 ゆかば来るむた
 来ればまたゆきゆくむたに
 道ならむ
 離かれども寄り
 寄ればまた離り離らる
 潮ならむ
 ゆゑなゝげきそ
 知らずとも
 え知らずとても
 祝りなりけり

 川もゆく風もまたゆくみなひとゆけば時もゆく
 かけばかへれどえかへらぬ河

 あがうちに河は宿れり
 なほし潮をも宿しゐてみづを慕ふも風を恋ふれど    遼川るか
 (於:広瀬神社、のち再詠)


 広瀬神社本殿では、何だか放心してしまって視覚的な印象があまり残っていません。ただ、変わらぬ祈りを1つして、風と水の産み落とす音だけを、ぼんやり聞いていました。もう時刻も夕方に差し掛かり始めていましたし、相変わらず鬱蒼とした森は暗く、人気もなく。
 ...でも、何故なんでしょうね。不思議と恐くはなかったんです。春の嵐はやや荒れ気味になってきていて、雨風も大きな音を響かせていたのに。何故か、それが却って安心だったといいますか。


 4月末。まだ周囲の田には稲は植えられていません。だからきっとこの嵐は、
「悪しき風、荒き水」
 にはならないはずですからそれで、だったのかも知れません。こちらも神奈川帰還後に知ったのですが、広瀬神社には砂かけ祭り、という奇祭が毎年2月11日に行われているようですね。境内の砂を水に喩えて、砂を掛け合うのだそうです。
 なかなか壮絶な砂の掛け合いになるようですが、それもすべて、豊穣を祈願しているとのこと。

 長い参道の果てである本殿の裏手は、もう大和川でした。記紀万葉のいにしえから、人々の命を繋いできた川が、ひとつになって海へ帰ってゆきます。この広瀬の地より下流でも、竜田川などが合流して難波国へ。そして難波の茅渟廻は、遠い筑紫や大陸を繋いでくれます。
 記紀の時代から万葉の時代へ、万葉の時代から平安時代へ。紀伊から大和、難波から大和。そして大和から紀伊、大和から難波。すべてのものが流れてゆき、その流れの果てにいるはずのわたしもまた、さらに流れていつかは流れの中に消えてゆくのでしょう。

 けれども、いずれは消えてしまうものだからこそ、こうして実際に出会えている今が愛おしくもなるのでしょうね。大和国という土地と、出会えているこの瞬間が、です。
 ならばせめて、そんな刹那を言霊として。...これが歌詠みにできるたった1つで、すべてなのですから。

 あきづしまやまと 流るゝ世にし生りをり
 淀みてもえとまらぬよし なゝへそなへそ

 こはいづへ、いづへゆこにそ問ひたくば問へよ
 こゆいづへ、いづへにこゆはたれもえ知らず

 風に生れ風に散るゆゑまはるうつそみ
 みづを受けみづを流して日並むるがよし

 繰り畳ぬる思ひに地はなほ黙せども
 いで聞かむ 欲れば聞こゆるかはべ伝ひて

 うつそみは間なくしば鳴く 声の持たぬに
 言なくも言にて宿る言霊の降り

 受くるとは出だすに等し あがきはみなど
 いまあれはあれならずしてあれにほかなし

 いにしへにけだし人の子謡ひて越えしか
 あれいまし謡ひて越えむ 謡ひ渡らむ

 うむがしきものはなきことなきとふ幸はひ
 ありしゆゑになきはし得らる 波の遍し

 老い老ゆれど世は復ちかへる みづに等しく
 山の色の風の匂ひに沁むるまにまに
 
 いくだなるきはみを越えむ越えまくほしや
 流るればゆくに違はず渡るに違はず      遼川るか
 (於:大和川、のち再詠)


 何とか実際に合流している地点が見たくて、車であちこち探してみました。ですが、車では入れる場所に限界があって、さりとて徒歩で進むにもまた障害もあって結局、遠くから雨で水嵩の増えた川面を眺めるのが精一杯でした。


 車にエンジンを懸けるのを、少し躊躇していました。斑鳩の宿はもう引き払っていて、今夜は奈良市内の宿になります。また、奈良入りした時から、フル稼働してくれたレンタカーも今晩、返さなければなりません。
 明日は、前回の宿題に当たるので、今回の旅としてはこの大和川が終点。そう、ここが終点なのです。

 稲筵川ゆく果てゆまた川はあらたしき果て懸け流れゆかむ  遼川るか
 (於:大和川、のち再詠)








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