後記

 記憶している範囲では、2004年が明けてまだ間もない日だったと思います。竹内街道に関連する部分までを当時、在籍していた@nifty文学フォーラムの短詩会議室「いまのは倶楽部」に掲載し、残りの部分はすべて脱稿してから一括で掲載しよう。
 そう思って、書き溜めていた原稿がパソコンのハードディスク・クラッシュですべて失われました。もっと言うと、掲載していた部分もすべて失い、けれども公開していたためにログ保存していた方が複数いらしてくれたお陰で、とりあえず竹内街道まではサルベージできたものの、それ以外は...、と。

 けれども、どれほど膨大な量の散文部よりも痛手だったのは、現地で即詠した拙歌です。後半部は完全に失われ、かといって思い出して詠みなおすにも量が多すぎますし、何よりも現地へ自ら行ったからこそ、その瞬間に得られた高揚感は、再現などできません。
 結局、それを境に「あきづしまやまとゆ・弐」は半ば放置する形で、記憶とともにパソコンの片隅深くで、長い長い冬眠に入ってしまいました。

 ですが、古歌紀行そのものは継続していて、2004年には足柄峠と竹生島のごく短い紀行文も書きました。...これで気づいたのは、何も何泊もする旅行じゃなくとも古歌紀行はできるし、書けるし、詠める、ということで、時間的・体力的・経済的にも自身への負担を軽くする形で、細く長く続けてゆきたい、と。

 それは古歌の舞台の選択も同様です。すでに本作前半を書いていた2003年当時から思い始めていましたが、何も記紀万葉風土記の舞台は奈良だけではない、と。
 この2つに気づいたことで、古歌紀行そのものの幅も一気に広がりました。そして続く2005年には甲斐と茅渟廻、今年・2006年には上総、と書き続けていますが、それが余計に本作を寝かせ続ける結果になってしまったのかもしれません。

 きっかけは2005年の春。仕事の出張で大阪へ出向いた際に、数時間の隙を当て込んで茅渟廻を訪ねたことです。「あしがちるなにはゆ〜茅渟廻」として紀行文になったのは7月の半ばでしたが、とにかく訪ねていても、書いていても、懐かしくて懐かしくて堪らなくなったんですね。
 つまり葛城山を挟んで大和盆地とは反対側に出向いていた自身がいたわけで、ようやくわたしの中で「あきづしまやまとゆ・弐」をどうしようか、と。

 その秋には色々迷った末に執筆を再開しよう、と決意。しかもそう決めた矢先、何となく投稿した某短歌賞の授賞式のため、数年ぶりに三輪山を訪ねることになって...。
 葛城と三輪。大和盆地東西の神坐す山が、呼んでくれている気がして
「必ず、必ず完成させるから」
 そう誓ったのは昨年の11月3日、三輪山でのこと。そしてまた今年も11月3日がやってきますが、昨年同様、式典出席の為に三輪山を訪ねるのはもう決まっています。

 2003年4月の訪和から実に3年半。この間、様々なことがありました。わたしにとっての作品発表の場であった@nifty文学フォーラムも閉鎖し、それに伴ってわたしも慌てて個人のサイト(当サイトではありません)を立ち上げ、またいまのは倶楽部もWebサイト化。けれどもそのWeb版いまのは倶楽部も、もうありません。今年4月に解散しました。

 一方、わたし自身の創作フィールドも2005年の幕開けと共に、過渡期に入りました。何となく投稿した拙歌に賞を頂戴したことから、その授賞式に出向くついでに古歌の舞台を訪ね、帰還後に紀行文を書く。それが終わったらまた気の向いた歌会や文学賞に投稿し、運良く引っ掛かれば式典出席のついでにまた古歌紀行をして、と。
 投稿する歌会や文学賞も、万葉故地や上代文学の舞台となっている土地で、開催されるものを自然と選んでいました。あとはこのルーティーンです。

 ...不思議なことに、今までとってきたどの創作環境よりも、納得もできていますし、しっくりもしている気がします。恐らく、歌と紀行文のいずれもが、わたしにとっては欠かせない表現形式として成長しているから、なのでしょう。車の両輪、どちらが突出しても、どちらが目減りしても望ましくない、ということなのかも知れません。
 ただ唯一、難点だったのは、そういった各地への投稿はすべて遼川るか署名でやっていたことでして。

 そしていつからか、インターネット上でハンドルネームを使って作品発表をする自身と、インターネット外に投稿する遼川るかという自身と、人格は1つでも立場の違う2人を内包してゆくのに違和感を覚えるようになってしまっていました。
 今年3月の第1歌集『北帰行・南航路』の上梓が結果的に、1つの節目となったように思います。

 今年9月の末から再開した「あきづしまやまとゆ・弐」に関する作業は、以下の法則をガイドラインとして進めました。

 1) 現地即詠拙歌は基本的に再詠すること。
 2) 既出の散文部は、明らかな誤謬は訂正するものの、基本的にはできるだけ原文を
   生かすこと。
 3) 既出の散文部への加筆は文献引用に関してのみ積極的に。逆に不要と感じた自
   身の記述は大胆に削除すること。
 4) 初出となる書き直し、及び書き下ろし部は、あくまでも2003年当時の自身として
   書くこと。

 現地即詠の拙歌は、3年半ものタイムラグあると、前半と後半で歌が全く変わってしまうので2006年に再詠。ただし、狂歌などは署名なしでそのまま掲載したものもあります。
 散文に関しては、前半と後半のバランスをとることに留意しただけで、特に後半は件の奈良以降に各地を歩いてきたわたしだから知っていること、感じること、などは書かないようにかなり神経を払って努めました。
 そんな苦労もあってか、通して読んでもそれほど時差は感じないかな、と思える程度には仕上がっているように思っています。

 ずっと、遣り残してしまったように感じていた本作を、紆余曲折を経ながらも脱稿することができて、今は何だかぽかん、としてしまっているのが正直なところです。あと数日したら三輪山に完成の報告もできますけれど、それすらもまだ実感が湧きません。
 色々な土地を歩いてきました。何処もわたしにとっては大切な歌枕ですし、歌の聖地でもありますし、さらには故郷でもあります。
 けれどもやはり大和は...。厳密に言うと三輪山と葛城山は、わたしにとってさらに特別な場所なのでしょう。

 前作「あきづしまやまとゆ」は亡母との約束を果たすことから始まりました。そして本作「あきづしまやまとゆ・弐」は大和国との約束を果たすことで、終わります。記紀神話にも多く登場する誓ひ(うけひ)です。
 伊弉諾尊と伊弉冉尊が黄泉の国でした誓ひ。天照大神と素盞鳴尊が高天原でした誓ひ。最後まで守られたもの、守られなかったもの、約束事の末路はまちまちですが、約束という概念が古くからあるこの国に、自身もまた生まれ育ったことを、改めて思う3年半だったように、今ならば感じられていますね。

 なお前作同様、本作中では万葉歌人や記紀に登場する人物、神様などのお名前は、基本的に亡母との会話の中での呼称をそのまま使わせて戴いています。ご気分を害された方には謹んでお詫び申し上げたく思います。

 たくさんの方にお力添え戴きましたが、とりわけ最大の危機だったパソコンのハードディスク・クラッシュの際、既出部のデータを届けてくださったNさんと、いまはなき@nifty文学フォーラム7番会議室「いまのは倶楽部」のすべての関係者に、心からの御礼を申し上げます。

 みなさまの変わらぬご健筆を、お祈りいたします。ありがとうございました。

                               2006年10月22日
                                遼川るか 拝






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