やがてこの長が海賊に殺されてしまい、替わって出雲から渡来した大山祇神の一族の出雲鞍山祇之大神の息子・沖津久斯山祇神が隠岐を統治します。彼は於母島(島後の主島)に鎮座し、全島は長らく平穏だったとのこと。
 けれどもその平穏は、出雲国を於漏知(おろち)が攻め、奪い、さらには渡海して隠岐にまで押し寄せたことで破られます。出雲から近い三子嶋(島前)の住民たちは、みな我先にと於母島へ逃げ込みます。そして島前は陥落。続いて於漏知は島後へも、攻め込みます。
 こうして島前と島後。三子嶋と於母島間、という小之凝呂島(隠岐)を2分する長い長い戦が始まりました。

 時の小之凝呂島の長は宇都須山祇の神。踏鞴で鉄を鋳造する於漏知は、数は少なくともとても手強く、流宮加須屋の大神祇に援軍を要請します。
 流宮加須屋の大神祇は息子の奈賀の大人に武器や兵糧をたくさん持たせて流宮を出発。ようやく於母島にいた於漏知たちを破りますが、於漏知の軍勢は、なおも衰えずに於母島に来襲します。結局その後も子孫5代に渡って戦は続きました。

 やがて奈賀の大人から6代目の大人(奈岐の命)の時になると、於漏知たちの勢力にも衰えが見え始め、大人は出雲の大山祇の娘を娶り、援助を受けながら於母島を平定。続いて三子嶋も無事に平定し、隠岐全域に神々を配置します。
 ...余談ですが、於母島の西岸を司った神の名前は海人比等那公。この子孫は天平期まで栄えた、とのことですが、はい。あの美豆良麿と恋仲だった娘が、
「比等那公娘」
 でしたね。

  

 美豆別之主の神。またの名を小之凝呂島命、あるいは水若酢命は、天つ神の子どもにして、小之凝呂島の中心地・奈岐の浦に鎮座していた奈岐の命から、小之凝呂島譲り受けます。そして率いてきた久米部・織部・工部・玉造部などの民と一緒に、島内を開墾。農作を奨励するとともに島の西岸を防衛。そして全島がようやく平穏を取り戻します。
 重栖の地は港として出雲や丹波、などとの交通の窓口となる一方で、半島との最終補給地
としても栄えます。そういう穏息の湾であることから穏息、あるいは穏座と書いて於母須(重栖)と読んだ時期もあったとのことですが。

 一方、水若酢神社の祭神の1座に中言神、という名前がありますが、伊未自由来記によると、美豆別之主の神(水若酢命)と交代して隠岐を治めた奈賀の命の別名、ということになっていますね。またもう1座の鈴御前とは彼の妻となった丹波の須津姫、とのこと。
 ここまではいいのですが、驚いたのがこの奈賀の命、すなわち中言神。どういう訳か阿遅鍬高彦根命の息子である、とされていまして...。

 阿遅鍬高彦根命。記紀に謳われる天孫降臨に関連して登場する国つ神で、系譜上は大国主の息子です。まさか、ここに彼の名前が出てくるとは思ってもいませんでした、いやはや何とも。
 とは言え、妙に納得してしまうのは、上古の時代はともかく後の世では阿遅鍬高彦根命とほぼ同一視されていたのが奈良は葛城の一言主神、つまりは言離の神。また、阿遅鍬高彦根命と兄弟(つまり同じく大国主の息子)である事代主神は御巫八神の1座にして言葉の神です。奈賀の命が中言神という別名なのは、こういった国つ神系の系譜を汲む存在である、とされているからなのでしょう。

 お話を続けます。その後、垂神期と景行期に御名代部や田部屯倉が定められたり、神功皇后の三韓出兵に際して美豆別之主と一緒に渡来した久米部たちも従軍。応神期には国造も定められます。十揆の命というのですが、この妻だったのが伊未自姫、美豆別之主の神の娘、とされていますね。そして伊未自とは現在の島後東北部の沿岸一帯の地域のこと。
 加えてこの十揆の命。実は今日、後で訪問する予定の玉若酢命神社と関わりがある、とされている存在です。

|意岐国造
|軽嶋豊明朝の御代に、観松彦伊呂止命の五世孫・十揆彦命を国造に定め賜ふ。
                       「先代旧事本紀 巻10 国造本紀」


 国造・十揆は開墾を進めます。また、この頃は異国からの来襲が増えていたことから、防備を堅固にし、島民たちには衣類や薬を分け与え...。漂着する者たちの救済にも務めながら隠岐全島を統治していったのだそうです。

 何だか随分、延々と隠岐創生伝説を語ってしまいましたが、この手の神話や伝説は、何も伊未自由来記に限らずとも、記紀にしても旧約聖書にしても、展開が唐突過ぎてそこに整合性を求めてしまうと、一歩も進めなくなります。...要するに細かいことはさておき、そういうものだ、として流れを追えばいいのですが。
 しかしながら、この創生伝説をどう読むのか、という点については各人に赦されている楽しみの領域でしょう。斯く言うわたしも、わたしなりに感じたことを書き綴ってみます。

 1)木の葉比等という先住民は大陸側より来た。

 2)続いて海人が渡来し、木の葉比等と混交。海人が島を掌握。

 3)続いて島を統治したのは、出雲より来た大山祇神(国つ神)縁の存在。

 4)於漏知来襲。

 5)援軍は流宮加須屋の大神の縁者。但し流宮加須屋の大神とはどの系譜の存在か不明。

 6)その流宮加須屋の息子の6世孫である大人と出雲大山祇の娘が
  婚姻・共闘して於漏知撃破。

 7)天つ神の子である水若酢命が、大人より隠岐を譲り受ける。

 8)続いて水若酢命は国つ神の子の奈賀の命に隠岐を譲る。

 9)倭国による中央集権政治に、隠岐も組み込まれた。

 伊未自由来記の記述を箇条書きにしてしまえばこうなります。そしてこの中でも、特に謎なのが於漏知と流宮加須屋の大神、でしょう。ごめんなさい、わたしには全く判りません。
 幾つかの解説なども見ましたが、まさしく諸説紛々で於漏知=おろしあ、ということでウラジオストクあたりから攻めてきた異国人ではないか、というもの。流宮加須屋の大神とは流宮とは竜宮、つまりは琉球ではないか、というものまでありましたが。

 ただ、そういった細部ではなくて、全体的に底流しているものは、何となく感じられるんですね。例えば全島を襲った於漏知ですが、最終的には弱体化して隠岐の民と同化していった、というような記述があります。

|〜かようにして全島は平穏に帰し、於漏知も温和になり、高志、丹波、端野、出雲との
|交通もひらけ〜
                          金坂亮「伊未自由来記聞書」
                 ※焼火山公式ホームページよりの孫引きです。


 ...どうやら完全に追い払ったわけでも、殲滅したわけでもないようです。つまり、半島側と本土側、天つ神と国つ神、果ては敵対したはずの於漏知に至るまで、様々な立場と血の系譜が交じり合って、それだからこそ何処にも偏らない由来。隠岐とはそういう土地なのだ、とする意思が何となく見え隠れしているような気がします。
 水若酢命が隠岐を譲り受けた処で終われば、日本と同じ国譲りです。けれども隠岐はそれがさらに二転三転していますから。

 個人的には於漏知、とは倭から派兵された軍隊だろう、と考えています。鉄の鋳造技術を持っていた以上、大和王朝かさもなくば大陸側からの派兵と考えるのが妥当でしょうし、けれども出雲から来襲しているわけですから。
 また同様に、流宮加須屋の大神とは半島側の存在だろう、とも感じます。こちらは一切の根拠を持ちませんが、倭王朝に対抗するとすれば手近な援軍は半島側から。こう思うのも定石ではないでしょうか。

 倭王朝、つまりは天つ神であり大陸渡来の弥生人系列のものに襲われた島を、半島側と国つ神であり南方渡来の縄文人である出雲が連合軍として退ける...。すでに混交・混血は進み、それぞれの立場の者たちも、敵対するものの血を引いていたのでしょうし、そういうもはや系譜も出自も一切関係なく、ただ暮らすべき地と豊かさを求めての戦い。
 奪うということ、奪われるということ。けれども同時に与えるということ、与えられるということ。創生とは本当に隔離と越境の連続なのだと思います。それが何処の地であろうとも、です。

 それからもう1つ。こうして隠岐の創生伝説を自分なりに読み解くように、古事記も、日本書紀も、風土記も、どれもこれもを読み解かなくてはならないのだ、と。
 正史とされているから、という論拠は学術の世界のものであって、わたしが求めているものとは必ずしも合致しません。...そう、正しさなんて求めていないのです。わたしが欲しいのはただ、わたし自身の納得だけなのですから。


 本殿前まで来ると、水若酢神社が思っている以上に小さいことが改めて判ります。ともあれ、ここで恒例のおみくじを1つ。出たのは、古歌紀行を始めてから初の凶、でした。
 個人的には、おみくじの凶や大凶は、それほど嫌じゃないんですね。むしろ
「ああ良かった...」
 とも感じます。凶兆ですから、少しばかり周囲を注意する気になりますし、逆を言えば事前に用心せよ、と教えてくれているように感じるんですね。...どうやら、この旅には波乱がありそうなので、きちん参拝しなければならないでしょう。

 お話は前後しますが、前述している通り伊未自由来記は現在、偽書とされている文献です。そしてわたし自身も、それに同意しています。ですが、こちらも前述していますが、文献自体が偽書であっても、そこに収められた記述や伝承までも否定する必要性は、全く感じていません。
 この水若酢神社に関しても、ともあれ延喜式が編纂された時代には、もう存在していたという事実がありますし、その当時から祀られているのは記紀に登場しない神であることも、
動かせません。

|隠岐国十六座。
|        (中略)
| 隠地郡三座。 大二座。小一座。
|  天健金草神社
|  水若酢命神社 名神大。
|  伊勢命神社  名神大。
                           「延喜式 巻10 神祇10」


 例えば、大陸側から見れば東の海に浮かぶ島(倭)があって、それ自体が独自に国だと主張していても、大陸からすれば属国あるいはいち地方、という認識があったとしたならば、同じように本土から見て海の北に浮かぶ群島(隠岐)があって、その群島がどれほどに独立精神を以てして一国である、と主張しても本土側からすればやはり、いち地方にしか過ぎない...。
 そういう図式が描けるわけで、そしてそれは半島も、大陸も、本土も、同じように考えていても不思議ではないでしょう。

 果たして伊未自由来記が偽りなのか。それとも記紀が偽りなのか。はたまたすべてが偽りであり、同時にすべてが正解でもあるのか。立ち位置を何処にするかによって、まるで万華鏡のようにこの地の歴史は姿を変えます。
 参拝していて、相変わらずいつもと同じことを祈りながらも、心の何処かが鈍く痛みました。
「ごめんなさい」
 こんな感情は厭らしいもの、と判っています。ですが、それでも、そう思えては知らず呟いてしまうわたしでした。この隠岐、という土地そのものへごめんなさい、と。

 もう少し水若酢神社について書きます。最初の時、つまり前もっての知識が一切なかった状態で、この水若酢神社という名前を眼にするやいなや思い浮かべたものは変若水。...はい、若返りの水として上代文献に登場するあの水と、もう1つはたまたまパソコンの文字の誤変換で気づいた水湧かす、でした。しょってるつもりはありませんが、この2つ。かなりいい線をいっているのではないか、と感じています。
 そして、もしこれらがそう大外れをしていない、としたならばいずれも根底にあるのは水神信仰となります。だからなのでしょう、隠岐へ上陸する前から
「きっとこのお社は川の近くにあるんじゃないかなあ」
 とぼんやりと思っていたんです。

 これは実際に訪ねてみれば一目瞭然。わが意を得たり、でした。重栖川やそれと合流する山田川など、周辺に複数の川なり、支流なりがあってしかもそれらがほぼ1〜2km圏内で合流しています。川そのものの規模は違えど、「あきづしまやまとゆ・弐」で書いた奈良の広瀬神社の立地に似ているのかもしれません。
 けれどもその一方で、社伝にある通り、主祭神は海中から出現して山を越え、この地に鎮座したわけですから、これがまた少々悩ましいですね。

 何でも白鷺か白鳩の鳥の姿をした神だった、とのこと。...山を越える鳥神、というと最初に思い浮かぶのは吉野を越えた八咫烏になりますけれども、そうなればなったで山岳信仰とも関連してしまいます。...伊未自由来記の記述通りであるならば、山の神である大山祇の系譜と血縁である大人から、水若酢命は隠岐を譲り受けていますから、辻褄は確かに合うのですが。
 恐らくは、そもそもの山岳信仰に、農耕が進むにつれての水神信仰が習合された、ということなのでしょうね。そして、その大元となった山岳信仰の対象になっていたのが水若酢神社の北東に聳える大峯山(508m)なのだ、と。

 ただ、水神なのか、山神なのか、ということよりは一番着目したいのが水若酢神社の主祭神・水若酢命が海中より現れて山越えしたのちに鎮座した、とされる渡来神である点です。そしてそれは、水若酢命から隠岐を譲り受けた中言神(奈賀の命)も、さらにその後を譲り受けた十揆の命も同様で、しかも十揆の命は国造です。
 流刑地、そして忌部氏というある種の“まつろはぬもの”である隠岐の印象が、十揆の命の国造就任によってまるでぷつん、と途切れてしまったような感触を、個人的には拭えません。つまり十揆の命以降は“まつろふもの”としてあるわけで、けれどもその舞台はここ・水若酢神社ではなく、玉若酢命神社であるということになるでしょうか。

 忌部氏が宮司を勤める水若酢神社はかつて、あくまでも“まつろはぬもの”であり、その旗頭でもあった...。古語拾遺をものした斎部広成と、伊未自由来記の原典をものした隠岐忌部氏。この符号とも呼べる一致を、ただの偶然としてしまってもいいのでしょうか。それとも歴史は繰り返すものとするべきなのか、氏族の精神風土とするべきなのか。
 あるいは、中央集権という社会体制がそれほどまでに酷薄なものだった、ということなのかも知れませんね。多分にまつろふ・まつろはぬ、は結果論に過ぎないものでしかありませんから。ただ、信念を持つものにとっては、自身のそれと時代のそれが合致したのか、しなかったのか、ということの結果であって、まつろはぬこと自体を企図し、望んでいたわけではないでしょうから。

 まつろふは
 天をし頼むゆゑなれば
 まつろはざるも違はじて
 天をし頼む術ならむ
 世にふたつなき天なりて
 世にふたつなき地なれど
 天は天ゆゑさはにあり
 地は地ゆゑふさありて
 さてもな問ひそ
 まつろふとふこといかなるを
 なほなほし
 あはにな問ひそ
 まつろはぬこといかなるか
 ゆゑよしを
 みづよ流れむ
 風ふかば吹け
 天つみづ降りて降り降れ
 降るなへに
 古り古りて
 古るればかつも
 世は世ゆゑゆきゆくかぎり
 ゆくなへに
 天かはるらむ
 地なほし
 しのかなはゆる日にこそ問はめ

 空蝉のひとの子らゆく世に天のなし
 瑞籬のかみと号びゐるもなほ天になし   遼川るか
 (於:水若酢神社)


 拝殿近くの枝に、お御籤を結びました。空はすっかり曇ってしまい、春先の淡い光が儚く広がっています。何者にも属さず、ただ隠岐であろうとした隠岐。けれども、歴史にそれを許されなかった隠岐。
 ただ、そのものとして在る、ということの気高さと、難しさ。そしてただ、そのものをそのものとして捉えることの柔らかさと過酷さと。哀しいのでしょうか、悔しいのでしょうか、正直なところ、よく判りません。ですが気づけば軽く、奥歯を食いしばっているわたし自身がいました。理由なんて、判りませんでしたけれども。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 水若酢神社のすぐ東側、隠岐郷土資料館はあります。隠岐でかつて使われていた農具や漁の道具類、食器や調理器具類といった生活民具と、隠岐の郷土芸能の面や小道具といった品々が陳列されている、とのことで個人的には特に芸能関係に興味があって立ち寄ってみました。
 しかし、実はこの郷土資料館。後から知ったのですが、わたしには垂涎の的とも思える、ものすごいお宝を収蔵しているらしいんですね。はい、それはあの、穏座抜記聞書と伊未自由来記聞書です。

 すでに隠岐から帰還して結構な時間が経ってから、このことを知ったので残念、というよりはむしろ、ただただびっくりしてしまったというのが嘘偽りのない処。もっともわたしが気づかなかったのか、あるいは判りやすい形で一般公開されていないのか、それらしきものを見かけた記憶も実はないのですけれども。
 たまたま訪問した時期が悪く、資料館の一部を改修していらっしゃるようで、ちょっと落ち着いて観覧できる、とは言い難い風情です。外装はシートで覆われ、内部の所々で作業者の方が使う、電気のこぎりや鑿、槌の音が響き上陸以来、ずっと感じていた静寂はここで破られました。生きている人の気配にしばしの安堵を。そして、かすかな落胆も、覚えます。

 板張りの床の軋みも懐かしく、全般的にノスタルジックな造りになっている資料館は、収蔵品が使われていた年代別ではなく、種類別という配置のようです。なので、わたしのような特定年代に興味の重心がかかってしまうタイプには、ともすると見たいものまで見落としてしまいそうで、ちょっと必死になってしまいまして。
 ...不思議な感覚だったんですね。上古の時代というのは今からおよそ1300年前です。当然、当時の生活民具などは石か、土、木、わずかな金属、そしてもしかしたら動物の骨で作られたものに限られますし、けれども木製のものは腐敗し、そうそう大量には残っているはずもありません。

                 

 なので、この手の資料館では当たり前のこととして木製のものなど、まず見てきていないわけでして。...出土している木簡は別ですけれども。
 ところがここは、時代別の展示ではないために木製の民具がたくさん目に入ってくるんですね。しかもそれらが青銅器や勾玉と隣り合って陳列されているのですから、このちょっとした違和感と衝撃はいやはや、何とも。

 でも。でも、そのまま展示品然として陳列されているものよりも、青銅器も勾玉も、土器も、本当に生きていた人々の生活に活用されていたもの、として体温があるようにも、わたしには感じられていました。
 どうしても文献や文芸、あるいは土地そのものにばかり興味の対象が向いてしまい、道具は道具、としてのみ見て、感じてきたわたしには、とても新鮮な空間がそこにありました。何となく、こういう郷土の歴史を伝える場所は本来、余所者よりもその郷土に育まれた方を待っている場所なのだろうな、とも感じてしまいましたね...。

 一方、芸能方面の展示品には、息を呑んでしまうほど惹きつけられました。隠岐には、隠岐独自の神楽であり、舞でもある郷土芸能が存在しているといいますが、その面や小道具の幣、玉ぐし、などなどが天上から吊られていたり、壁に掛けられていたり。
 実は、隠岐へ渡ってくる前日、出雲で出雲神楽を少し見学する機会に恵まれたんですね。また、地元の学芸員さんともほんの少しだけお喋りさせて戴いたんですが、曰く
「石見神楽と出雲神楽では、おなじ演目でも面も衣装も、演目の細部もみんな違うんですよ」
 と。...もちろん、それが当然のことなのでしょうが。

  

 一般に島根三大神楽と呼ばれているのが石見神楽・出雲神楽・そして隠岐神楽ですから、きっと隠岐のものも、石見や出雲のいずれとも異なっているのでしょう。残念ながら、今回の隠岐滞在では、隠岐神楽を観ることは叶いませんけれど、せめてその片鱗だけでも、と。
 ただ、見学していてふと思ってしまったのは、舞や歌といったものたちの表裏、あるいは陰陽にして明暗。正と負、だったのかも知れません。







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