万物に作用と反作用があります。そして万物は陰陽・正負をもってして成立もしています。わたしにとって、とても判り易い例ならば、言葉。つまりは言霊です。国見などで予祝は欠かせないことにして本質。つまり言霊も言葉も、その機軸はあくまでも“祝”におかれるべきものです。
 けれども同時にその逆も当然、成立します。祝う為の言霊で、祝いとは正反対のことをする...。そう“呪”です。予めよくなるように、と発する言葉は、されど考え方1つで予め悪くなるように、と発することもできるのは否定のしようもなく。

 数々の宮廷歌人を輩出し、体制を讃え、その一助ともなってきた歌は、けれどもそれを負の方向へ向かわせても、同じように隆盛することができる、という点です。舞いも同様でしょう。
 ...つまり、隠岐に伝わる神楽の小道具類を見ていて、佐渡に流された世阿弥を思い出してしまったんですね。そして、その佐渡の地は現在も街のあちこちに能舞台が残り、市民能も頻繁に催されるほどの土地。

 素盞嗚の流された出雲にも、人麻呂が流された石見にも今なお続く神楽はあります。...いや、むしろ神楽などは本来、どの土地にも存在していて、けれどもそれが現代まで継承されているか、否か、の差異なのでしょう。佐渡の能も然り、です。
 であるならば、それを継承させる力とは何なのか。一体、何がこれらを継承させて来たのでしょうか。

 結局、この答えこそが“うつたふ”ということに他ならないのでしょうね。言挙することができない鬱屈を舞いに、歌に、載せることで人は昇華してきたのでしょうし、だからこそその反対に言挙できることである讃美を舞いに、歌に、載せることで昇華・継承できた例だってきっと多数あるでしょう。
 けれども、そういった種々の思いたちは時代を経ることで舞そのものへの、歌そのものへの、思いもまた生み出します。育みもします。

 鶏と卵ではやはり卵が先であるのがこの世界の摂理です。けれども、その卵が鶏を生み、その鶏がまた卵を生むのもまた、違えようのない摂理にして道理。その繰り返しの中で生命は進化し、同時に退化します。世界も進歩し、同時に衰退します。
 当たり前のことです。改めて言うまでもなく、最初からそうあった事実。

 先にあったのは文字ではなく、言葉でもなく、思いです。国境でもなく、天下の正道でもなく、生活です。科学とは発見するものではなく、あくまでも追認し解明するもの。けれども同時に、そこにただ当たり前としてある世界が、
「何故そうなのか、何故そうあるのか」
 と感じられる、という疑問は、発見です。発見でしかありません。そして、その発見こそが思いの産み落とす卵。

 万物は循環します。食物連鎖という大きな、大きな螺旋状の循環があるように、思いも、世界も螺旋のままに循環し、留まることなく進み続けるのみ。
 ...何故なんでしょうね。まるで自分が、ここへ来るべくして来ているような錯覚に襲われていました。いや、何も運命めいたことではなくて、そういう循環に身を任せたならば、ここに流れ着いても不思議ではない、といいますか一切の理知や論理も飛び越して、
「うん、だからわたしはここに来たんだ」
 と思えてしまいました。何の違和感もなしに。

|葦原の 瑞穂の国は
|神ながら 言挙げせぬ国
|しかれども 言挙げぞ我がする
|言幸く ま幸くませと
|障みなく 幸くいまさば
|荒礒波 ありても見むと
|百重波 千重波しきに
|言挙げす我れは
                        柿本人麻呂「万葉集 巻3 3253」
|磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ
                        柿本人麻呂「万葉集 巻3 3254」


 けだしけふにこにあらざらばいつにかあるらむ
 けだしこにあれあらざらばあれの知るらむ         遼川るか
 (於:隠岐郷土資料館)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

|乙巳、詔して曰はく、
|「朕、薄徳を以て忝くも重き任を承けたまはる。政化弘まらず、寤寐に多く慚づ。古の
|明主は、皆光業を能くしき。国泰く人楽しび、災除り福至りき。何なる政化を修めて
|か、能くこのこの道に臻らむ。頃者、年穀豊かならず、疫癘頻りに至る。慙懼交集りて、
|唯労きて己を罪へり。是を以て、広く蒼生の為に遍く景福を求めむ。故に、前年に使
|を馳せて、天下の神宮を増し飾りき。去歳は普く天下をして釈迦牟尼仏尊像の高さ
|一丈六尺なる各一鋪を造らしめ、并せて大般若経各一部を写さしめたり。今春より
|已來、秋稼に至るまで、風雨順序ひ、五穀豊かに穰らむ。此れ乃ち、誠を徴して願を啓
|くこと、霊荅ふるが如し、載ち惶り載ち懼ぢて、自ら寧きこと無し。経を案ふるに
|云はく、
|『若し有らむ国土に、この経王を講宣し読誦し、恭敬供養し、流通せむときには、我
|ら四王、常に来りて擁護せむ。一切の災障も皆消殄せしめむ。憂愁・疾疫をも亦除差
|せしめむ。所願心に遂げて、恒に生歓喜を生ぜしめむ』
| といへり。天下の諸国をして各七重塔一区を敬ひ造らしめ、并せて金光明最勝王
|経・妙法蓮華経各一部を写さしむべし。朕また別に擬りて、金字の金光明最勝王経
|を写し、搭毎に各一部を置かしめむ。冀はくは、聖法の盛、天地とと与に永く流り、
|擁護の恩、幽明を被りて恒に満たむことを。その造塔の寺は、兼ねて国華とせむ。必
|ず好き処を択ひて、実に久かるべし。人に近くは、薫臭の及ぶ所を欲せず。人に遠く
|は、衆を労はして帰集することを欲はず。国司等、各務めて厳飾を存ち、兼ねて潔清
|を尽すべし。近く諸天に感け、臨護を庶幾ふ。遐邇に布れ告げて、朕が意を知らし
|めよ。また、毎国の僧寺に封五十戸、水田一十町施せ。尼寺には水田十町。僧寺は、必
|が廿僧有らしめよ。その寺の名は金光明四天王護国の寺とせよ。尼寺は一十尼。そ
|の名は法華滅罪の寺とせよ。両寺は相去りて、教戒を受くべし。若し闕くること有
|らば、即ち補ひ満つべし。その僧尼、毎月の八日に必ず最勝王経を転読すべし。月の
|半に至る毎に戒羯磨を誦せよ。毎月の六齋日には、公私ともに漁猟殺生すること得
|ざれ。国司等、恒に検校を加ふべし」
| とのたまふ。
             「続日本紀 巻14 聖武天皇 天平13年(741年)3月24日」


 霊長類ホモサピエンス。すなわち、わたしたち人間のことですが、その異能とも言うべき力と、けれども同時に、どこまで行っても世界の中のいち種族に過ぎない、という無力さをこうも感じさせる記述。...大袈裟ではなく、個人的には他にあまり思い浮かびません。
 はい、天平13年に聖武天皇が発布した、全国に国分寺と国分尼寺を造成するための詔です。現代語訳されたものも、あちこちで見られますが原文の訓読みは、やはり迫ってくるものが断然違います。...聖武は苦しかったのだな、としみじみ感じてしまいますね。

 あくまでも21世紀の日本をベースにこの詔を読むならば、当時の人間の非力、つまりは苦境にあって神仏に縋ることしかできない様が最初に認められるでしょう。政教一致の時代です。...といって、現代に言う政教分離の法則が必要となった要素からさえも、まだまだ遠い時代のことですから、政教一致というよりは分離しようもない、なかった、あるいはそのものであった頃の人間を、人によっては滑稽ととるかもしれません。あるいは逆に憐憫の情でも寄せるのでしょうか。...いや、それ以上にそんな仮定に意味を見出さないのでしょうね。
 けれどもその一方で、当時の人間は大した工作機器など持たない身でありながら、七重の搭や古墳を建ててしまえるほどの、それこそ自然界に於いては異能以外の何物でもない力を持っていました。「さゝなみのしがゆ」でも同様のことを書いた記憶がありますが、現代人が当時の環境で同じ作業をしたら、果たして成し得るのか、と。...無理だと率直に感じます。

 祈る以外に術などなく、だからこそ全てを排してでも推し進めた国分寺・国分尼寺の建立。各地でそれらが実際に完成したのは実に30年後だった、とされていますが逆を言えば、それくらい国運の全てを賭けた大事業だった、ということでしょう。もちろん、この後にも仏都・紫香楽や大仏などの造営事業は続くのですけれども。
 ...が、そんな大事業ゆえに却って仇となってしまったことは、すでに歴史を学んでいるわたしたちは知っています。

 どうも、各地の国分寺に立ち寄ると、何度も何度も同じことを考えてしまう自分がいます。それくらい、崩壊してゆく天平の光と影は、わたしに何かを語り続けているのでしょう。ですが、正直なところまさかここ・隠岐でもこの感慨を味わうことになろうとは思っていませんでした。いや、つまりは隠岐に国分寺がある、とは思っていなかった、ということなんですが。
 前述している通り万葉期、隠岐や佐渡、対馬などは国として認められていました。ですから、冷静に考えれば国分寺と国分尼寺、それから国府、他にも一ノ宮あたりならば隠岐にもあるのは当然のことで、実際に一ノ宮へはすでに出向きました。ですが、少なくともこの隠岐という群島を訪ねようと思う以前には、そんなことを考えもしなかったのが、正直なところなのです。
 わたしが隠岐国の国分寺の存在を明確に認識したのは、隠岐へ来るほんの1ヵ月前。ある新聞記事が最初でした。曰く、
「隠岐国分寺全焼」
 と。...2007年の2月下旬のことです。

 隠岐郷土資料館を出て、主島唯一の国道458号を南へ走ります。本当は時間に余裕があったなら、ここで島の西側へ出て景勝地を幾つか訪ねたかったのですが、そんな余裕はありません。時刻はすでに3時近くて、この後に予定として控えている絶対に外せないポイントのことを考えると、景勝地を訪ねるよりも、先へ進むことが寛容、とほぼ即断できました。
 上代文学とはさほど深い縁がある、とは思っていなかった隠岐群島も、いざ出向く段になって色々と調べ始めれば、限られた時間内で周りきれそうになくなるほどの興味が、次から次へと湧いてきます。中でも特に心惹かれたのが隠岐国分寺で、けれども皮肉なことにその存在を認識できたのは、存在が危ぶまれる哀しいニュースによって、です。果たしてこれは縁がないのか、それともあるのか。正直、よく判りませんでしたが。

 信号もなく、交通標識ではない地域の案内標識もあまり見かけないこの島で、それでも出ていた大きな標識に従って左折します。緩やかな坂の右上には、どうやらお土産物の売店と
何かの建物。後から知ったのですが、この建物は隠岐名物の牛突きの為の木造ドームだったようです。
 一方、坂の左上にはこんもりとした木々の茂み。おそらくはあの中が国分寺なのでしょう。件の火事では本堂が全焼してしまった、とのことでしたがどうやら周囲までは巻き込まれなかったようですね。

 隠岐国分寺。もちろん、建立のきっかけは前述している聖武の詔ですが、実際の国分寺がいつ完成したのか、明確に語っている記述とは行き会えていません。ですが、中世。建武の新政の立役者とされている後醍醐天皇が、それよりも以前に隠岐流罪。隠岐国分寺へ身を寄せていた、という説話は残っています。
 増鏡にこうあります。

| 海づらよりはすこし入りたる国分寺といふ寺を、よろしきさまにとり払いて、
|おはしまし所に定む。
                        増鏡「第16 久米のさら山」


 余談になりますが増鏡は所謂、四鏡の1つ。作者不詳の歴史物語です。大鏡・今鏡・水鏡・増鏡、の順で取り扱っている時代が新しくなり、同時に成立年代も新しくなります。つまり、四鏡の中では増鏡が最後の時代を綴っている、ということですね。
 しかし、改めて考えてみるまでもなく、この増鏡は隠岐と縁が深い文献です。何せ増鏡は隠岐配流になった後鳥羽天皇の時代から始まって、最後もまた隠岐配流となった後醍醐天皇が隠岐から京都へ戻る処で終わりますから。
 実際の歴史としては、鎌倉幕府が源氏ではなく事実上、北条氏によって司られるようになった頃から、その鎌倉崩壊・北条氏滅亡の直前までの期間を、あくまでも京都の皇室サイドから書き綴っているのが骨頂、でしょう。ただ、ここでは増鏡について特別深くふれようとは思いませんけれども。

 お土産物屋さんの駐車場に車を停め、国分寺境内へと向かいます。ちょうど、参道の脇から入り込むような感じでお寺さんの壁とちょっとした茂みの間を抜けると、最初に目に付いたのが小坊主さんの描かれた看板。明確な文言までは記憶していませんが、要するに
「不本意ながら文化財保護のために拝観料をいただいています」
 というようなことでした。
 なるほど。ならば、と小銭をポケットに用意し顔を上げれば、隠岐国分寺の山門と山門脇の小さな窓口の存在に気づいたのですけれど、どうも様子が変です。窓口は閉ざされ、カーテンまで引かれています。そのうえ張り紙がありました。
「当分の間業務を停止いたして居ります。史跡のみご随意にご参拝ください」
 と。

               

 実は、島後上陸直後。白島崎へと向かう途中で道に迷い、たまたま野良仕事されていらっしゃった地元のお母さんに、わたしは道を尋ねたのですがその際、少しだけ隠岐国分寺さんのこともお喋りしていまして。何でもご住職さんは火災後、すっかり気落ちされてしまい、臥せっていらっしゃるのだとか。...この張り紙の意味もそういうことなのでしょう。
 不謹慎だとは思いつつも、ふいに思い出してしまったのは昨夏、訪ねた近江の紫香楽宮跡です。聖武の崇高すぎる理想から造営され始めた、仏教都市。けれども、まだ全体が完成してもいないうちから地震と山火事が続き、結果的には放置されてしまった幻の都。またもう1つ思い返してしまったのが、「あきづしまやまとゆ・弐」で書いている浮田の杜荒木神社。あそこは台風によってお社が大きな被害を受けてしまっていました。

 言うまでもなく地震も、火災も、台風もすべては自然というものの本来の姿。わたしたち生命を産み落とし、あたたかく育んでくれる自然は、けれども同時に巨大な牙を剥き出しにしてわたしたちを苛みます。
 古来、この国に限らず世界各地で自然発生した神話に、必ずと言っていいほど善神と悪神、あるいは神としての区別はなくともその魂に温かさと、荒々しさが存在していたのは何故か。そう、まさしく日本神話に記載されている「荒魂/あらたま」と「和魂/にぎたま」ですが、その現れが1つ、この山門の奥に居続けているのでしょう。そして、人間という生き物の滑稽なまでの無力さと、人間という生き物の神々しいまでのしなやかな強さを、その形の中に宿しているのだ、と思います。

 山門を潜ります。そして視界にあったものは、左手すぐの手水舎と敷地奥の石碑や看板類のみ、でした。本来ならば、今わたしが立っているこの位置からの視界で、一番存在感を主張していたであろう本堂は影も形もなく、残っていたのは土台の石組みと礎石たちと煤で不自然に黒くなった地面...。
 全焼してしまったことは、もちろん知っていました。ですが、知っているだけのことと、実際がイコールであるはずもなく、哀しいという感情すらも涌いてこないくらいぽかん、と立ち竦んでしまいました。

 

 神奈川帰還後に、かつて本堂が存在していた頃の、隠岐国分寺の画像を見ました。それによれば決して広いとは感じられないお寺さんなのに、わたしの中の隠岐国分寺はやけにすこん、と抜けのいい印象ばかりが強く、逆を言えばそれだけ、堂々たる本堂だったということなのでしょう。
 鎮火後、すでに1ヶ月ほど経過しているはずなのに、焼け跡特有の酸っぱい匂いがどことなく感じられ、ますます胸の奥をぎゅっと締めつけてきます。ともあれ、先ずは視界の奥に見えている石碑や看板類の確認からです。

 個人的に興味が惹かれた碑は、「後醍醐天皇行在所址」と彫られたものと、「史蹟隠岐国分寺境内」と彫られたもの。因みに後者の隣には文部省の看板も立っていて曰く

|天平年間聖武天皇の詔勅により建立せらる
|元弘二年四月御到着より三年閏二月御還幸に至るまで凡一ヵ年後醍醐天皇の行在
|所にして其の間護良親王とも連絡せされて中興の偉業を盡し給ひたる處なり
                         隠岐国分寺境内文部省看板




 と。そうです。ご存知の通り、後醍醐天皇が隠岐流罪になっていたのは鎌倉倒幕から建武の中興、そして南北朝へと続く激動の時代の始まる前。むしろ、この看板が言うように、ここより劇的な帰還を果たしてから、良くも悪くも歴史に名高い、あの後醍醐天皇へとなってゆくわけです。そういう意味では、なるほど。ここでの鬱屈とした日々が彼に齎した底力のようなものが、存在していたのかもしれませんね。
 ですが、それも含めて思うのは、時代という大きな摂理、あるいは世界の意志と人間の存在、でしょうか。天平を支えられなかった聖武。鎌倉倒幕は果たすも長くは続かなかった南朝を興した後醍醐。思いという熱は力を産み、力は得てして何らかの形を興し、造ります。けれどもその形はいずれ衰える。いや、もっと言ってしまえばある種の淘汰のようにして、すべての力も、形あるものも、いつか必ず絶える日が来ます。

 抗うこと、受け容れること、流されること。人の望み、願い、そしてうつたふもの。この半ば灰燼に帰してしまった史蹟の真ん中で、一番感じていたのは、何故なんでしょうね。
「ひとはやっぱり独りなんだよ」
 ということでした。何故、そう思ったのかはさっぱり判りませんでしたけれども。

 瑞籬の神な賜ひそ
 空蝉のひとな欲りそね
 とこしなへ
 とこしへにしてとことはのなにをかなどや
 たれもたれ
 たれゆゑにしてもろひとは
 ひとりなるもの
 世にひとのさはにあれども
 もろひとのひとりなるもの
 綿津見は広きものなり
 天つ空の高きものなり
 地ぬくく懐かしきもの
 いかへらば
 いたどるごとく
 いついづれゆかるるものや
 いついづれ会はゆるものな
 ひとりゆゑゆきてまた会ふものにして
 失すは失するるそがまにまにを

 無きことはなほ無きものか在るものか 無けれども在るこそ無きならめ 遼川るか
 (於:隠岐国分寺境内)


 前述もしていますが、石碑には「史蹟隠岐国分寺境内」とはあるものの、実際に天平期、ここに国分寺が建立されたのは、明確になっていません。そういう文献が現段階では見つかっていないんですね。だから後醍醐の時代のものが、それと判る最古となっているのでしょう。
 因みに、この史蹟と焼失した本堂は全く同じ場所という訳ではなくて、本堂の方が山門寄りの位置になります。ちょうどお隣同士、くらいの距離です。加えて今はなき本堂ですが、建てられたのは昭和のようですね。そしてこの平成の世に失われました。

 様々なニュースを読んだ範囲では、隠岐国分寺の火事は、本堂もさることながら文化財として保護されていた隠岐蓮華舞の衣装や面が失われたことが問題だったらしく、先の山門手前で断り書きされていた、拝観料を要する文化財とは、これらのことだったのでしょう。
 であるならば、逆にそれらが失われてしまった今だからこそ、拝観料はお支払いするべきだと感じました。再現するにはかなりの費用が掛かるらしきことを、野良仕事されていたお母さんも洩らしていらっしゃいましたし。

 拝観料。隠岐国分寺は大人300円でしたか。ほんの微々たるものにしかなりませんが、それでも...。そう思って、境内と隣り合う、おそらくはご住職のお宅だと思いますけれど、その庭先で作業していらした方に、その旨を伝えました。すると、玄関から
「住職、お客様です」
 と、ご住職を呼んで下さいまして。促されるまま、玄関の引き戸からお宅の中を窺うと、奥からゆっくりと歩いてこられる男性がひとり。...隠岐国分寺のご住職その人でした。

 ...厳密に言うと、ただ復興・復元のささやかな一助として、という思いだけではありませんでした。確かに、わたし個人にとってみれば、各地を巡っている古歌紀行はとてもとても大切なライフワーク。そして、旅というものはたとえ同じ土地を訪ねたとしても、すべてが一期一会のうえに成立します。
 天気の違い、季節の違い、時間帯の違い。たったそれだけのことでも、視界に現れてくれる光景は全く別のものに変わり、その1つひとつとが初めての出逢いです。同じ土地とても、何度も何度も出逢いなおしてゆく。それが、それこそが、わたしにとっての旅に他なりません。

 なので、たまたま焼失からたったの1ヶ月というタイミングで、この地を訪ねてしまったこともまた、わたしにとっての一期一会。二度はないのです。
 ...不謹慎だ、と自覚しています。不遜だ、とも判っているつもりはあります。ですが、わたしはそれでも焼け跡が目に厳しい隠岐国分寺の本堂跡を、撮りました。撮っただけではありません。必ずわたしはこれを、Web上に公開します。









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