大宝令に始まり、捺した際の見本と使い方までも指示された印。その3年後、あくまでも中央が造り、諸国へと給付するのみという形をとり、新たに正倉ができる度に、中央が給付したものです。
 そんな本来ならば、総社社家が持つものではなかったはずの駅鈴と印が、それでも総社社家が持ち、所蔵し続けたが故に、今ある偶然。ここに、歴史というものの悲喜こもごもが宿っている、ということなのでしょう。

 流刑地・隠岐。でもそれ故に辿れた今日までの道。記紀ではなくあくまでも独自の創生やその他の伝説を綴った伊未自由記や穏座抜記が映し出した光と影の、光の部分とも言えた億岐家すらも、流刑地という大前提のうえに在るしかできませんでした。
 ではそもそも、流罪とは何なのか。中央とは何か、地方とは何か、遠いとは何か、近いとは何か。そんな疑問が鼓膜の奥で、繰り返し繰り返し響いているのを感じていました。...感じ続けることしか、できずにいました。

 鈴が音のはゆまむまやの鈴鳴しし
 いにしへとほし
 いやとほに
 いやとほながし
 空蝉のひとの世なれど
 皇神の世は世でありき
 そのかみに
 神にならまくほしきとも
 神をし得まくほしきとも
 思ひしをのこは間なくあり
 間なく在りては
 ほりしもの
 なほなほなほしほりしもの
 けふにて鳴すは
 叶はざり
 けふにて得るも
 叶はざり
 ほりしもなくて
 ほるもなく
 けふに在るてふかぎりゆゑ
 いにしへとほし
 いやとほに
 いやとほながし辺となりたるを

 どよもすはとどろなりしかけふ知らにけふ在るものの奇と思へり  遼川るか
 (於:億岐家)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 西郷港に程近い、小高い場所にある宿を出て、坂道をのんびりと下っていました。隠岐上陸から1夜明けて、ようやくきちんと太陽を見られたかな、と感じるお天気。けれども、予想以上の寒さに、ついつい早足になってしまいながらも、前日見かけた隠岐騒動勃発地の碑を通り過ぎます。
 昨日、億岐家を後にして港近くへ戻り、先ずはレンタカーを返還。その足で宿へチェックインしたのち、港周辺をぐるりと歩いて周りました。地元のショッピング・センターで細々としたものを幾つか買い、同時にいつも旅先に限って襲われる必要もないものが急に欲しくなる衝動を宥めては、それでも何かが物足りず...。いま思うと、旅という恐怖が少し緩んだからこそ、だったのでしょう。だから、落ち着きはすれど、何かが物足りない、と。

 結局、昨夜はその流れで旅先では珍しくそれなりに値の張る食事をしつつ呑んでしまいました。本当に、珍しいことなんですけれどね。...思い返すとこんなことをしたのは、やはり熊野以来でした。あの時も、宿に到着した途端、緊張の糸が切れたかのように落ち着かなくなって、呑まずにいられなかったものです。
 旅という恐怖。それは大和でも、甲斐でも、上総でも、近江でも...。いや、恐らくは訪ねたすべての地で大なり小なりは感じ、直面もしてきているのだと思います。ただ、それを恐怖と明確に認識でき、そのうえ意思の力でそれを抑え付けて行動した後は、アルコールが欲しくなってしまう習性のようです、わたしは。

   

 そんな風に港周辺を漫ろ歩いていて見つけた隠岐騒動勃発地の碑。...島後を去る前に、この隠岐騒動について簡単に触れておきます。
 江戸時代最後の年となった1868年。この年の9月から元号は明治と替わっているのですが、当時はまだ幕府の直轄地にして、松江藩の預かり地であった隠岐で、尊皇攘夷思想の志士に率いられた島民たちによって、松江藩隠岐郡代が島から追放される、という事件が起きました。
 幕末、それも末期も末期になると異国からの黒船来航は、日本近海各地でかなりの回数になっていて、各藩では独自の防衛体制を敷いていました。隠岐でも松江藩指揮による島民による農兵組織がつくられ、また
「隠岐の防禦を講ずべし」
 という朝命も松江藩には下っていたんですね。

 ところが、元治元年(1864年)、隠岐の島後は西郷港に突如、黒船1隻が現れます。黒船は6時間後には西郷港から去りますが、それでもその間の松江藩の無策・無能ぶりは島民たちが悲憤にかられるほどのものだった、とのこと。折りしもこの頃、農民たちは重税に喘ぎ苦しんでいたというのに、松江藩士たちは遊蕩三昧。すでに情勢は攘夷運動としての島兵、などという状態ではなく、その農民たちによる一揆がいつ起きても不思議ではない有様。結果として松江藩は農兵の組織を諦めて、島民の中でも裕福な家の者たちで新農兵を組織し、事実上は外敵よりも内乱へ備え始めます。
 ですが、この措置が島民たちの憤懣をさらに煽ってしまいます。元々が後鳥羽院や後醍醐天皇といった皇室関係者に縁深い隠岐の地は尊皇思想が強く、松江藩に組することはその反対の佐幕となってしまいます。そういう意味からも、そもそもが相容れない要素をたぶんに持っていたのでしょうね。

 慶応3年(1867年)、島の攘夷派たちは島民自らの手で、文武両道を研鑽すべき拠点としての文武館設立を松江藩に嘆願するも結果は却下。ならば、と上京し直訴を、と企てたのが翌慶応4年(1868年)の2月のこと。けれどもその途上で長州藩の取調べを受けることとなり、情勢はすでに徳川慶喜の追討令が下ったことを知った隠岐の志士たちは、急ぎ帰還。かつては幕府直轄地であった隠岐も、すでに天朝御料となったこのタイミングを逃さずに、松江藩郡代の追放を、となったわけですね。ですがこの時、血気に逸っていたのはあくまでも島後であって、島前では庄屋などの主だった者たちは松江へと避難してしまったようですが。
 因みに、島後志士たちによる松江郡代の追放。実は追放ではなく、首を斬るべきだと主張した少数過激派も存在していたようです。しかし、それを抑えて追放という決を採ったのが、当時の一ノ宮である水若酢神社宮司の忌部正弘です。...そして郡代一行は島より放逐。ここからが隠岐の隠岐による隠岐のための自治の始まりです。

 藩からの支配を脱し、独自に自治組織を作り上げてゆく島後の人々。けれども最も大切な朝廷からのお墨付きがまだ、という状態に島民数名が、陳情上京をしたところ、京都で会った松江藩士たちからも、避難していた島前の庄屋たちからも、隠岐はすでに松江藩の預かりとなった旨を聞かされます。事実の確認を図るも審議中、という回答しかえられず、膠着状態のまま2ヵ月が経過。けれども、内実はすでに朝廷の太政官から松江藩に、当面は隠岐を取締ってほしい。しかも取締りは厳に、との書状が渡っていたらしく、同年の5月初旬には、すでに松江藩士たちが島後へと続々と到着していました。
 隠岐自治政府の拠点をぐるり、包囲した松江藩。
「藩の支配は断固拒否。太政官よりの書状を示せ」
 と、守りを固める隠岐自治政府。小競り合いが続く中、ついに藩兵が発砲します。隠岐自治政府とは言えど、そもそもは竹槍片手に、という農兵たちです。発砲されたら敵う術もなく、自治政府の拠点は陥落し、松江藩が奪回。島民側の戦死者14名、負傷者8名、捕縛投獄者は19名。そしてたった80日間の自治政府は、夢のように、泡沫のように、潰えてしまいました。そして、9月。時代は明治を迎えます。

 但し、この後日談もあります。鳥取・長州・薩摩各藩の介入で、松枝藩兵は撤収せざるを得なくなり、6月には再び自治政府が復活。11月には隠岐の所管が正式に松江から鳥取藩へと移行し、翌明治2年(1869年)2月、隠岐県が成立します。つまり、この時まで隠岐自治政府は存続した、とも言えるんですね(8月には大森県に統合)。
 そしてその時、着任した初代隠岐県知事が尊皇派だったことから、今度は島後で徹底的な廃仏毀釈運動が吹き荒れます。...余談になりますが、隠岐国分寺はこの時に本堂から仏像にいたるまで、ことごとく焼失してしまっています。
 そして明治4年(1871年)、明治新政府は隠岐騒動の指導者たちへ正式に処分を下し、同時に松江藩に対しても、厳しい処分を下しました。同年には廃藩置県の行われ、その後は鳥取県と島根県の間で隠岐の移管が繰り返された後、明治9年(1876年)にようやく島根県として定まりました。

                           

 上古に軸足をおいているわたしは、決して幕末の動乱に明るくはありません。ですが、時代が変わる時に噴出する人々のエネルギーと、けれどもそのスピードにはついてゆけない新時代のシステム。...世界中のあらゆる土地と歴史の中で見られる1つの典型、と言い切ってしまうのはあまりに冷淡だとは思いつつも、そういわざるを得ません。
 時代を変えるのは人々のエネルギーであって、それなしには時代は変わらず、けれども時代の変革というのは破壊と創生あるいは構築という、2局面によって成立します。破壊までは勢いで進めます。たとえばそれがクーデターであろうと、革命であろう、何であろうと、です。けれどもその後から始まる創生、あるいは構築。この過程は試行錯誤の連続です。そして、その過程こそが変革の真価を問われる、とも言えるでしょう。

 すでに明治は遠く、昭和すらも遠ざかりゆく21世紀にして平成の今、フェリー・ターミナルで聞こえてくる人々の会話が
「あれ、本土に出かけるのん」
「いやいや、別府にね」
「日帰りで」
「1晩泊まり」
 と、本土も、島前も、島後も、すでに違和感なく和合しあっていることに、部外者ながらそっと安堵してしまう朝。フェリーに乗り込み、丸い船窓から西郷港を眺めます。
 前日、上陸したのは正午前後でしたから、滞在時間は24時間に及びません。20時間少々、でしょうか。ですが、1日にも満たない時間の中でも鮮やか過ぎる何かを放つ地は、この世にたくさんあります。...いや、もっと言うならばどの土地も何かを放っているのでしょうし、けれどもそれは受信する側によっては、感じられる地と感じられない地があって。

 それまでの波とは明らかに違う、細かな振動が身体に伝わります。西郷港も次第々々に遠ざかっていって。
「次は、いつ来られるだろう」
 駆け足だった為に立ち寄れなかった隠岐の島後各地。もう一度、もう一度でいいから来たい。もう一度...。

|見えているのに渡れない境界と、地続きだけれど見えない境界と。もしどちらかを
|選べと言われたなら、わたしはどっちを採るだろうか。
                    遼川るか「なつそびくうなかみがたゆ」


 そういえばこんなことも過去に書いていますね。ちょっと考えればすぐ来られる距離でしかない隠岐です。遠い遠いと言ったところで大阪からは飛行機も出ていますから、こんなに独りで盛り上がらなくてもいいことくらい判っているのですけれどね。
 それでも名残惜しく、離れがたく、後ろ髪引かれる隠岐の島後もやがて見えなくなりました。春の晴れた海をフェリーは進みます。かすかに眠い...。目覚めたら、主島とは違った新しい島との出会いが待っています。

 海ゆかば海ゆくなへに光満ち満つ
 影あらばすなはちくぬが島と呼ばはり

 玉鉾の道とは海処くぬがにかぎらず
 みなひとは綿津見ゆ来ぬはろはろにゆく

 さざれ波立ちても居てもゆくを助けむ
 いづへかはたれとて知らでただ波のむた

 とほければちかきはいづへあれな問ひそね
 くぬがとはくぬがのかぎり島とはなにそ

 ちさきとはちさきかぎりやおほきはなにそ
 おほきとはちさきならじてこにかひのあり

 思ふことで得らるる地にもかひなきはなし
 ひと呼ばふしはきはみなりしは境ひなり

 境ふとふかなしびいつに消ゆるものかや
 かなしびゆ生るるうれしびあるを知れども

 知りてのちの空いかなるや海いかなるや
 なほなほしあをはあをなり誣ひずともただ

 あをなれどかたみに違ふさにつらういろ
 名問はさね答ふればそに生る境ひゆゑ

 船あまりいかへりまたも思ふ境ふてふ
 あれ呼ばふ名こそくぬがや島ならざらめ   遼川るか
 (於:島後から島前へ向かうフェリー船内)


  

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 船窓から、三郎岩が見えました。ならばもう、菱浦港もすぐでしょう。やがて流れ出す、隠岐の民謡。乗船客の一部は下船の支度を始めましたが、大半はまだのようです。恐らくは菱浦の次に停泊する予定の西ノ島の別府港か、本土の七類港を目指している人々なのでしょう。中ノ島ではなく。
 今日もスケジュール的なはかなりハードです。午前中で中ノ島を周り、島前3島間を行き来している小型フェリーで西ノ島へ渡って、島内を見て周るというもの。夕方には西ノ島の別府港に、中ノ島で借りたレンタカーを乗り捨てるわけですが、こちらのタイムリミットが6時。昨日の島後での経験からすると、きっと恐怖にさらに襲われるだろう、と。...それだけはいやに揺ぎなく確信していました。

                  

 中ノ島に上陸します。きっとそう遠くない時期に、全面的な改修をしたのでしょう。いま考えると隠岐4島のうち、港周辺が一番観光地然、としていたのがここ・中ノ島でした。そういえば、来る前も島ごとに1日2回もレンタカーを手配するなんて、あまりにも不経済ではないのか、と考え込んでいた時に、西ノ島で乗り捨てていいですよ、と教えてくださったのが中ノ島の観光協会さんでしたね。
 前日とは打って変わって、軽く汗ばむような春の陽気です。西ノ島へのフェリーの時間を気にしつつも、中ノ島探訪に出発します。

 菱浦港から海沿いを北東に進む形で伸びる道路。恐らくは中ノ島の主幹線道路ではないか、と思うのですがそのまま進むことほんの数分。海士町役場の斜向かいにかなり風格の在る構えの鳥居と参道がすっくりと存在感を放っています。隠岐神社です。
 事前の調べものでは、昭和になってからの建立だとされていたお社ですね。昭和14年に後鳥羽院の没後700年を記念して、後鳥羽院の火葬塚の隣に建てられたのだ、と。当然ながら祭神は後鳥羽院、その人です。

  

 祭神・後鳥羽院。...流石に、彼くらいの時代の人になるとわたしの個人感覚ではもう、神ではないですね。天平末期の伊勢斎宮だった井上内親王くらいまでなら、それでも何とか神と括れるかもしれませんし、天神様。つまり菅原道真もまた何とか神としても違和感はないのですけれども。
 そもそもわたしは神奈川在住にして、上古以外ならば歴史としは鎌倉時代、好きなんですね。それも源3代ではなく北条氏を始めとした、様々な武家たちには、それなりに思い入れもあります。だけに、後鳥羽院や後醍醐天皇は幼少期からずっと“向こう側のひと”という印象が前提にありました。...今でこそ、そこまで極端な思いはないですけれどね。

 だから隠岐という地の、それも後鳥羽院や後醍醐天皇の流罪と縁が深い島前に自分が巡り合わせで来ていることも、何処か不思議なようで、そうでもないようで、何だかふわふわと実感がなく、駐車場に車を入れてもいまだぼんやり。どうしても越えられない薄い膜越しに世界を見ている気がしていました。
 隠岐神社は参道がそこそこ長く、といってありがちな玉砂利が敷かれた1本道ではありません。元々あった森なり林なりを拓いて建立したのでしょうか。参道両脇には桜並木と、様々な潅木がかなり無秩序に生え、ざらざらと玉砂利よりはるかに細かい小石を敷いただけの参道はわずかにカーブもしています。...流石に桜にはやや早いようです。

 途中、ここでもまた土俵が造られていて、その横を通過します。そういえば隠岐に着てからみた土俵はみな、拝殿へと向かう参道の左側に造られていることに、かすかな興味を抱きつつ、小石に足をとられてはゆっくりゆっくり。西郷港をでる時も、菱浦港に着いた時も、すっきりとした晴天だったのに、なにやら春先特有の淡い曇天に変わり始めた空を、ぽけっと見仰いではまた、ゆっくりゆっくり。
 やがて現れた石段を軽く登り、隠岐神社境内へ。両脇の潅木が一気に拓けて、歌碑と花が点在しています。さらに現れた階段を上って門を潜り、拝殿手前へと足を踏み入れた途端、気づきました。

 「...風が変わった」
 古歌紀行を続けていると、本当に不思議な思いに駆られることが度々やってきます。巡り合わせとして、もうその土地に呼ばれている、としか思えない、感じられない経験はほぼ全ての訪問地でしていますし、それとは逆に訪ねようとしているのに、何故か巡り合わせで訪ねられない。まるで、
「いまはまだ来てはいけないよ」
 と言われているかに思え、感じる土地もまたあります。今回の隠岐も、たまたま私用が出雲であって、さらにたまたま私用、とまでは言えない。でも、どうせ出雲まで出向くのならば、出雲よりもここで隠岐を訪ねる方がいい、と思える出来事があって、わたしは来てしまいました。恐らく、出雲の用事がなければ来ていませんし、隠岐の用事がなくてもまた、わたしは来なかったでしょう。たまたま、ほぼ同時期にこの2つの土地での用事が重なったために、わたしは敢えて出雲ではなく、隠岐訪問を選択しました。

 何が、呼んでいたのでしょうか。正直、判りません。ですが、隠岐へくる直前まで書いていた近江の古歌紀行文「さゝなみのしがゆ」に小野篁が登場し、また駅鈴に関連した壬申の乱も、藤原広嗣の乱も、そして恵美押勝の乱も関わっていたことは事実。さらには

| そもそも、ここが島であり、同時に島よりも大きな大陸というものが世界にはあ
|る、ということをこの国の人々はいつから知っていたのでしょうか。史実として明
|確であろうものは遣隋使あたりから、となりますか。
| ですが、隋に人材を派遣するという発想からしてすでに、島であることを知って
|いたからこそのもの。邪馬台国の金印。雪野山古墳から大量に出土したという鏡た
|ち。魏志倭人伝と倭国の5王。その5王、讃・珍・済・興・武は履中天皇から雄略天皇まで、
|とするのが有力です。履中は、あの億計・弘計の祖父となります。
| 本当に、いつから...。
                        遼川るか「さゝなみのしがゆ」


 こんなことまで、書いていたことは動かしようがありません。...いや、逆にだからこそわたしは出雲ではなく隠岐を選んだ、ということなのでしょうか。いずれにせよ、こういう半ば吸い寄せられたかの如く感じる土地では、必ずといって良いほど
「ああ、ここが呼んでくれていたのか...」
 と直感してしまう訪問地が存在します。大和の三輪山、葛城の伝承地・高丘宮址、足柄の足柄神社旧址、竹生島はもう島そのものが呼んでくれていた気がしましたし、甲斐では酒折宮の古天神、走水神社の万葉歌碑には目が啓く思いすらしました。茅渟では、近江では、熊野では...。書き出せばきりがありません。それらと同じです。ここに来て。隠岐神社に来て、風が変わった瞬間に感じました。
「ここが呼んでいたんだ...」
 と。

                  

 先ずは拝殿へゆき、参拝からです。いつものように願いごとはひとつ、ゆっくりと唱えて。続いてお御籤。水若酢神社でも引いていますが、ここでの巡り合わせに引きたくなりました。そして出たのは小吉。
「道は遠い、勉学せよ」
 とのひと言に思わず笑ってしまうほど安堵している自分が不思議でした。でも、確かに何かに安心している自分がいます。ずっと、自分の中の何かが怖くて、でもそれが少し緩んだといいますか。
 気づけば感じていたはずの薄い膜のようなものが消えています。うすぼんやりとしか感じられなかった世界が、また一気に元通りの濃さと圧とで迫ってきています。ようやく後鳥羽院というひとについて、少し考えられそうな気がしていました。







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