正があるから偽あり、大があるから小がある。高いがあれば低いがあり、正統があれば異端もある。概念というものはどこまでも二元論によって成されます。そして哀しいことに、二元論というものはものすごく単純にして明快な錯覚を惹起します。すなわち、正は偽よりよく、大は小よりよく、正統は異端よりもよし。...そんなことなんてないのに、です。
 かくいうわたし自身もまた、そういった数々の錯覚やまやかしに日々、惑わされ続けています。隠岐の主島上陸時には、大陸ではない島は哀しいとすら感じました。何故。大きいことがよいこととイコールではないし、大きいものには大きいもの故の哀しみがあることを、わたしはかつて詠んでさえいます。

|おほきいといふ哀しみに身を灼いて黙るくぢらよ 氷河を見たか
                          遼川るか「北帰行・南航路」


 自由。それは身体的なものではなく、魂の自由のことですが、人はいつになったら自由を獲得できるのでしょうね。二元論に付き纏う錯覚から逃れられないままでは、わたしたちも忌部と同じですし、孫悟空と同じです。魂の解放とはどうやったら叶うのか。
 ...あるいは、こんなことを真剣に考えてしまうことこそが、未だ誰にも見つけられていない神、という存在の仕掛けた罠なのかも知れません。

 神様が仕掛けた罠がはづせない もうすぐすべて落ちる砂時計
                              遼川るか(旧作)


 あれ思ひてあれ思ひ思ひて
 あれ知らず
 あれの知らえずあるものを
 号ならば神とせむ
 かつも世とせむ
 かなしびはひとなるゆゑの祝ぎにして
 なほし呪ひにほかならむ
 またうれしびもひとゆゑの呪ひと知りぬ
 祝ぎと知る
 世に天ありて地のあり
 きはみにあるはなにならむ
 しこそひとなめ
 ひとなれば
 いゆきもとほりいかへりて
 なほしゆきゆき
 ゆくなへにいかへるばかり
 瑞籬の神のなに思ふ
 なにをかを思ふや
 欲りすや
 いざ給へ
 いざ言祝がむ
 奉らむ
 世に神あらばあれよあれ
 世に神なくばなきもよし
 あれの欲りすはあが霊を象るものや
 あれ欲るはただに知るてふかぎりなむ
 知らまくほしや
 なほしなほ問はまくほしや
 あれなほしなほ

 世を知らにあれひと神を知らえじものや 
 あれ知らで世は知らえじをあれはし知れり             遼川るか
 (於:玉若酢命神社境内)


 ...とここまでは随分と忌部家よりの視点で書き進めてきましたが、当然ですけれど玉若酢命もそれを祀る玉若酢命神社の社家・億岐家がどうこう、と言っているのではありません。それどころか上古に軸足を置く者ならば、この億岐家歴代の方々に、心よりのお礼を何度も何度も伝えても足りないほどです。
 何故なのか。それは、億岐家がものすごいお宝をこの現代まで守り、伝えてくださっているからなのですが。

 座り込んでいた八百杉の根元から、ゆっくり立ち上がります。車はそのままにして、神社のお隣に立つ民家へ徒歩で。...はい、億岐家所蔵のお宝を、お宅の一部で展示してくださっているんですね。なので早速。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

|其の二に曰はく、初めて京師を修め、畿内国の司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬
|を置き、鈴契を造り、山河を定めよ。凡そ京には坊毎に長一人を置け。四つの坊に令
|一人を置け。戸口を按へ検め、奸しく非しきを督し察むることを掌れ。其の坊令には
|坊の内に明廉く強く直しくして、時の務に堪ふる者を取りて充てよ。里坊の長には、
|並に里坊の百姓の清く正しく強しき者を取りて充てよ。若し当の里坊に人無く
|は、比の里坊に簡び用ゐることを聴す。凡そ畿内は、東は名墾の横河より以來、南は
|紀伊の兄山より以來、西は赤石の櫛淵より以來、北は近江狹々波の合坂山より以來
|を畿内国とす。凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を
|中郡とし、三里を小郡とせよ。其の郡司には、並に国造の性識清廉くして、時の務に
|堪ふる者を取りて、大領・少領とし、強しく聡敏くして、書算に工なる者を、主政・
|主帳とせよ。凡そ駅馬・伝馬給ふことは、皆鈴・伝苻の剋の数に依れ。凡そ諸国及び関
|には、鈴契給ふ。並に長官執れ。無くは次官執れ。
               「日本書紀 巻25 孝徳天皇 大化2年(646年)1月1日」

| 甲申に、東に入らむとす。時に一の臣有りて、奏して曰さく
|「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を害らむ。則ち道路通ひ難からむ。何ぞ一人
|の兵無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣恐るらくは、事の就らざらむことを」
| とまうす。天皇、従ひて、男依等を返し召さむと思欲す。即ち大分君惠尺・黄書造大
|伴・逢臣志摩を留守司高阪王のもとに遣はして、駅鈴を乞はしめたまふ。因りて惠尺
|等に謂りて曰はく
|「若し鈴を得ずは、廼ち志摩は還りて覆奏せ。惠尺は馳せて、近江に往きて、高市皇子・
|大津皇子を喚して、伊勢に逢へ」
| とのたまふ。既にして惠尺等、留守司のもとに至りて、東宮の命を挙げて、駅鈴を
|高阪王に乞ふ。然るに聴さず。時に惠尺、近江に往く。志摩は乃ち還りて、復奏して曰
|さく
|「鈴を得ず」
| とまうす。
               「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)6月」

|戊子、大将軍東人ら言さく、
|「今月一日を以て肥前国松浦郡に広嗣・綱手を斬ること已に訖りぬ。菅成以下従人已
|上と僧二人とは正身を禁め大宰府に置く。その歴名は別の如し。また、今月三日を以
|て軍曹海犬養五百依を差して発遣し、逆人を迎へしむ。広嗣が従三田兄人ら廿余人
|申して云はく、『広嗣が船、知駕嶋より発ち東風を得て往くこと四箇日にして、行き
|きて嶋を見る。船の上の人云はく、是れ耽羅嶋なり、といふ。時に東風猶扇くに、船海
|中に留りて肯へて進み行かず。漂蕩ふこと已に一日一夜を経たり。而して西風卒か
|に起り、更に吹きて船を還しぬ。是に、広嗣自ら駅鈴一口を捧げて云はく、我は是れ
|大きなる忠臣なり。神霊我を弃つるか。乞はくは、神力に頼りて風波暫く静かならむ
|ことを、といひて、鈴を海に投ぐ。然れども猶風波弥甚し。遂に等保知駕嶋の色都嶋
|に着きぬ』といふ」
| とまうす。広嗣は式部卿馬養が第一子なり。
              「続日本紀 巻13 聖武天皇 天平12年(740年)11月5日」

|時に道鏡常に禁掖に侍ひて甚だ寵愛せらる。押勝これを患へて懐自ら安からず。乃
|ち高野天皇に諷して都督使と為り、兵を掌りて自ら衛る。諸国の試兵の法に准拠し
|て、管内の兵士国毎に廿人、五日を番とし、都督衛に集めて武藝を簡閲す。奏聞し畢
|りて後、私にその数を益し、太政官の印を用ゐて行下す。大外記高丘比良麻呂、禍の
|己に及ばむことを懼りて、密にその事を奏す。中宮院の鈴・印を収むるに及びて、遂
|に兵を起こして反く。
              「続日本紀 巻25 淳仁天皇 天平宝字8年(764年)9月」


 これらの記述に共通して登場しているものがあります。それは鈴。といって、もちろんただの鈴ではありません。はい、駅鈴です。習慣としていつから存在していたのかは、わたしは知りません。が、制度として定められたのは大化の改新の時。つまり、当時の諸国と関にはこの鈴が配され、国から国へ、あるいは交通の要衝である関を、早馬が越えようとする際の身分証明として機能したものです。...逆を言えば、当時唯一の乗り物とも言えた駅馬や伝馬を使用するには、国なり関なりを司る者の許可が絶対的に必要だった、ということになりますね。急使として早馬を駆る者は駅鈴を響かせながら、関や国境を下馬することなく越えていったのだと思います。
 なので、この鈴は歴史の中である一定の事態の記述に多く登場してしまうことになりました。前記引用のものは前から、

 1)大化の改新の詔

 2)壬申の乱に於ける天武軍が駅鈴を得ようとするも得られなかった場面

 3)藤原広嗣の乱で、広嗣が駅鈴を海に投じて自らの正統性を天に訴えるも
  天は彼に味方しなかった場面

 4)恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱の際、押勝が駅鈴と印を手に入れようとする場面

 です。...そう、つまりは謀反を起こす側の者にとっては、逃げるにせよ、進むにせよ、諸国と諸国の境や関で、足止めされることはすなわち、捕縛されることと同義ですから、どうしても駅鈴を手に入れて一気に通過しなければならなかったわけですし、同時に鈴を所持していることで自らの正統性の証としたかった、と。
 いやはや、何ともこの手の御印というのは三種の神器を筆頭に、流転する時代の中で人々が欲しがる魅惑の果実の如きもの、だったのでしょう。

 そんな駅鈴も21世紀の現代では、その殆どが当然、失われてしまっています。...が、全国で唯一、ここ・隠岐国の駅鈴だけは現存。そしてそれを所蔵しているのが、他ならぬ隠岐国造の家系・億岐家、というわけです。
 個人的には、やはり一番印象的なのが壬申の乱の場面で、けれども鈴を最初から手に入れられなかった天武は討たれず、逆に手に入れられた広嗣や、ほんのわずかな間でも手に入れられた仲麻呂が討たれたあたりが、なんとも不思議な因縁を感じますが。

  

 億岐家の敷地内に足を踏み入れるも、余所様のお宅ですからどうしていいのか判らず、しばしうろうろした後、ようやく見学者用の入口と、呼び鈴を発見。そのまま進んでくださいとのことでしから、敷居を跨ぐとお宅の方が雨戸を開けている姿がありました。...どうやら、見学者がいない時は、展示しているお部屋を閉めてしまっているようです。それはそうですよね、何せ国の重要文化財を展示していらっしゃるのですから。
 やがて、解説の為に来てくださったご主人のお話を聴きながら、ガラスケース越しに駅鈴を見た瞬間は、自分が何だかぽかんとしてしまっていました。以前、「なつそびくうなかみがたゆ」でこんなことを書いた記憶があります。

|「...これが、馬来田の嶺ろなのか」
| ぶっちゃけてしまえば特別、珍しい光景ではありません。長閑な丘陵地の田園風
|景でしかなくて、それがどうだと訊かれたならば、わたしはきっとこう答えます。
|「いや、特には何も...」
| ですが、この古歌紀行の中で数少ない、当時とほぼ変わらないままの万葉故地で
|す。これがどれほど珍しく、貴重なものなのか。各地の万葉故地を周っているから
|こそ、知っているつもりです。
                    遼川るか「なつそびくうなかみがたゆ」


 上代文学をテーマに各地を周り始めてすでに数年。ですが、今から1300年、あるいはそれ以上にも及ぶ時間の流れの中で、当時のまま。まそしく、その当時のままで残っているものは山などの天然物が少しだけと、あとは歌。歌に込められた当時の人々の思いだけだ、とずっと思ってきました。
 ですがここにあったのです、当時のままのものが。確かに今、わたしの目の前にちょこん、と置かれていて。

 もちろん、この駅鈴は隠岐国のものであって、前記引用させて頂いているような場面で取り沙汰されたものとイコールではありません。隠岐国の駅鈴としては江戸中期、すでに芭蕉も没し、田沼意次の時代も過ぎ、解体新書も世に出たあと。天明の大飢饉の3年ほど後に、隠岐第40代国造幸生が上京・持参し、儒学者の西依成斎や医薬書を書いた並河一敬に調査を依頼した結果、その存在が世間に知られるようになっていますから、逆を言えば上古・中古・中世といった時代には、人々に全く知られていなかった、ということでしょう。
 ですが、それでも大海人が駅鈴を手に入れられず、半ば賊軍あるいは軍とも呼べないような風情で、雨の中を不破へと下る架空の映像や、壬申の乱平定後に鈴を手にする場面、押勝に、広嗣に...。そんな様々な映像が脳裏に浮かんでは消えてゆき、さらには鼓膜の奥で風の音、馬や人の足音、並みの音なども響いているようで、軽い眩暈に襲われていました。

  

 ご当主の解説は続きます。やがて駅鈴の音をテープで流してくださって。以前は実際に鳴らしていたらしく、けれどもそれを繰り返すと鈴の内部が磨耗してしまうことから、今はテープにしている、とのこと。もちろん、テープでも一向に構いません。
 大小2つある鈴の音は、想像していたよりはずっと高く、涼やかな響きで、正直これが謀反などのきな臭い事態にかかる急使が鳴らす音とは、ちょっと意外でしたが。...これ、現代人の音感覚だからこそ、なのかも知れないですね。車の廃棄音や工事の音など、とにもかくにも音の氾濫に晒されている21世紀のわたしたちは、どうしても
「こんな清らかな響きでいいのかしら」
 と思ってしまいがちなのかもしれません。もっと物々しい音が、溢れすぎていますよし。

 けれども当時。それも大化の改新の頃の社会を前提としたならば、そもそもそんな大音響を発しつつも人馬が支え、扱える大きさのものを、造り出せる技術も環境もなかったのでしょうが、それでも聞えなければ存在し続けられたはずもなし。すなわち、この音でも十二分に周囲が聞き取れたのが、当時だったということでしょうね。
 こんな万葉歌があります。

|題詞:先妻、夫君の喚使を待たず、自ら来りし時に作る歌一首
|左夫流子が斎きし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに
                         大伴家持「万葉集 巻18-4110」


 「左夫流子がお仕えしていた御殿に、駅鈴をつけない馬が里を轟かせてやってきた」
 早馬の足音が、里を轟かせるほどの響きだった時代。これに駅鈴の音が加わっていたとしたならば。果たして家持ならばどう表現したでしょうか。
 ...こういう時、いつも戸惑います。もう当時とは乖離してしまった音感覚の現代に生まれたことは、当時にはどうしても届かない、という現実を突きつけられているようで悔しく、けれども当時では絶対にできなかった感じ方をできているのもまた、この現代に生まれたが故の特権でもある、と思えて嬉しく。いつも、戸惑うのです。

 神奈川帰還後にたまたま古書として入手した資料に「隠岐国駅鈴倉印の由来」という冊子があります。古書、ですから当然ですが以前の所有者がいらしたわけで、どうやらその方が冊子に挟んでいたのでしょう。中に隠岐国分寺のご朱印や国分寺のリーフレットまであって、しかもそれらがすべてわたしが生まれた頃のものでした。
 かつて、わたしのように隠岐を訪ねた人がいて、その方は国分寺でご朱印とリーフレットを入手し、さらにはここ億岐家で冊子を入手し。

 記述だけで存在がほぼ確認されていなかった駅鈴が、江戸中期に突然、人々に知られるようになったことにしても、そしてわたしの手元に在る冊子とそれに挟まったものたちと。人間の命は長くても精々100年前後。しかし物は違います。
 確かに、1300年もの時間の中では変質なり消失してしまうのが本来の在り様ではあっても、逆を言えばそれよりも短い時間の中ならば、人々の手から手へと渡り、受け継がれ、それでも在り続けるのが、物の負った命なのでしょう。

 「上古から続くものなんて、きっと殆どない。かといって、復元したものは何となくグロテスクでどうなのかしら」
 そんな風に感じてきた自分です。上古と現代。この2点でしかものを感じられなかった自分なのです。それが今、その2点を繋ぐ時間の流れについて、ようやく少し触れることができたのかもしれません。知識ではなく、理屈でもなく、自然と感じるという意味で、です。

 駅鈴。制度としての廃止は、上古からではずっとずっと時代をくだった後の世になります。そしてその時まで、各地・各国の駅鈴は多くの歌に詠まれました。

|鈴が音の早馬駅家の堤井の水を給へな妹が直手よ
                         作者未詳「万葉集 巻14-3439」
|旅人の山越えわふる夕霧にうまやの鈴の音響くなり
                       家良「新撰和歌六帖 第2 山 626」
|道細き関のむまやの鈴鹿山ふりはへ過る友はふなり
         為家「新撰和歌六帖 第2 山 627」「夫木和歌抄 巻31 雑13 14882」
|浪ちもる須磨の関屋の夕霧に駅の鈴の音ばかりして
                            正徹「草根集 雑 9942」


 「鈴が音の」は早馬駅家(はゆまむまや)を導く枕詞。

 「万葉集」はご存知、上古にしてわが国最古の歌集ですが、新撰和歌六帖は鎌倉中期のもの、そして草根集は室町中期、と。どうでしょうか。これらの時代は世に知られていなかった隠岐の駅鈴を詠んだ訳では決してありませんが、それでも同じ駅鈴です。早い時期から枕詞にも使われ、掛詞としても詠まれ、それくらい象徴的に扱われるだけの存在だった、ということでしょうね。

  

 億岐家には他に、隠岐の倉印も収蔵されていました。こちらは全国でも但馬と駿河、そして隠岐だけに現存しているようですが、要するに隠岐という国の正倉の印です。正倉は、主要な倉の意、そして日本という国全体の正倉は、あの正倉院となりますね。けれども、それ以外にも地方各国の国衙(現在の県庁のようなもの)や寺院にもおかれていた正倉の印。主な役目は、公文書に捺すためのものだったのでしょうか。
 他にも、重要文化財や歴史的な意味をもつものがたくさん展示されていた中で、わたしが目が離せなかったのは、日本書紀の写本でした。...いつの時代のものかは判りませんし、もしかしたらそれほど古いものではないのかも知れませんけれど、思わずガラスケースに指紋を残してしまいそうになったくらい、はっとして手を伸ばしかけました。

                        

 億岐家を出て、玉若酢命神社の駐車場へ戻ると、もう辺りは暮れかけていました。後から知ったことなのですが、何故ここ・隠岐にはこんなにも重要なお宝が現存しているのか。他の国では失われてしまったものたちが、何故。
 その答えは、やはりここが隠岐だったからなのだ、といいます。つまり中央から遠く離れ、同時に流刑地だったということです。前述している通り億岐家は元々が国造の流れを汲んでいるとは言え、玉若酢命神社の社家です。時代が下るほどに隠岐国守や国司などは中央から任命・派遣されるのが通例で、駅鈴にしても倉印にしても、本来ならばそういった中央から遣わされた官人が使用・所持するべき。にも関わらず隠岐では、億岐家がそれを使用・所持しました。

 ...任命はされても、実際には赴任しない国守や国司が多かったのだ、と言います。中央から遠く海上遥か彼方10数里の地にして、流刑地でもあった隠岐に赴むくことが、忌避されてしまっていたのだと言います。だから、代行という形で億岐家が所持し、管理し続けた結果、この21世紀にも現存する重要文化財ともなり得ました。

|凡諸国給鈴者。太宰府廿口。三関及陸奧国各四口。大上国三口。中下国二口。其三関国。
|各給関契二枚並長官執。無次官執。
                       「養老令 公式令43条 諸国給鈴条」


 「諸国に鈴を給付するにあたって、大宰府に20口、三関及び陸奥国に4口ずつ、大上国に3口ずつ、中下国に2口ずつとする。三関の国には、それぞれ関契を2枚給付する。いずれも長官が管理し、いなければ次官が管理すること」
 養老令はこう定めています。隠岐は当時、中国と定められていて、後に延喜式で下国となっていますが、2つの駅鈴はこの養老令の通りなのでしょう。

|是の日、使を七道に遣して、新令に依りて政し、及、大租を給ふ状を宣べ告げ、并せて
|新印の様を頒ち付へしむ
               「続日本紀 巻2 文武天皇 大宝元年(701年)6月8日」

|夏四月甲子、鍜冶司をして諸国の印を鋳しむ
               「続日本紀 巻3 文武天皇 慶雲元年(704年)4月9日」

|辛巳、多嶋に印一面を給ふ。
                「続日本紀 巻6 元明天皇 和銅7年(714年)4月25日」







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