ごめんなさい。やはりこうやって見ていってもいま1つ判りません。期限が定められていない、つまりは終生遠島ということですから、ここに存在する遠いと近いの差異が、わたしにはどうにも...。あるいは、追放刑である以上は実際に刑を受ける側がどうこう、というよりはむしろ刑を執行する側。そちらの論理に則っているのでしょうか。曰く
「危険思想、あるいは天下に仇するものはより遠くへ。絶対に戻ってこられないくらい遠くへ放逐してしまいたい」
 と。...それならば、わたしにも納得はできますが。加えて、まだ罪を犯していない人々への見せしめ。いや、本質は見せしめによる体制維持であるのならば、と。

|庚申、諸の流配の遠近の程を定む。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土左の六国を遠とし、
|諏訪、伊豫を中とし、越前・安藝を近とす。
             「続日本紀 巻9 聖武天皇 神亀元年(724年3月1日)」再引用


 すでにご紹介していますが、流罪に遠中近が定められるようになったのは、天平期のこと。そしてこれは後世、より詳細にこう定められました。

|凡流移人者、省定配所申官、具録犯状下符所在併配所。良人請内印。賤隷請外印。其路
|程者従京為計。伊豆去京七百七十里・安房一千一百九十里・常陸一千五百七十五里・
|佐渡一千三百廿五里・隠岐九百一十里・土左等国一千二百廿五里、為遠流。信濃五百
|六十里・伊予等国五百六十里、為中流。越前三百一十五里・安藝等国四百九十里、為近
|流。
                           「延喜式巻29 刑部省式」


 くどくなりますが、三流。すなわち遠流・中流・近流の違いは、そのまま罪の軽重を表していて、遠いほど罪が重い、ということを明記している養老令の条文も引いておきましょう。

|獄令十二 配三流条:凡流人応配者。依罪軽重。各配三流。謂近中遠処。
                          「養老令 第29 獄令 12条」


 罪。これには犯す側と犯される側が存在します。罰。これにも課す側と課される側が存在します。後鳥羽院や後醍醐天皇はともかくとしても、少なくとも小野篁や、実在していたとすれば柿本美豆良麿は、大宝律や養老律に基づいて隠岐へ流されました。他に同時期の隠岐配流となった人物を少し調べてみたのですが、やはり軒並み八虐のうち第4以上の罪を犯していますね。
 恵美押勝の乱によって、押勝の末子・藤原刷雄が隠岐流罪(他の一族はみな死罪)。同じく押勝の乱で担がれた淳仁天皇(廃帝)の弟・船親王も隠岐流罪。造東大寺判官の葛井連根道は酒を飲んで当時の忌諱(憚りごと)を語った罪(謀大逆)にて隠岐流罪。藤原広嗣の弟・藤原田麻呂も、広嗣の乱に連座して隠岐流罪。平安初期では先ず小野篁。それから承和の変では伴健岑が隠岐流罪。

 ...そして、ここに驚くべき存在が名を連ねていることに、わたし自身も驚いています。いや、確かにそういう記述は読んだことが過去にありました。ですが、この隠岐に来る前も、来てからも。ごめんなさい、全く失念してしまっていたようです。それだけじゃありません。隠岐配流となった彼の名前を思い出した今、ようやくわたしは柿本美豆良麿伝説の本質に指先が届いたような気がしています。
 大和から奈良、そして平安初期に隠岐配流となった人物。その中には、こんな名も歴史に刻まれていました。大伴永主。...はい、歌に関わっていなかろうともその名を知らぬ者の方が、はるかに少ないであろう、人麻呂と並ぶ大歌人・大伴家持。永主は家持の息子、です。

 

|乙卯。中納言兼式部卿近江按察使藤原種継被賊襲射両箭貫身薨。丙辰、車駕至自平城。
|云々。種継既薨。乃詔有司、捜捕其賊。云々。仍獲竹良并近衛伯耆桴麿・中衛牡鹿木積
|麿。勅右大弁石川名足等、推勘之。桴麿欸曰、主税頭大伴真麿・大和大掾大伴夫子・春
|宮少進佐伯高成、及竹良等同謀、遣桴麿・木積、害種継云々。継人・高成等、並欸曰、故
|中納言大伴家持相謀曰、宜唱大伴佐伯両氏、以除種継、因啓皇太子、遂行其事。窮問自
|余党、皆承伏。於是、首悪左少弁大伴継人・高成・真麿・竹良・湊麿・春宮主書首多治比
|浜人、同誅斬。及射種継者、桴麿・木積麿二人、斬於山埼椅南河頭。又右兵衛五百枝王・
|大蔵卿藤原雄依、同坐此事。五百枝王、降死、流伊予国。雄依及春宮亮紀白麿・家持息
|右京亮永主、流隠岐。東宮学士林忌寸稲麿、流伊豆。自余随罪亦流。
              「日本紀略 前編13 桓武 延暦4年(785年)9月23〜24日)」


 日本紀略はこう語ります。曰く
「23日、中納言であり式部卿近江按察使でもある藤原種継が賊に襲われて矢を受け、身を貫かれた。24日、桓武天皇が平城より長岡京に帰る。云々。種継はすで薨じていた。そこで天皇は官司に犯人を捜し捕まえよ、と命じた。云々。やがて竹良と近衛の伯耆桴麿、中衛の牡鹿木積麿が捕らえられた。天皇は右大弁・石川名足らに取り調べるよう命じた。桴麿が白状した。曰く
『主税頭・大伴真麿、大和大掾・大伴夫子、春宮少進・佐伯高成、及び竹良ら謀り、わたくし・桴麿と木積麿を遣わして種継を襲いました、云々』
 継人・高成らは白状し
『故中納言・大伴家持が大伴佐伯両氏で種継を除くべきだ、とおっしゃったので、皇太子にお伝えし事を起こしました』
 と。残る関係者を厳しく尋問したところ全員が罪を認めた。主犯の左少弁・大伴継人、高成、真麿、竹良、湊麿、春宮主書首・多治比浜人は斬刑に処した。実行犯の桴麿、木積麿は山埼橋の南の河原で斬刑に処した。また右兵衛・五百枝王、大蔵卿・藤原雄依もこの事件に連座していた。五百枝王は本来死罪のところ減免して伊予国流罪。雄依及び春宮亮・紀白麿、家持の息子で右京亮・大伴永主らは隠岐流罪。東宮学士・林忌寸稲麿は伊豆流罪。残るものたちも罪の重さに従って流罪に処した」

|庚申、詔曰、云々。中納言大伴家持・右兵衛五百枝王・春宮亮紀白麿・左少弁大伴継人・
|主税頭大伴真麿・右京亮同永主・造東大寺次官林稲麿等、式部卿藤原朝臣乎殺之、朝
|庭傾奉、早良王乎為君止謀気利。今月廿三日夜亥時、藤原朝臣乎殺事尓依弖、勘賜尓
|申久、藤原朝臣在波、不安。此人乎掃退牟止、皇太子尓掃退止弖、仍許訖。近衛桴麿・中
|衛木積麿二人乎為弖殺支止申。云々。是日、皇太子自内裏帰於東宮。即日戌時、出置乙
|訓寺。是後、太子不自飲食。積十余日、遣宮内卿石川垣守等、駕船移送淡路。比至高瀬
|橋頭、已絶。載屍、至淡路、葬。云々。至於行幸平城、太子及右大臣藤原是公、中納言種
|継等並為留守。種継照炬催檢、燭下被傷。明日薨於第。時年四十九。天皇甚悼惜之、詔
|贈正一位左大臣。又伝桴麿等、遣使就柩前告其状。然後、斬決。
                 「日本紀略 前編13 桓武 延暦4年(785年)9月28日)」


 「28日、天皇は詔を出された。云々。中納言・大伴家持、右兵衛・五百枝王、春宮亮・紀白麿、左少弁・大伴継人、主税頭・大伴真麿、右京亮・大伴永主、造東大寺次官・林稲麿らが式部卿・藤原種継を殺害し、朝廷を転覆させて早良親王を天皇に戴くことを謀った。23日の22時頃、藤原種継殺害について取り調べさせたところ
『藤原種継がいるのは宜しくありません。排除しましょう、と皇太子に進言。皇太子もならば排除しよう、と許可されたので近衛兵士の桴麿と中衛兵士の木積麿の2人を遣って殺害させた』
 と白状した。云々。この日、皇太子は内裏から春宮に帰り、当日の20時頃には、宮から乙訓寺に収監された。以後、皇太子は自ら食を絶つ。10日余りして宮内卿・石川垣守らを派遣して、船で淡路へと移送しようとしたが、高瀬橋(淀川に架る橋)のほとりに差し掛かった時には、すでに絶命していた。遺体はそのまま淡路に到着し、淡路にて埋葬。云々。天皇が平城に行幸されにあたり皇太子と右大臣・藤原是公、中納言・種継らを長岡京留守官とされた。種継は夜も松明を照らして長岡宮造営工事を急がせ、検分していたが燈火の下で傷を負い、翌日自邸にて薨じた。享年49歳。天皇はこの事をとても哀しまれ、詔を出し正一位左大臣の位を贈られた。また桴麿らを召し出して種継邸に行かせ、柩の前で罪状を懺悔させた。そのあと2人は斬刑に処した」

 いきなり藤原種継殺害事件の核心部を引用してしまいましたから、前後の流れを簡単に。天平の本当に末期。すでに平安京の完成が9年後に迫っていた時代。時の天皇・桓武が平城京から京都の長岡京に遷都したのが延暦3年(784年)のことです。ですが、言ってしまえば遷都というのはいつだって遷都の詔こそ高らかに宣言され、その正面門に大槍と大楯が飾られたとしても、実質的にはまだまだ造営工事の真っ只中、というのが当たり前のお話。この時も、長岡京は未だ造営中で、しかも桓武が平城京に行幸することになっていたことから、造営工事の指揮をしていた藤原種継が昼夜を問わずに働いていたんですね。
 ...が、そんな松明下での造営工事現場で、彼は賊に襲われ射殺されてしまいます。そしてその下手人捜索が始まって、と。以下は上記引用している日本紀略の記述通りです。

 桓武は奈良時代最後の天皇となった光仁天皇の第1皇子ではありましたが、生母は渡来系でした。このあたりが何かときな臭い時代の火種となってしまったのは、いつの時代も同じこと。そもそも前代・光仁は100年続いた天武系皇統から逸れて天智系へと回帰した最初の天皇。そのうえ皇后・井上内親王と皇太子・他戸親王が廃后、廃太子になっているくらいですから、まさしく当時の皇室内は粛清・暗殺・謀略の温床です。...藤原氏が、時代の覇権を得るために、より自分たちにとって都合のいい皇子を担ぎ、不都合な存在を排除していた、ということです。

 余談になりますが、この一連の時代に暗躍した藤原氏の行いに対し、いいとも悪いとも、わたしは書く気はありません。歴史には答えなどなく、ただそういう時代があった、という事実、あるいは記述によってのみ垣間見ることしかできないものである以上、感想は語れても評価はできませんよし。
 それに藤原氏があの時代のサバイバル・レースに勝利したからこそ、現代のわたしたちが享受できている恩恵もまた、あることは動かしがたく。...好意的にはなれないのが実際ですけれどね。ですが、できるだけ感情論は排したいと思います。

 ともあれ、何やら不穏な空気を纏ったまま即位した桓武。その彼には同母の弟・早良親王と息子・安殿親王(のちに桓武の後を継いで平城天皇として即位)がいました。そして早良が皇太子でした。...弟と息子。この構図にあの古代史最大の戦乱を思い浮かべられた方も、きっと多いことでしょう。そう、壬申の乱の天武と大友です。
 詳しい経緯は寡聞にして知らないのですが、とにかくぶっちゃけてしまえば早良の存在が藤原氏には邪魔だったのでしょう。あるいは台頭してきた大伴氏や紀氏などを排除するための名目として、たまたま巻き込まれてしまったのか。いずれにせよ、藤原種継殺害事件で、大伴氏、紀氏はかなりの打撃を受け、同時に早良も失脚。無実を訴えるハンガーストライキによって絶命します。また、その後の長岡京には怨霊の噂が常に絶えず結局、10年後には平安京へ、と歴史の表舞台は移ってゆきました。

 藤原種継暗殺事件当時、家持はすでに他界していました。死後約20日ほどで、未だ埋葬もされていなかったといいます。しかし、この暗殺事件では彼が首謀者として名指しされ位の剥奪、及び除名に処されますし、彼の息子・永主も連座していた、として隠岐流罪。わたしが調べた範囲では、史料として家持の遺骨も、永主とともに隠岐へ渡った、としているものとは行き会えていませんが、そう書いている研究者の方もいらっしゃいますね。...確たることは書けませんけれど、首謀者であったならば都での埋葬が赦されたとはとても思えず、家持の遺骨が隠岐に上陸した可能性は、案外高いのではないか、とも考えます。
 そして、そうだとしたならば。...ごめんなさい、ちょっとわたしは息が詰まってしまうかも知れません。

 人麻呂と美豆良麿、家持と永主。大歌人にして、けれども配流に処されるほどの罪を犯した者同士。...単純すぎる発想なのかもしれません。短絡的なのかも知れません。けれども、この偶然とはとても思えない、奇妙な相似こそが美豆良麿伝説の本質を描いているように、わたしには感じられてならないんですね。
 つまり、美豆良麿という存在が実際に隠岐にいたか、いなかったのかは別として。すでに独り歩きしてしまっている美豆良麿伝説は、こうやってここ・隠岐で繰り返されたあまたの歌人たちの悲嘆や、望郷や、述懐。それらを静かに見つめ続けた隠岐の人々の間で、次第に語られ、育まれ、醸されていった流離譚そのものなのではないのか。..いや、きっとそうなのだろう、と。

                  

 隠岐で静かに暮らしていた、地元の人々が見つめ続けた視界。...大伴永主が来た。もしかしたら家持の遺骨も携えていたのでしょう。続いて小野篁が来る、後鳥羽院が来る、後醍醐天皇が来る、と歌人としても名高い存在やその縁者たちが隠岐へ来て、あるものは赦されて帰参し、あるものは隠岐にて没し、あるものは隠岐を脱出して。
 けれども、彼らが詠んだり、彼らが携えていたのかもしれない歌稿もまた、隠岐の人々にとっては忘れえぬものだったのでしょう。そういう土壌のうえに時代によって証明される人麻呂という歌聖の存在が島にも伝わります。さらには流罪になったこともまた、伝わったのでしょう。人麻呂伝説です。

 ですが、他の土地ならばともかく、ここ・隠岐にあっては人麻呂伝説はただ伝説としてのみ、受け止められるに留まらず流刑と、それに伴う悲劇もまたかつてこの島へやって来た流刑者たちに纏わる逸話と混同・習合。そして遂には美豆良麿、という存在が派生したのだ、と。そう考えるのは、決して無理筋ではないでしょう。
 大歌人の息子という出自は永主から。島の娘との悲恋は小野篁から、失意のままの病没は後鳥羽院から。そして何より、大津謀反への連座という経緯は、それこそこの島へと流された数多の思想・政治犯から。そんな様々なエッセンスから自然と紡がれた柿本美豆良麿伝説。それは、この隠岐群島の歴史そのものを負った伝説。そう言い切ってしまってもいい、とすらわたし個人は感じます。あるいは縦糸、と言うべきかも知れません。

 美豆良麿伝説の縦糸は、流刑地・隠岐の歴史そのもの、と。ですが縦糸だけでは伝説は織り上げられません。横糸は絶対に不可欠で、ではこの場合の横糸とは何か。...もうお判りだと思います。はい、それこそが他でもない歌でしょう。
 そもそも何故、隠岐配流となった存在たちには、こうも歌がついて回るのでしょうか。その解答はすでに書きました。つまり当時の刑法や道徳観、罰則などを照らし合わせればどうしても遠流の対象者は思想・政治犯となってしまいますし、そういった罪は一介の農民には思いつきもしないもの。一定以上の階級に所属する者のみが犯せた罪です。そして、それが可能な階級の嗜みなり、遊興なり、求道なりとして和歌は常に寄り添っていました。

 

 まだまだ歌謡と和歌の境界が不明瞭だった万葉初期ならばともかく、天平末期から平安、そして中世です。まさしく、この頃には市井の存在には縁遠い文字を使った和歌があり、一方の文字を持たない市井の存在たちには歌謡がある、と和歌と歌謡が乖離していった時代をこの島は、その両者の息遣いが聞こえるほどの近い距離感で生きてきたのでしょうね。そしてそんな土地だからこそ、美豆良麿が生まれた、とも言えると思います。
 歌、それは訴ふもの。失意の日々の中、気を紛らわせてくれるものは吐き出せない思いを訴える歌となるのは極めて自然な流れでしょう。新古今を成立させておきながら、この隠岐で再度、新古今を自ら編纂し直し、隠岐本新古今和歌集を成した後鳥羽院の思いが、ゆっくりとわたしの中へ入ってくるようです。

 罪を犯す側と犯される側。罰を課す側と課される側。その相対する立場を、隔てていたのは時の覇権だったのでしょう。そもそも、思想犯という概念そのものが大勢擁護という大前提があるからこそ存在しているわけで、けれども歌という存在が訴ふものであるならば訴ふ必要性がある者こそが歌を謡えた、とも言えるのかもしれません。もちろん、ここで言う訴えることとは何も政治的であったり、思想的でなければならない、というのではなく、あくまでも心情を訴える、ということ。そしてその必要性なのですが。
 例えば、直截の言葉にするのは憚られることを、歌にする。そこに喩が存在しているか、否かは別としても、少なくともこの差はそのまま散文と詩歌の差とも言える気がするんですね。...いや、たまたま現時点でのわたしがその点をあれこれ考えてしまっている、というのも事実なんですが。

 散文も詩歌もやっている者としての個人的感覚論では、散文はロジックに立脚し、詩歌はエモーションに立脚している、ということでしょうか。逆を言えば、ロジックで追えない散文は、散文としてどうなのか、と感じてしまいますし同時に、あまりに整合性のとれている詩歌は詩歌と言えるのだろうか、と。...いや、むしろ感覚的であり不条理であるほど詩歌は詩歌になれる、という気がします。
 ああ、ここまで書いてやっと気づきました。わたしはこれまで随分と、歌人・後鳥羽院に対して失礼な思いを抱いていたことになりますね。不条理あればこそ、詩歌。そう、その通りです。なのに北条氏贔屓だからといって、彼の歌を
「自分で挙兵したのだしねえ」
 とか
「もうちょっと、しゃきっとしようよ...」
 とか。これじゃあ、いけません。悔やんで結構、自業自得どんとこい。うじうじ、ぐじぐじそれがどうした。それこそが歌、でしたね。本当に。

 あれあひぬ老ひば老ゆればなほあはむ老いつ老いゆく
 きみにしあはむ 歌にもあはむ               遼川るか
 (於:隠岐歴史民俗資料館)


                 

 資料館では、展示を見終えた後で隠岐の資料をかなり買い込みました。ちょっと、軍資金が寂しくなりつつありますが、他では入手が難しいでしょうからこの機会を逃したくありません。そしてまた、道路を渡って隠岐神社の駐車場まで戻ります。
 そうそう、大伴家持・永主親子の隠岐配流後です。実は永主、配流から21年後に復位しているんですね。

|辛巳。勅。縁延暦四年事配流之輩。先已放還。今有所思。不論存亡。宜叙本位。復大伴宿
|祢家持従三位。藤原朝臣小依従四位下。大伴宿祢継人。紀朝臣白麻呂正五位上。大伴
|宿祢眞麻呂。大伴宿祢永主従五位下。林宿祢稻麻呂外従五位下。奉為崇道天皇。令諸
|国国分寺僧春秋二仲月別七日。読金剛般若経。有頃天皇崩於正寢。春秋七十。皇太子
|哀號踊。迷而不起。参議従三位近衛中将坂上大宿祢田村麻呂。春宮大夫従三位藤原
|朝臣葛野麻呂固請扶下殿。而遷於東廂。次璽并剣奉東宮。近衛将監従五位下紀朝臣
|縄麻呂。従五位下多朝臣入鹿相副従之。
              「日本後紀 巻13 桓武天皇 大同元年(806年)3月17日」


 「17日、天皇が詔を出された。延暦4年のことに連座して配流になったものはすでに、罪を赦し都へ戻らせている。いま思うところあって、生死は論ぜずにみな本位に復すこととする。大伴家持は従三位に、藤原小依は従四位下に、大伴継人、紀朝臣白麻呂は正五位上に、大伴眞麻呂、大伴永主従五位下に、林宿祢稻麻呂外従五位下に、復せ。崇道天皇(早良親王)のため、諸国の国分寺僧に春秋の仲月7日に混合般若経を読ませることとした。
 しばらくして、桓武天皇が内裏正殿で崩御した。享年70歳。皇太子は泣き叫び、手足を掻き毟っては臥して転げまわり、立つことができなかった。参議従三位近衛中将・坂上田村麻呂と春宮大夫従三位藤原葛野麻呂が皇太子を支え、内裏正殿の母屋から東廂へと遷り、そして皇位の象徴たる天子神璽と宝剣を入れた櫃を東宮へ奉った。近衛将監従五位下・紀縄麻呂と従五位下・多入鹿が付き従った」

 桓武はこの勅を最期に崩御。そして、件の種継暗殺事件によって立太子した安殿親王が平城天皇として即位します。...何とも因縁めいているとしか言いようがありませんが。そしてもう1つ。これまた後の世になったからこそ浮き彫りになる真相があります。続日本紀の記述なんですが。
 続日本紀。わたしの古歌紀行文でも万葉集や記紀に次ぐ引用頻度の史料。日本書紀の後継正史です。

 この史書もまた、色々と複雑な背景がありまして前半と後半では編纂者が替わっています。しかも替わった者たちが一部草稿を紛失し、そのうえ自身たちの編纂は未完のまま。さらに替わった編纂者たちが後半の前半を成し、その後に後半の後半も追加して、ようやく全40巻そろって完成、と。編纂の勅を出したのは桓武ですが、当初は光仁紀までとしていたのに最終的には桓武紀も含まれています。そして、その桓武紀こそがあとから追加された後半の後半、ということですね。
 続日本紀と日本書紀には大きな違いがあります。それが、これなんですね。つまり、過去の時代の記述ではなくて、桓武が勅を出して桓武の時代までも含まれる、という同時代性。...そう、リアルタイムの史書ということなんです。

 リアルタイムで編纂される正史。...これ、冷静に考えるとかなり厄介な代物なんじゃないでしょうか。様々な出来事の良し悪しは、いつだって後の時代の概念や価値観、情勢によって変わりますから。
 同時代性ゆえに起きる歪み。日本書紀では皇統にとって不都合なことは、記述を違え、捏造・歪曲し、そして正当化も正統化もすることができた正史編纂でしたが、リアルタイムだからこそ、それは叶わず結果として後から記述を大幅に削除したり、復活させたり、そうかと思えばまた削除したり、というお粗末な紆余曲折が、続日本紀の桓武紀に見られます。

 ...さて。それでは、どんな記述が削除と復活を二転三転したと思われますか。...はい、それこそがあの藤原種継暗殺事件に因むもの、となります。

|死にて後廿余日、その屍未だ葬られぬに、大伴継人・竹良ら、種継を殺し、事発覚れて
|獄に下る。これを案験ふるに、事家持らに連れり。是に由りて、追ひて除名す。その息
|永主ら、並に流に処せらる。
                 「続日本紀 巻38 桓武天皇 延暦4年(785年)9月」

|乙卯、中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継、賊に射られて薨しぬ。丙辰、車駕、平城よ
|り至りたまふ。大伴継人、同じく竹良并せて党与数十人を捕獲へて推鞫するに、並に
|皆承伏す。法に依りて推断して、或は斬し或は流す。その種継、参議式部卿兼大宰帥
|正三位宇合の孫なり。神護二年に従五位下を授けられ、美作守に除せらる。稍く遷り
|て宝亀の末に左京大夫兼下総守に補せられ、俄に従四位下を加へられ、左衛士督兼
|近江按察使に遷さる。延暦初、従三位を授けられ、中納言を拝し、式部卿を兼ぬ。三年
|正三位を授けらる。天皇、甚だこれを委任して、中外の事皆決を取る。初め首として
|議を建てて都を長岡に遷さむとす。宮室草創して、百官未だ就ず、匠手・役夫、日夜に
|兼作す。平城に行幸したまふに至りて、太子と右大臣藤原朝臣是公・中納言継らと並
|に留守と為り。炬を照して催し検るに、燭下に傷を被ひて、明日第に薨しぬ。時に年
九。天皇、甚だ悼み惜しみたまひて、詔して、正一位左大臣を贈りたまふ。
             「続日本紀 巻38 桓武天皇 延暦4年(785年)9月23〜24日」


 どうでしょう。随分と異なった印象を放っているのがお判りいただけると思います。家持が謀った台詞そのもの、それに応えた早良の台詞そのものが記述されている日本紀略に対し、簡単にあらましの他は種継の功績ばかりを記述している続日本紀。さらには、早良がハンガー・ストライキの後に失意のまま絶命した件が続日本紀には記述されていません。
 これは、早良の怨霊を恐れた桓武が当初の記述を削除し、けれどもその子・平城の時代には種継の娘であった薬子を后としていた平城が、薬子のために復活。けれども今度は、その後を継いだ嵯峨天皇が再び、怨霊を恐れて削除した、などという逸話が現代まで伝わっていますけれども、どうなんでしょうね。







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