日本紀略はそもそも、日本書紀や続日本紀といった六国史の抜粋とその後の歴史を記した史料ですから、日本紀略にある記述は基本的には六国史各書に記載されていたはずのもの、となります。なのに日本紀略にあって、続日本紀にない、同時代の記述がある...。これが何よりもの証左、立証なってしまっている、ということです。
 果たして真相は本当に早良と家持の謀議だったのか。それとも政敵を排除するための姦計だったのか。そして過去を隠蔽するため削除だったのか。...いやはや、真実なんて判りっこありませんし、これ以上を突き詰めてしまうと歴史そのものが、とてもとても哀しいものに成り代わってしまいそうです。

 すべては人の世の習い。陰謀も刑罰も悲嘆も述懐も恐怖も歴史も、そして訴える思いも。すべて、すべてがこの人の世にある、当たり前のものたちです。そして、だからこそ訴ふものとしての歌もまた、この世に生を受けたとも言えるのでしょう。
 隠岐神社の敷地の隣には、大きな石碑が建っていました。
「後鳥羽上皇隠岐山稜」
 こう彫られています。陵。まさか隠岐に来て待て御陵を参拝することになるなんて思ってもいませんでした。ましてやそれが後鳥羽院のものを、です。

 近江と同じです。かつてはどうしても好意的にはなれなかった大友皇子。けれどもあの旅でわたしは彼の御陵を近江で、さらには首が送られた、とされている場所を美濃で、訪ねました。そして今、やはりずっと好意的には思えて来られなかった後鳥羽院の御陵へ、坂道を登り始めます。
 すべては人の世の習い。そうでしたね、死もまた避けては通れない人の世の習いにして生あるものすべてが負う、結末です。ならばもう、何を憚るというのでしょうか。訴えたい思いのままにただ、謡えることに勝る幸運など、あるはずもなし。いや、あるとしても、今のわたしには見つけられそうにありません。

 あれゆゑにあれ思ふかぎり思ひ思ひて思ふむた謡ひ謡ふむたゆく  遼川るか
 (於:後鳥羽上皇隠岐山稜前)


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 隠岐に上陸して初めて見た宮内庁看板が、後鳥羽上皇隠岐山稜へと続く道の入り口に建っています。これが本土の、それも畿内の御陵ならばもっと厳しい印象を湛えているはずの宮内庁看板も、隠岐ではとてもあっさりしているように感じます。位置的には、きっと隠岐神社の参道と平行、とまではゆかなくとも似たような向きで奥へと伸びている後鳥羽上皇隠岐山稜への道。但し、道としての傾斜はこちらの方が若干、急です。もっともとてもなだらかな傾斜同士を比べてのお話ですが。かなり道幅広く整備してあった隠岐神社とは違い、こちらは道幅も狭く、両脇の樹木も聳え立っているような圧迫感がありますが。
 山稜。確かにここは山なのだろう、と感じられる風情です。そして左手に現れる石と白木で造られているらしき門。閂がかけられたその先に、御陵特有のコンクリート製鳥居とさらなる門があり、その先はまるで神社の本殿のように禁足地になっているらしく、中を見ることはできません。

 後鳥羽院火葬塚。登り口にあった宮内庁看板には山稜ではなく火葬塚と書かれていましたが、ここがそうなのでしょう。後鳥羽院の遺灰を埋葬した地なのだそうです。ちなみに遺骨は、京都に帰ることが出来ている、と聞き及んでいますが。
 火葬塚の周辺には背の高い杉の木が、空へと一直線に伸びています。その枝先をゆさぶる風の音と葉擦れの音。...極めて個人的な感覚論に過ぎませんが、やはり全身の皮膚が思い出していたのは大友皇子の首塚の地、とされている美濃国の“自害峯の三本杉”でした。

 

 大友、後鳥羽院、あるいは天平末期の早良親王でもいいのですが人の世に明と暗という、二元論は最初から存在していたわけではない、とわたしは思っています。隠岐に着いてからずっと肌に貼りついて離れてくれない二元論。いや、厳密に言うならば二元論そのものが哀しいのではなくて、そこにある格差がわたしは哀しいのです。
 違うということ。これ自体は必要なことですし、哀しいことでも何でもありません。むしろ違うからこそ得られる数多のものたち。その最大は生命でしょう。男と女という違うものが存在しているから得られる、最大のものです。

 ですが、この人の世は違うもの同士をただ違うもの、としてのみ認識しようとしませんでした。違っているもの同士に格差をつけ、挙句その歴史的価値観そのものに現在、どれだけの事実と真実があるかも判らないまま、人の世は形骸化した格差を前提に物事を捉え、判断します。
 優は劣より良く、尊卑や貴賎では言わずもがな。そしてまたそれらすべてのさらに手前には良し悪し。この二元論が横たわり、人の世を遍く司ります。島は島。それが大陸より小さいからといって何が、どうなのでしょうか。権利・権力を求める覇権争いはいつだって敗者を求めます。...本当に、この人の世が求めているのは勝者ではなく、むしろ敗者なのではないか、と。そんな風にすら感じられてしまうのはわたしが日本人だからでしょうか。判官贔屓が好きな国民性だから、と。

 掌を合わせて瞼を閉じます。といって後鳥羽院の冥福を祈る、というのとはかなり違うのかもしれませんが。ただ祈ります。すべての。そう、本当にすべての人が、人の世から図らずも宛がわれてしまった価値観という檻から解放されることを。魂の解放を。それが叶いますことを、価値観の檻に縛られ、踊らされ、そしてその檻の中で果てるしかなかった人の遺灰が眠る地に、深く深く祈ります。

 ひともをしひともうらめし
 ひとははしひとはかなしや
 綿津見に波あるゆゑに辺はありて
 沖もまたある
 綿津見に潮あるゆゑ
 わたのそこ
 なかも
 うはをもあるなれば
 人ほるもののあづきなく
 なほおもしろく
 沁みて沁む
 ここそうらなめ
 あれなほし人とてあるに
 みなひとも人とてあるに
 ひともをし
 ひともうらめし
 ひとははし
 ひとかなしくも
 なほしひとはし

 いにしへゆ継ぎきたるもの継がせたるもの
 いにしへにかへさまくほしさかせまくほし      遼川るか
 (於:後鳥羽上皇隠岐山稜)


 さらに続く坂道を登りきると、後鳥羽院行在所跡がありました。なるほど、つまり後鳥羽院が隠岐で住まいとしていた源福寺の、跡地がここなのでしょうね。

  

| このおはします所は、人里離れ、里遠き島の中なり。海づらより少しひき入りて、
|山陰にかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにして、松の柱に葦葺け
|る廊など、けしきばかりはことそぎたり。まこと「柴の庵のただしばし」と、かりそめ
|に見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせ給へり。
|水無瀬殿思し出づるも夢のゆうになん。はるばると見やらるる海の眺望、二千里の
|外も残りなき心地する、今更めきたり。潮風のいとこちたく吹きくるを聞しめして、

| われこそは新島守よおきの海の荒き浪風心して吹け
| 同じ世にまたすみのえりつきや見ん今日こそよそにおきの島守
                             「増鏡 第2 新島守」


 こうありますから、当時はここから海も見えたのでょう。周囲には歌碑や解説の看板に引用されて、後鳥羽院の歌が複数みられます。

|我こそは新島守よおきの海のあらきなみかぜ心してふけ
           後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 雑 097」別出典より再引用
|ふるさとをしのぶ軒に風すぎてこけのたもとに匂ふたち花
                   後鳥羽院「後鳥羽院隠岐遠島百首 夏 022」
|蛙鳴く勝田の池の夕たたみ聞かましものは松風の音
                             後鳥羽院 出典不明


 かつて近江で、世界は夢を見たがっていると感じていました。そしてそれは、ここ・隠岐でも同じことなのでしょうね。隠岐の人々が見た夢の結晶とも言える柿本美豆良麿伝説と、流されてまで嘆き続けたと書き綴る増鏡。そしてその前提で読んでしまっていたからこそ縁遠く感じていた後鳥羽院遠島百首も、実際の隠岐の風の中で思い返せば、また違った後鳥羽院の思いがそっと滲み出します。
「...ああ、そうかだから遠流なのか」
 ようやく悟った気がしていました。

 遠流と中流と近流。この罪の重さの違いは何なのか。...それはやはり、罪を課される側ではなく、課す側の問題が一番なのだ、とわたしは今、断言してもいいと感じます。何故ならば遠い地へ追放してしまえば、その地の実際はより都に聞こえづらくなります。近ければまだ何某かの噂ともなり易く、けれども遠ければ、と。人の口にも上らなくなる、上れなくなるほどの追放。それが遠流とするならば、確かにその者は社会的に完全なる抹殺をされたことになるでしょう。
 あるいは、見せしめとしてならば噂が伝わりづらいがために、いいように実際や事実を捏造できたことでしょう。昔のことは捏造できても、リアルタイムのことは捏造できず、結果として削除と復活を繰り返した続日本紀の件の記述のように、です。
 いずれにしても、根底に流れる概念。それを端的に表す常套句は
「死者に口なし」
 これに尽きそうです。たとえそこに実際の生命が繋がれていたとしても。

 ただ、この事実を知ることが出来ないという距離の壁は、大勢側にとって薬でもあり、毒でもあったことでしょう。流刑者たちをより罪深く捏造することで見せしめ的なものを企図すればするほど、それ故の怨霊の噂がまことしやかに流れます。あるいは後鳥羽院は、確かに悲嘆はしていたとしても隠岐で、都を恨み、呪ってなどいなかったように遠島百首を読むかぎりは感じられるのですが、そんな実際とは無関係に後鳥羽院の怨霊が都を跋扈するようになって...。
 だとしたならば、大勢擁護のどんなテクニックも人々の夢見る情熱には敵わないことになります。こうであったらドラマチックだろう、ああであったら素敵だろう、という人が産みおとす数多の夢たち。

 随分と日が高くなってきています。午後一番のフェリーに乗らなければなりませんから、そろそろゆきましょう。わたしを呼んでくれた隠岐神社。そして隠岐民俗博物館と後鳥羽上皇隠岐山稜。最後に深く頭を下げて、いまだ上陸したばかりの中ノ島探訪を再開します。果たして何処まで周りきれるのか。とにかく急ぎたいと思います。

 わたのそこおきにけふありわたつみのうはにしあしたあるかも知らに  遼川るか
 (於:後鳥羽上皇隠岐山稜)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 探しているのは宇受賀命神社。何でもこの中ノ島に於いてとても信仰を集めていた土着の神様を祀ったもの、とのことで延喜式にも

|隠岐国十六座。
|        (中略)
| 海部郡二座。 大一座。小一座。
|  奈伎良比売命神社
|  宇受賀命神社  名神大。
                           「延喜式 巻10 神祇10」


 とありますから、それなりに歴史ある中ノ島随一の社格のお社なのでしょう。ですがどうも、自分の進んでいる道が怪しく...。県道317号海士島線を走っている時はよかったのですが、どうやらそこから海士小学校の前で分かれて宇受賀命神社へと続く道を見落としたらしく、気づけばそのまま県道を走り続けた挙句、さらに余分な横道へと逸れて海に着いてしまっていました。
 信号機のない隠岐群島。すなわち自身が何処を走っているのか確かめられない隠岐群島、です。もうこうなると宇受賀命神社へ辿り着くことよりも、今いる場所が何処なのかを確かめることの方に神経が行ってしまいます。同時にとにかく気になって仕方ないのがフェリーの時刻です。

 灯台のある丘の麓で道が行き止まりとなり、Uターンしてそこからまた移動すると、船着場のような一画と、そこで作業するおじいさんが目に留まりました。...数少ない、道を尋ねるチャンスとばかりに声を掛けます。車を路肩に停め、降りると途端に海特有の匂いがかなりの密度で押し寄せてきました。
「済みません、宇受賀命神社へはどうやってゆけば...」
「...あんたどこから来たの」
「神奈川ですけど」
 質問をしたのはわたしのはずなんですが、どうも立場が逆転してしまったようです。
「クロキヅタって知ってる」
「クロ...、キ...」
「クロキヅタ。天然記念物の海藻だよ」
「いえ、知りません」
「これ、もってくといい。乾かして栞にしな」

 

 海と道路の境に、少し高くなったコンクリートの堤防がずっと続く道沿い。その堤防の上に広げて置かれた海藻は濃いオリーブグリーンをしていました。日本古来からある色の名・海松よりもずっと濃いように感じます。
 クロキヅタ。神奈川帰還後に調べましたが、本来は紅海周辺にしか分布しない海藻が、何故か日本の一部の地域。愛媛と高知、そして隠岐にも分布していることから天然記念物として認定されているようです。...本当に珍しいものなのだといいます。

 果たして天然記念物をあっさりと採取し、しかもそれを受け取っていいのかは少々疑問でしたが、おじいさんの口調からは特別禁忌ではないように思えます。
「イワガキ、食べるかい」
「...え」
 恐らく、こういう状態を目を白黒させる、というのではないでしょうか。おじいさんから語られる言葉と、自分がおじいさんに話しかけていることとの間には、どう考えても相関などなく、けれどもおじいさんはそれに一切、頓着せずにわたしへ語りかけ続けます。当然、やりとりとして想定している以外の音がそこには齎されるわけで、クロキヅタもさることながらイワガキとは一体、何を意味する語であるのか。そんなことすら思い浮かばずに立ち尽くすことしかできずにいる以外なく...。
「いま獲れたての岩牡蠣。そのままちゅるっと食べな」
 なるほど、イワガキとは岩牡蠣のことなのか、と思い至るより早く差し出された代物は、まさしく今、ここで獲れたらしき天然の岩牡蠣。しかも大きさからどう考えてもそれなりにのお値段になってしまうものとしか...。戸惑いながらも受け取り、啜るように口をつけると改めてここが、離島であることを実感しました。そう、隠岐はやはり、本土から60kmも離れた海上に在る別天地なのです。

 「宇受賀命神社は、ここからだと判りづらいよ。随分、道を戻らんと行けない」
 簡単な道順は伺うも、土地勘のなさはどうにもならず、却って混乱し始めている自分がいます。行きたい気持ちは山々なれど、もうちょっと無理かな。...これが、偽りようのない率直な気持ちでした。
 また、宇受賀命神社とは別に、今いるこの船着場からも見えている鳥居があり、そのお社について訊いてみたところ、
「宇受賀命神社の子どもの神社だよ」
 と。勝手な想像ですが、摂社分社というのではなくて純粋に、この土地に伝わる土着の神様の寓話の中で、親と子の関係なのでしょう。

 宇受賀命という神名は、わたしが調べた範囲では記紀などに登場していません。また、おじいさん曰く、宇受賀命の子どもであるらしきお社、すなわちこちらも式内社になりますが奈伎良比売命神社に祀られている奈伎良比売命も、また同様。
 宇受賀命。五穀豊穣、海上安全、そして安産を齎すとされているこの土地の氏神さまです。言ってしまえば記紀などにある神名ではなく、あくまでもこの土地に生まれ、育まれた神の名が、島後の水若酢命や玉若酢命同様、延喜式を通じて1000年も残り、伝わっていることに、何故だか安堵できてしまうのは、わたしが本土から来たことに心の奥底で、気が咎めてしまうからなのでしょうか。

 国。この摩訶不思議な概念に疑問を抱くようになって、どれほどになるでしょうか。先にあったものは人々の暮らしでしかなく、国という概念も、国境という境界線も、みな後からやってきました。中央集権という名のもとに懐柔、ないしは黙殺も抹消もされた様々なものたち。
 かつて大和国は葛城山で突きつけられた天孫降臨という名の歪みを、わたしは今も忘れていません。高天原を放逐された素盞嗚が辿り着いた出雲国。東国から防人へと向かった者たちが越えた足柄峠。浦賀水道の先を渡り上総国へ赴いた者と、上総国を後にした者。

 中央集権だけではありませんね。渡海して半島や大陸へ渡った者、半島や大陸からやって来て、そして帰化した者と。...一体、これら全てを分かち、何者であるかを決定付けてしまう国とは何なのだろうか。もう何度、こう自問してきたのでしょう、わたしは。
 でも。でも、そのくせ自分が何者であるかを、外部から固着してもらわないと途端に不安になるわたしも確実にいます。自らの身分証明になるカード類を一時的に失くしてしまった数日という経験をしたのですが、その時に思いました。
「わたしは一体、誰なのだろう」
 と。

 結局、人間とは不安な生き物なのでしょうね、恐らくは。不安に怯える小動物故に、力を欲する。それが人間という生き物の1つの特徴であり、証であり。そしてそこから生み出されたこの世界で最も不必要で、最も便利なもの。それが境界。わたしにはそう思えます。
 例えば、この日本と名づけられた1つの国に、取り込まれてしまった群島があり、けれどもその群島には群島ならではの土着文化を今に伝えるものもまた存在しています。ですが同時に、その土着文化とて、群島の中の各地域ごとに異なってもいるわけで、そこにはやはり境界は存在します。なのにわたしは、記紀にない神名を冠するお社があることに安堵し、気持ちのうえで幾ばくかの免罪を得られたかのごとく、感じてしまうのです。それがさも自然な感情の流れであるかのように。

 ニュートラルは存在しません。人は何処までいってもきっと自由になどなれるはずもなく、たまたま最初に立たされた地から、歩き始めます。仮にもし、わたしが隠岐に生まれ育っていたとしたら、きっとわたしはもっと違うことを感じていたでしょうし、考えてもいたでしょう。そして、哀しいことにわたしはこの立ち位置からしかものを見ることができないのです。同時に複数の場所に、人は立てないのです。だからこそ不自由なのだ、と。これが人間の限界なのだ、と...。
「あんた、隠岐に独りで何しに来た」
「独身かい」
「この島なら、結婚相手はたくさんいるぞ。隠岐で暮らさんか」
 ぼんやりと考えているわたしに向けて、おじいさんは語りかけ続けます。過疎地、なのでしようか。どんどん都会に人が流出してしまっているのでしょう、きっと。初対面の、しかも行きずりの相手に、独身か否かを問いかけるおじいさんに、やや面喰いつつも、すべて曖昧にしか答えられませんでした。

 ...そう、それでもわたしはやはり、この群島へ一時的に来ている者でしかないからです。国境が云々、島が云々。様々なことを考えては哀しみ、そして同時に哀しんでしまえる自身の不遜を疎む、という一連のわたしの思い。それがどれほど真摯な気持ちに裏打ちされていても、そのこと自体を疑う気がなくとも。...わたしはこの境界を越せませんし、越す気もありません。
 ふいに、ずっと続けてきている古歌紀行そのものが、とても厭らしく思えてしまいました。こんなことは初めてで、瞬間的にどうしていいのか判らなくなってしまい...。不覚にも涙が込み上げてきて、このままではまずい。早くおじいさんと別れなければ、と明確に思ってしまいます。タイミングのいいことに、近所の奥様がおじいさんに海産物を分けてもらいにやって来たので、簡単なお礼を言ってそそくさと車に乗り込んでしまったわたしがいました。

 神奈川帰還後もあの時、自分は何を恐れて、何から逃げ出そうとしたのか、ぼんやり考えます。ただ明らかなことに、傍観者というキーワードだけはわたしの中にあって、それが小さな棘を生やしては、わたしの中の何かを苛みます。
 傍観者。...それ自体が、悪いことでもいいことでもないでしょう。肝心なのはそれに罪悪感を覚えてしまうわたし自身であって、ならば何が罪なのかといえば越境を望んでいるはずなのに、越境する気のないことです。要するに、
「看板に偽りあり」
 そんな気がわたしの中でしているのです。







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