越すなへに過ぐなへに沁むゆきゆくもゆくなへに知る
 あれゆかざるを あれのこざるを           遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 結局わたしは、宇受賀命神社も奈伎良比売命神社も訪ねませんでした。いや、もちろん訪ねたかったのは本心なのですが、少しずつ合わなくなり始めた歯車と、フェリーの時刻という制約に、逃げ出したというのが率直な表現です。そして、もう1箇所。この中ノ島で訪ねたいと考えていた地も、結果的にわたしはパスしてしまいました。
 船着場から慌てて出発した所為で、元々判らなくなっていた現在地がさらに判らなくなり、もう時刻までに菱浦港まで帰ることだけが目標に成り代わってしまったんですね。とにかく、怖かったんです。

 訪ねようとして、でも止めてしまったのは中ノ島の南西部にある「佐伎の里」公園。佐伎、つまりは出雲国風土記に登場するあの佐伎です。

| 意宇と号くる所以は、国引き坐しし八束水臣津野命、詔りたまひしく、
|「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国在る哉。初国小さくむ所作れり。故、作り縫はむ」
| と詔りたまひて、
|「栲衾志羅紀の三埼を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り」
| と詔りたまひて童女の胸所取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振
|り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国
|来国来と引き来縫へる国は、去豆の折絶より、八穂尓支豆支の御埼なり。此を以ちて、
|堅め立つる加志は、石見国と出雲国の堺有る、名は佐比売山、是也。亦持ち引ける綱
|は、薗の長浜、是也。
| 亦、「北門の佐伎の国を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り」
| と詔りたまひて童女の胸所取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振
|り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国
|来国来と引き来縫へる国は、多久の折絶より、狭田の国、是也。
| 亦、「北門の良波の国を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り」
| と詔りたまひて童女の胸所取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振
|り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国
|来国来と引き来縫へる国は、宇波の折絶より、闇見の国、是也。
| 亦、「高志の都都の三埼を、国の余り有りやと見れば、国の余り有り」
| と詔りたまひて童女の胸所取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振
|り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国
|来国来と引き来縫へる国は、三穂の埼なり。持ち引ける綱は、夜見の島なり。堅め立
|つる加志は、伯耆の国有る火神岳、是也。
|「今は、国は引き訖へつ」
| と詔りたまひて、意宇の社に、御杖衝き立てて、「おゑ」と詔りたまひき。故、意宇と
|云ふ。
                  「出雲国風土記 2 各郡 1 意宇郡 2 郡総記」


 はい、有名な出雲の国引き神話の一説に登場する佐伎国が、ここ隠岐は中ノ島の崎地区を差すことから整備された公園です。

 元々はこの佐伎。何処を差しているのは詳細不明、あるいは諸説紛々だったようですが平城宮跡から

|隠伎国海部郡作佐郷大井里海部直麻呂調海藻六斤天平七年

 すなわち海士町崎地区より朝廷へ若布を調として納めた旨を記した木簡が出土したことが決定打となったようです。そしてこの木簡、噂によれば島根県立古代出雲歴史博物館にて複製か、あるいはオリジナルかが展示されているとのことですが。

 

 天平7年。聖武即位から12年後、そして隠岐が配流の地として正式に定められてから11年後のことを表しているこの木簡。果たして出雲国風土記の舞台となった、当時の隠岐と出雲の関係は、正直よく判りません。ただ、同じく国引き神話に登場する
「北門の良波の国」
 とやらも、やはり隠岐のいずれかの島の地区を指しているであろうことは、ほぼ間違いないようです。...何処なのでしょうね、良波とは一体。島根半島の闇見の国、とは現在の地名で言うと松江市新庄町界隈とのこと。佐伎が引かれて成った、という狭田の国が、八束郡鹿島町界隈とするならば、位置関係からして中ノ島より西側の地でなければならないでしょうか。と、するならばお隣の知夫里島に良波の国はある、と考えられそうですが。

 ただ、それらすべての考察よりも手前に、わたしが感じてしまう疑問は、国引き神話にしても、記紀の国生み神話にしても、当時すでにこの島国の大方の地形を知っていなければ成立していない、という厳然たる事実。知りもしない地形に纏わる神話なぞ、語れるはずもありませんからね。
 知っていたのです。記紀として整備されるより以前から、風土記として記される以前から、人々は地形を、陸地の形を、知っていたのです。鳥瞰図、あるいは俯瞰しなければ確認できないはずのものを、技術なき時代に知っていた人々。それとも、現代を生きるわたしたちが、当時の人々を知らなすぎるだけなのかもしれませんね。

 伊未自由来記などの古史古伝の類には、それこそオカルトとも捉えかねない超古代文明について記しているものも多くあります。もちろん、わたし自身がそれらを鵜呑みにしているわけではないのですが、そういう発想が培われても不思議ではないほど、いにしえの人々の認識範囲や、力には驚かされてしまうわけで。以前、近江で復元された遺跡の上に登り、
「工作機器もない人力のみで、こんな巨大なものを造ろう、などと現代人は考えることすらしないだろうに」
 と感じたことを、改めて思います。そうじゃなければ、文明という名の便利さによって、わたしたちは様々な力を退化させて来ているのかも知れません。果たしてわたしたち人間は本当に未来へ向かって進んでいるのでしょうか。そう、本当に果たして。

 海ゆかば海あるなへに五百重波
 また玉鉾の道ゆかば道あるなへに隈さはに
 いづへにゆかむ
 いづへにもゆくてふ思ふは
 ゆくなるを
 たれ知るものかあれ知らに
 かつひと知らに
 世も知らに
 流るるかぎり
 ゆくかぎり
 いかへることの
 ゆくことの
 なにそ違ふかあれ知らに
 かつひと知らに
 世も知らに
 波のまにまに
 玉鉾の道のまにまに
 あれの思ふまにまにゆくを
 あれ宜はむ

 あれ欲るは知るてふことがゆくきはみ知らまくほしやたれそなとめそ  遼川るか
 (於:本日さねさしさがむゆ)


 思えば島後に上陸した直後から、旅という恐怖に襲われ始めていました。そして、隠岐各地を巡るほど、それは濃くなり篤くなります。何とか菱浦港に戻りついた時には、なんだかすっかり脱力していて、旅先では珍しいことなのですが、かなりきっちりと昼食を摂りました。
 たまたまここ・海士町には私用があったのでそれも済ませると、島前各島を行き来している内航船の出発時間まで、ぼんやりと海を眺めるのみ。...この時間があったならば、パスした3ヵ所のうち1ヵ所くらいは訪ねられたかもな、とは思ったもののだからといって特段、悔しいわけでも残念でもなくて。
「わたしの力量不足、なんだろうな。こういうのはきっと...」
 思わず漏れたひと言が今のわたしの偽らざる本音、です。そう、きっと、この隠岐という土地を舞台に古歌紀行をするのは、今のわたしにはかなり荷が勝ちすぎているのでしょうね。
 といって、ならばこれまでに訪ねてきた各地が、隠岐よりも力量を要していなかった、というのでは、もちろんありません。ただ、己の力量不足に気づけるくらいには前進できていたのだ、と。これまでは、それすらも気づけなかったのに対し、やっとまた1つ、目が明いたのだ、と。

 

 内航船フェリーは、ドライバーが車から降りません。運転席に座ったまま、すぐに西ノ島の別府港に到着してしまいます。エンジンを切り、開けた窓とフェリーの備品越しに海を眺めながら、中ノ島を後にします。
 滞在時間はたったの4時間。それでも、わたしの中の新しい扉を開いてくれた島に、しばしのお別れです。
「道は遠い、勉学せよ」
 まさしくその通りの現実を突きつけてくれたこの地へ、わたしは必ずまた来ます。そして、訪ねずじまいになった3ヵ所へ、きっと再訪を果たすでしょう。きっと。

 弥遠に島あらばあれされどあれこにうけひせむいかへり来るを  遼川るか
 (於:中ノ島から西ノ島へと向かう内航船フェリー「どうぜん」船内)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

|去程に先帝は、出雲の三尾の湊に十余日御逗留有て、順風に成にければ、舟人纜を解
|て御艤して、兵船三百余艘、前後左右に漕並べて、万里の雲に沿。時に滄海沈々とし
|て日没西北浪、雲山迢々として月出東南天、漁舟の帰る程見へて、一灯柳岸に幽也。
|暮れば芦岸の煙に繋船、明れば松江の風に揚帆、浪路に日数を重ぬれば、都を御出有
|て後二十六日と申に、御舟隠岐の国に着にけり。佐々木隠岐判官貞清、府の嶋と云所
|に、黒木の御所を作て皇居とす。
                   「太平記 巻4 備後三郎高徳事付呉越軍事」


 すでに書いていますが、神奈川生まれにして神奈川育ちのわたしは、当然ですけれど鎌倉という土地にも親近感を持って育ちましたし、それ故に鎌倉を統べていた北条氏に対しても、とても好意的な人間です。それだけに、昔からあまり好きになれないと言いますか、あまり興味が抱けなかった歴史上の人物もいるわけで、その筆頭格が承久の乱を起こした後鳥羽上皇であり、さらには元弘の乱と、その後の鎌倉滅亡へと繋がった流れの源でもある存在だった、と断言できます。...余談ですが、足利や新田もあまり、です。けれども、やはりそれ以上に.物騒な言い方をすれば鎌倉滅亡のA級戦犯、穏健な言い方をすれば建武の中興の立役者、である存在にはずっとずっと好意的になどなり難いわけでして。...はい、後醍醐天皇のことです。
 内航船フェリーに乗っていたのはほんの14分ほど。のんびりと海を眺めもせずに到着した西ノ島に車に乗ったまま上陸してから、まずは海沿いに北東へ進みます。目的地は黒木御所跡。前記引用している通り、太平記が
「隠岐流罪となった後醍醐天皇の行在所だ」
 としている史跡です。

 疑問に感じられた方もいらっしゃることでしょう。そうですね、確かにわたしは島後の国分寺を訪ねた際に、
「隠岐国分寺は後醍醐天皇の隠岐での行在所だった」
 と書いています。また、隠岐で没した後鳥羽上皇ならばまだしも、在島たった1年で隠岐から脱出し、本土へと復帰した後醍醐天皇の行在所です。2ヵ所もあるなどということは、到底受け容れ難く、いずれか一方は...。そう考えるのが正直なところ順当なのでしょう。
 島後の隠岐国分寺と島前の黒木御所。片や増鏡、片や太平記がそれを裏打ちするように存在してしまっているのですが、この件はかなり長きにわたって物議を醸し続けている、とも聞き及んでいます。同時に、答えはいまだ出ていないことも、また知っていますが。

 時刻は午後2時少し前。6時に西ノ島の別府港にレンタカーを乗り捨てることになっています。その後はここ・西ノ島で宿に入りますから在島時間は明日の朝までではあるものの、島内各所を廻れるのは、やはり4時間が限界です。なので、西ノ島に関しては、別府港よりも東は黒木御所を訪ねて、後はまた別府港方面へ戻り、通過して西へと向かうスケジュールです。
 別府港から続く道は、右手に海が広がっています。ひたひたを寄せる波音は静かで、そう遠くない海原を行く漁船が幾つも視界の隅を通り過ぎ、消えてゆきます。その先に見えるのは、小さな入江のようになっている湾曲の向こうに立っている白い鳥居。
 走り出してそうもしないうちに道がふっと途切れると言いますか、小さな路地に変わってしまうと言いますか、とにかくそんな傍にどっしりとした門が建っていました。曰く、
「後醍醐天皇行在所址・黒木御所址」
 と。

  

 最初に、後醍醐天皇云々は措いたとして、その絶好のロケーションに溜息ができました。黒木御所が面している海は、隠岐の島前3島に囲まれた内海です。なので波は静かにして、穏やかに寄せ返し、周囲も漁船のエンジン音と風と波の音以外には殆ど何も聞こえません。そんな内海の、しかも小さな入江に面して建つ御所。海からすぐに隆起している小高い丘とそれを覆う木々。丘の裾野とも言えないほどわずかな広さで、海へと続く前庭。
 春の午後、光の色は蜂蜜みたいな柔らかな色と軽く肌に纏わりつくような蕩味を帯びていて、それがまた静かな入江とよく似合うこと。本土を離れてから、絶景と呼ぶに相応しい場所をいくつか巡ってきましたが、この入江ほど穏やかさを体現している地は、なかったように思えます。...それだけに、ここが黒木御所であるという事実が、半ば皮肉めいてもいますけれども。

 黒木御所址。唐突ではありますが、この名前には個人的にかなり引っ掛かってしまっています。というのも神奈川帰還後に黒木御所、とネット検索したのですが、あるんですね。隠岐以外にも黒木御所址、とされている史跡が日本各地に。しかも、それらの全てがそれなりに共通項を持っているわけでして。

 1) 隠岐西ノ島の黒木御所址/隠岐流罪となった後醍醐天皇の行在所とされている

 2) 佐渡の黒木御所址/佐渡流罪となった順徳院の佐渡の行在所とされている。

 3) 奈良県十津川村の黒木御所跡/後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王が隠棲した十津川
   郷の屋敷跡

 4) 鹿児島県大隈諸島の硫黄島にある黒木御所跡/壇ノ浦で戦死したとされている安徳
   天皇が、生きて硫黄島へ辿り着き、暮らした住居跡

 恐らくは、丹念に調べさえすればもっとたくさんの黒木御所があることでしょう。つまり、天皇の住居というのは、樹皮を剥がさないままの黒木で造られるのが慣わしだったんですね。そして御所とはそのまま天皇の住居を指す言葉ですから、読んで字の如し。元々名前がついている皇宮や離宮ならばともかく、わざわざ黒木御所、などという半ば代名詞のような言葉を呼び名として充てる必要性は、当然ですけれど流罪になったり、何処ぞで隠棲したり、挙句は落人のように実は生きていた、という伝説が残る地にしか、あるはずもなし。
 そして同時に、いくらそうだからといってこんな偶然、3ヵ所も、4ヵ所も、あるなど不自然です。最初の1ヵ所、2ヵ所は別としても、後はそういう話が各地に広がった結果、追随あるいは倣ったと考えるべきでしょうし、上記4ヵ所の中では、佐渡のものが一番最初の黒木御所。そうわたしは考えます。

 太平記。その記述によれば後醍醐天皇は行在所を抜け出して徒歩にて千波湊までゆき、そこから海路で伯耆国の名和湊に到着した、となっています。因みに、名和港とは現代の鳥取県大山町の名和界隈のこと。
 この記述を全面的に信用するならば当然ですが、後醍醐天皇の行在所は島前の、それも西ノ島になければ辻褄が合いません。何故ならば、後醍醐が徒歩で向かった千波湊。ちぶみなと、と読みますがそれは当時の知夫郡の何処かの港、となりますから。

 知夫郡。世間的にはこの記述から後醍醐の隠岐脱出は知夫里島から、という説も多いようですがこれも変な話で、というのも隠岐4島はそれこそ延喜式の時代から昭和半ばまで島後の周吉郡と穏地郡、中ノ島の海士郡、そして西ノ島と知夫里島を束ねた知夫郡の4郡に分かれていまして。...はい、たとえ知夫里島ではなくとも。西ノ島にあったとしても。千波湊はそう名づけられても何ら疑問などはなし。そして、仮に黒木御所を脱出の起点とするならば、徒歩で行ける範囲ではない知夫里島は、推理の枠から零れてしまう、とわたしは感じます。それ故に、千波湊は西ノ島の美田界隈の港ではないか、と。
 但し、以上はすべて太平記の記述を全面的に信用すれば、という前提でのこと。

 恐らくは、後醍醐天皇はわずか1年の隠岐滞在中に、4島それぞれに何らかの形で立ち寄ってはいるのでしょう。そしてその中には後に黒木御所という半ば代名詞的名前を冠した地もまた複数あったのではないか、と。もちろん、その当時は黒木御所などと呼ばれてはいなかったでしょうが。
 西ノ島にあった地も、島後は国分寺とされている地も、それぞれに後醍醐との縁はあったと思われます。ただ、ここでいう行在所とは、どの程度で行在所とするのか、何をもって行在所とするのか、があまりに曖昧ですから、行在所という名前、あるいは言葉に躍らされるのもまた、違うのではないかと。黒木御所の御所という言葉に惑わされてはならないのと同様に、です。

 ...埋まらない温度差とはこういうものなのかも知れません。ここ・隠岐からすれば後醍醐という人は土地の歴史を象徴する存在であり、建武の中興の立役者。謂わば歴史的偉人です。一方のわたしからすれば、彼はわたしの産土の地に仇なした存在。何処が彼の行在所であっても、一向に構いませんし、それを奉る気も、また極めて希薄です。
 歴代の隠岐の人々が彼に縁ある地を次々と奉り、保全してきた思いが生み出した2つの行在所址。それから各地の人々が天皇に縁ある地へ冠してきた黒木御所址という名。わたしの鎌倉信奉も含めてすべて、同じことなのです。ただ、何処に立っているのかということが異なっているだけで、すべてはみな、何も異なることなく...。

 黒木御所に併設されている碧風館という資料館は閉まっていました。ただ、碧風館への入館料が必要なのか、あるいは黒木御所の敷地内へ入ること自体に入場料が必要なのか、ちょっと判らなかったので、窓口の脇にメモに包んで規定されていた金額を置いておきました。丘の上にある黒木御所そのものへは、石段を途中まで登ったものの、あまり気が進まなくて行くのを中止しました。
「...きっと、わたしのような者が訪ねるのはあまりよいことではない」
 そう思えてしまったら途端に、脚も、身体も、心も重たくなって、辛くなってしまって。

   

 歴史。それは確かに事実の上に成り立つものでしょう。けれども、歴史とは決して純然たる事実の羅列ではないのです。歴史を歴史たらしめるのは、常に後世の人々の思い。そして、その後世の人々の思いとて、時間というひと方向にのみ流れる河を上流から、下流へと進む以外は叶いません。
 隠伎之三子島がどの島とどの島とどの島であろうと、柿本美豆良麿がいたのであろうと、なかろうと、伊未自由記と穏座抜記が偽書であろうと、なかろうと。...言ってしまえばそれが何なのでしょうか。すべて。そう、この世のすべては結局、それぞれへ向ける思いの軽重によって彩られ、織り上げられるしかないもの。たったそれだけです。

 ひとは2つの場所に同時には立てません。それだけは決してできない身。それが人間というものならば、島と大陸、大と小、重いと軽い、好きと嫌い、高いと低い、正統と異端...。これら二元たちとそれを生み出す境界すらも、すべては人間が人間ゆえに負った軛。
 現代の常識とされるものの中心にすえられている道徳や礼節。あの大元は封建体制を維持するために生み出された御用学問の儒教です。だから、個人的にはあまりそこに寄り掛かりたくないとすら思っています。あまたある宗教の経典の類も、読み物としてはかなり読んでいますが、それを教えとして戴くつもりは希薄です。けれども、すべての存在が存在ごとに良しとするものを採っていたら、世界は混沌に堕ちてしまうのもまた事実。だから、一定のルールが必要ともなるのでしょう。そしてルールをルールとして形づくるのに不可欠なのが二元という概念です。...ですが、そのルールの根源とは何なのでしょうか。

 子どものころ、因数分解が嫌いでした。いや、考え方として便利なものだとは思っていたんです。頭の中を整理してゆくのに、様々な条件によってグルーピングしてゆくのは、とてもとても便利ですから。
 でも。でも、その条件によって隔てられる、条件に適うものと適わないもの、という存在。適うものは取り込まれ、適わぬものは切り捨てられ、取捨選択してゆく過程の便利さはけれどもわたしにはあまりにも哀しいものでした。...判っています。それに哀しみを見ること自体が、人間の奢りでしかないことも、わたしは気づいてはいるのです。

 答えなどありません。この哀しみが何処から来るのかも、わたしは知りません。ある事実はただ1つ、今わたしが隠岐に来ている、ということだけ。罪も罰も人の思いも。すべてを凌駕してあるのは、今ここに来ている。...この事実だけです。

 かなしびもうれしびも来ぬ
 綿津見の綿津見なるがゆゑよしも
 あれあれなるも
 こにそ来ぬ
 いづくゆ来しはあれ知らで
 いつゆ来しとてあれ知らで
 来たるまにまにあれ思ふ
 思ふまにまにあれ沁みぬ
 かなしび来しを
 あれにそ来ぬを

 そはあれがかなしびにしてさてもそはかなしびなるかいまし沁むるを  遼川るか
 (於:黒木御所址)







BEFORE   BACK  NEXT