別府港を通り過ぎて、西ノ島大橋界隈まで来ると、すでに訪ねた主島とも、中ノ島とも異なる景色が広がっていました。何と言いますか、すでに訪ねた2島は人里は人里、そうではない所はそうではない所、とそれ然としていたのですが、ここ西ノ島はどうやら雰囲気が違うようです。...いや、もちろんほかの地域は判りません。あくまでも上陸していまだ1時間程度のわたしがそう感じた、というだけなのですが。
 人の手が入っているんですね、様々な箇所に人の手が入った上で、でも決して生活の場としても機能していない。過去に訪ねた古歌紀行の地ほどは観光目的に造られてもいず、けれども保全だけとも言い難く、何とも不思議な印象でして。...あるいはここが、すでに焼火山への入口に当たる場所だから、なのかもしれません。

 焼火山。...そう、件の伊未自由記に書かれた隠岐創生神話。そこに記された木の葉人たちが火を焚いた山ですね。それがここ・西ノ島に存在しています。

| 億岐の国に初めて住みついた人は、木の葉人でありました。後の世に、木の葉爺、
|木の葉婆、箕爺、箕婆などと言つた人も、この木の葉人の族でありました。この人は、
|下に獣皮の着物を着て、上に木の葉を塩水につけたものを乾かして着て、木や川柳
|の皮で綴つたものを着ていたから出来た名前だそうです。髪も切らないし、髭も延
|びたままで、目だけクルクルして、恐ろしい姿であつたが、人柄はよかつたそうです。
| 一番始めに来たのは、伊後の西の浦へ着いて、海岸沿いに重栖の松野、後の北潟、
|今の北方に来て定住した男女の二人で、火を作る道具や、釣をする道具を持つてい
|ました。次に来たのは、男女二組で、長尾田についたので、主栖の煙を見て来住した
|が、今一隻が男一人、女二人、南の島へ着いたというので、晴天の日、南の島に渡つて
|探したが判らないので、一番高い山の上にのぼつて火をたいたところ、火が無くて
|困つていた男女三人の者がのほつてきました。その頃火は一番大切なものだし目標
|にもなるので、この山上の火は、男女二人が絶やさぬようにして子孫に伝えました。
|南の島というのは、その頃の三つ子島、今の島前のことで、この山が焚火山で、始め、
|この三人がついたのは、今の船越でありました。
                  横山弥四郎「隠岐の伝説 創生伝説 木の葉人」


 これは、伊未自由記を書きくだいて収録している書籍からの引用です。すでに書いているように伊未自由記そのものの存在も、それを語った金坂氏の聞書も、これほどの長文を引用できるほどの状態では、入手できませんよし、こうなりますが。
 ともあれ、それが焼火山。隠岐という群島に於ける、とてもとても重要な地であればこそ、の創生神話への登場でしょう。

 伊未自由記の記述はさておき、そもそもこの焼火山。西ノ島で最も標高のある山(452m)にして、そこに鎮座する焼火神社は日本海をゆく船人たちに海上安全の守り神として崇められたのだ、といいます。また、その縁起について隠岐に残る伝説はなかなかに壮大です。曰く、神代に、天宇受売を供に従えた天照大神が、西ノ島の西部、外海に浮かぶ大神立島に降臨。そこから船で生石島へ渡ると、東の海岸に人影があります。早速行って見ると誰もいず、また生石島へ引き返してはまた人影が、ということを三度繰り返し、ようやくそれが天照を迎えに来た猿田彦であることが判明。そして天照は西ノ島へ上陸します。
 その後、天宇受売は天照の鎮座するに相応しい場所を求めて、天照と連れ立って移動します。そして最後は、天照自身が筆で手紙を書き、それを大空に投げたところ何処からともなくやってきた2羽の鳥が咥えて焼火山へ。焼火山の神は手紙を受け取り、ここを天照の宮として整え彼女を迎え入れます。これが焼火神社にして、神社の祭神が天照となった経緯なのだ、と。

 もはや、記紀の影響をまともに受けてしまっている伝説で、恐らくは記紀が成立、さらには各地に広く伝わってゆく中で生まれた縁起なのでしょうね。もっとも実質的には、海上安全のためにこの山で火を焚き続けたことから神格化した、と見るのが一番シンプルだと思いますが。漁業を生活の主軸としていた人々にとって、陸の目印となる火はそれだけで崇拝の対象となっても何も疑問ではないですから。
 そして、そこへ後付け的に記紀神話が加わった。...いや、あるいはこれもある種の中央からの干渉の結果なのかもしれません。だからこそ後世、そういった一連の日本という桎梏からの解放を願った思いが、独自神話たる木の葉人の故事を、改めて掘り起こさせたのかも知れません。ただ、そのいずれにしても焼火山と焼火神社はその中心にあった。...この事実をわたしはきちんと受け止めたいと思っています。だからこそ、ここへもやって来たのですから。

 焼火神社の縁起は他にも伝わっています。曰く、一条帝の時代に海中より光るものが現れて、やがてそれが飛んでいった先が焼火山だった、と。すでに書いていますが一条帝の時代と言えば、ちょうど源氏物語が書かれた頃のこと。もはや仏教がこの国に広く浸透・定着しいていたわけで、流石に天つ神や国つ神、といった表現はされていませんね。
 実際、焼火神社は現在の名称になったのは明治期のことで、それ以前は当然ですけれど神仏習合の結果にありがちな焼火権現と呼ばれていたようですね。...習合、というくらいですからここお寺さんもあったと聞いています。焼火山雲上寺、というお寺が。前述している一条帝の時代云々という縁起は、どちらかと言えば焼火神社の、というよりは焼火山雲上寺の、とするのが正鵠なのでしょう。

 さらにもう1つ。その一条帝の時代からかなり下って、隠岐へ配流となった後鳥羽上皇が海上で難儀していた時、彼方の空に光が出現。それが辺りを照らしてくれたことに感じた後鳥羽院が1首、歌を詠んだといいます。

|灘ならば藻塩焼くやと思うべし何を焼く藻の煙なるべし
                         石塚 尊俊「出雲隠岐の伝説」


 そして無事に港へ到着したところ翁が1人現れ、先の歌について“何を焼く藻の煙なるべし”ではおかしい。“何を焼く火の煙なるべし”ではないか、と語りかけたとのこと。何者か、と後鳥羽院が詮議しても、界隈の者だ、としか答えない翁は、されど船はお守りします、とだけ告げ消えてしまい...。そこで後鳥羽院は島の山に祠を建て、弘法大師に刻ませた薬師像を安置。こちらが焼火山雲上寺となった。
 ...という雲上寺縁起の異聞もありますね。因みにこの異聞には、焼火山中には2羽のカラスがいてずっと増えないままでいる。そして、参拝者がやってくると鳴いて焼火権現に詰めている者たちに、来訪者を知らせている、そんな説話まで付随しているようです。

 余談になってしまいますが、この3つの焼火神社(権現)の縁起。あたかもこのお社が辿ってきた歴史が、そのまま凝縮されているように思えます。天つ神・国つ神を讃えた時代から始まって、仏教が半ば国教にもなりつつあった平安中期、そして中世の神社と寺が合祀された権現の時代まで、です。ましてや最後の後鳥羽院云々、という伝説は殆ど謡曲のような構成になっていますし、寺でありながらも2羽の鳥という天つ神・国つ神の時代の伝説をも、部分的に取り込んでしまっています。
 それだけに、現代を生きるわたしたちはこれら3つの伝説から透かし見えるものを、きちんと受信しなくてはならないでしょう。はい、つまりはこの焼火山とそこに建つ祠が、いつの時代もこの島の、あるいは島前全体の人々に信奉されていた、というとこです。

 神社であろうが、寺であろうが、権現であろうが、ただ1つ変わらなかったものです。そしてそれは、再び神社となった明治以降も続いています。前述している後鳥羽院の歌ですが、現在も焼火神社のお祭りで奉納される神楽の中で謡われ、舞われています。但し、厳密を規すならば、歌は後鳥羽院が詠んだものではなくて、それを「おかしい」とした翁が詠み直したものになりますが。

|灘ならば藻塩焼くやと思うべし何を焼く火の煙なるべし
                            「島前神楽 寄席楽」


 西ノ島大橋界隈で、道路を南へと曲がります。相変わらず、ここが何処なのかもすでに判らなくなりつつありましたが、とにかく登ること。そう、すでに始まっている上り坂を道なりに、蛇行しつつも登ります。途中々々で遥か眼下に海が見えたり、切り立った山肌が聳えていたり。一度、道を間違えたようで少し戻ったりもしました。そしてふいに拓けた道の傍の駐車スペース。その奥には徒歩で登るための山道が続き、白い文字が大きな書かれた看板が立ち...。
「焼火神社」
 ここからは、自力での前進です。

 どの古歌紀行でも、この瞬間は緊張します。独りで登るのはいいんですが、喘息の発作が起きたらどうなるのか、と。携帯電話はすでに圏外。吸入薬は持っているものの、それが効かないような重篤な発作となったら、先ずアウトでしょうね、やっぱり。...それでも、わたしがしてきた選択はいつでも前進。怖くても前進。もうそれしか選択肢なんてないのでしょう、最初から。
 木々の隙間から海が見えます。それなりの高さまですでに登っていますから、残る登山は決して困難なものではない。そう、判っているんですけれどね。やっぱり怖いものは、怖いものです。

    

 登山道を進みます。そしてまた“いつもの”がわたしの背中にぺったりと張り付き、耳元で囁き始めます。
「ねえ、何でこんなことしてるの、喘息発作が起きたら多分、助からないよ」
「いまならばまだ間に合うよ、戻ろうよ」
「ほら、そろそろ苦しくなってきている。大体こんな所で倒れるのも相当、世間に迷惑なんじゃないかな」
「怖いんでしょう。ならば逃げようよ」
「ねえ、何でこんなことしてるの」
「ねえ、何で」
「どうして」
「何がそうさせるの」
「どうして、何で...」

 相変わらず自分の中の酔狂というか、ある種の狂気とでも言うべきなのか。“いつもの”との対話は実際の息苦しさ以上に、わたしを苦しめ、そして悦ばせます。こういうのは半ばマゾヒズムなのでしょうが、苦しいことに安心もするし、悦んでもしまえるのだから、やはりすでに何か、何処かが壊れていると改めて実感せざるを得ません。
 でも、安全の中からでは新しい地平が見えてこないことを、わたしはすでに知ってしまっています。自分の中の何かに挑まなくては前へは進めない。...このあまりにシンプルな真実を、わたしはもう知ってしまっているです。

 「あきづしまやまとゆ・弐」でも少し書きましたが万葉期、人々にとって旅とは死と隣り合わせの行為でした。だからこそ、多くの羇旅歌は妻恋歌でもあったわけで。旅がレジャーとなるのはずっとずっと後世のことです。
 恐怖との闘いの中で、人が最初に縋るものは神仏、人が最初に恋しがるものが人肌。いや、もっと厳密に言うならば人肌の温もりによって得られる安心、とするべきでしょう。だからその恐怖を知らずして、万葉の羇旅歌もまた知りうることなどできません。ただ歌意だけを辿ることしかできるわけなし。...されど、それでは歌が歌ではなくなってしまうでしょう。

 ずっと、詩という単語を持て余しています。というのも、わたしの中にある括りは散文と歌、俳句、連句でしかなかったからなんですけれどね。詩という存在とは、とにかく無縁に生きてきていて、なのに現代に歌をやっていると付いて回ってくるこの括りが、わたしにはどうにも困惑の源でして。
 そもそも歌とは何か。そういつも思います。そしてわたしなりの答えを、その時々で出してきています。時には以前の答えに対して意を深くし、時には以前の答えを部分的に否定もして、今日までやってきています。

 ただ、それらの自問自答の中で、どうしても崩れない背骨が1つ。曰く、
「歌とは散文では表せないもの。散文とは歌では表せないもの」
 という二元、あるいは二極構造です。要するに散文とは文意を理解してもらう前提を持ち、そこには相応の論理性が不可欠。一方の歌とは、自らが感じたことを感じたこととしてのみ放出。それによって何らかの感応をしてもらうことを前提とし、論理からの離脱が不可欠なのだ、と。

 最近になって思うのは、恐らくは世間が言う詩とは、わたしが言う歌と同義なのだろう、ということで、そんなことは
「漢語の詩=和語の歌」
 から始まって、歴史上ずっとそうだったじゃないか、と言われてしまえばそれまでなれど、やはりそれまでではないように思います。
 何故、わたしにとっての歌=世間の詩なのではないか、とわたしは思い始められたのだろうか。...専ら今のわたしの最大の謎はそこにあります。どうしてなんでしょうね、本当に。

                

 焼火神社への道は、想像していた以上に整備されていなくて、喘息云々以外でも怖いと感じた場面が数箇所ほど。大体そういった箇所は片側がかなり急勾配の崖になるのですが、そういう場所に限って景色も良くて、ついついふらふらと崖へ近寄ってしまいます。春の朧な空気に包まれた島々や大岩たち。内海に向いている山ですから、視界の奥に見えるのは知夫里島か中ノ島でしょう。仮に外海に向いていたら...、島後か本土は見えるのでしょうか。
 苦しいからこそ、感じられる視界の美しさも一入で万葉期、人々は恐怖と闘いながらも景色に励まされては謡ったのかもな、などとぼんやり考えていました。もちろん、現代で言う景色の美しさと、当時のそれとは全くの別物だったのでしょうけれども。

 恐怖があるから安堵がある。醜さがあるから美しさを感じられる。そういうものだと思います。だから二元であること、二極構造であること自体は、とても必要なことなのでしょう。以前、何かで書いた拙文なのですが
「何故“それ”は“それ”なのだろうか。その答えはいつだって1つしか存在しない。すなわち、何故ならば“それ”は“これ”ではないから、と。どうすれば“それ”を知ることができるのか。その答えもいつだって1つしか存在しない。すなわち“これ”を“これ”としてきちんと知り、認識し、固着させること」
 と。ただ、わたしが哀しいのは、そうやって固着された二極のものに、順位が着くこと。それが堪らなく哀しいのでしょう。

 島と大陸、散文と歌、それぞれを、それぞれとしてよりしっかりと受け止めるためには、それぞれとは異なるものとの差異を、より深くなぞらなくてはなりません。つまり、わたしにとっての歌=世間でいう詩、という公式を受け入れられ始めたのは、わたしにとっての散文と歌の境界が、今まで以上に克明になったからだ、ということなのかも知れません。いや、そうなのでしょう。
 ただ。ただ、なのです。たまたまわたしにとっては散文も歌も好きで、縁遠かった詩というものも呼称の違いはあれど歌と同義、としてしまうのならば詩も好き、となってしまいます。だからここには順位はありません。哀しくはないのです。大陸と島も同じ。どちらも好きです。だから少なくともわたしにとっては順位などなく、それでいいわけで。

 後付け的に世界から付与された概念たち。高いは低いより優れ、優れるものは劣るものより良く、良いものは悪いものよりも価値があり、そして価値があるものとは好きなもの。価値がないものは好きではないもの。...すべてはそういう二元論に集約されるのかもしれません。
 ならば好きとは何なのでしょうか。何故わたしが選んだのは歌なのか。何故、万葉であって古今以降ではないのか。何故、旅なのか。

 好きという思いが順位という哀しみを生み出す源泉なのだとしたならば、好きとは狂気。そういうことなのではないでしょうか。理由などなく、それに惹かれる。...当たり前とは言えやはりその、不条理具合に狂気を見てしまうのが、今のわたしにできる最大限のものでしょう。好きとは狂気。だから恐怖に塗れながらも登らずにはいられない焼火山。
 ...一体、わたしは何を考えているのでしょうか。荒い息と大きく上下してしまう肩と、滲む汗と。気づけば焼火神社の狛犬が山道の両端に佇んでいました。そしてその先を軽く右に曲がると...、焼火神社です。

  

 焼火神社。焼火山の大岩とそこに開いた岩穴へ寄り添うように、すっぽりと当て嵌まるかのように建つのは本殿なのでしょうか。お社の手前にはご神木の大杉。
 ...いや、各地を周って来ていますから、それなりに様々なお社を見てきている自負はあります。ですが、ここは実際に来て見て、過去にあったような土地から立ち上る神意のようなものが云々、という意味で、ではなくむしろ人為。そう、人の子たちが為してきたことと、そこに至る思いとか意志といった意味で、圧倒された初めての場所となりました。大袈裟でもなんでもなく、愕然としたと言いますか...。

  

 例えば、大和と近江で何度も実感した、
「何だってこんな高地にわざわざ参拝地をつくるのか」
 という疑問も、突き詰めれば盆地ゆえに太古、中央の平野部は湿地帯。自然、山の中腹から拓け始めたのだ、という地質学的な理由によって納得して来ました。ですが隠岐は島です。こういう海中から突き出した島、というのは言ってしまえばその島自体が山、ということになりますしその多くは火山。活火山か死火山かは別としても、そういう立地にあって、敢えて高地を目指したい衝動は、一体何処からやってくるのでしょうか。そして、それこそが隠岐へ来て以来ずっとわたしに付きまとって離れようとしない二元論という哀しみの根源にも通ずるのではないか、と。高きと低きならば、高きの方が優れている、としてしまう感覚の根源です。

 喘息の発作止めを吸入し、ゆっくりと深呼吸します。大丈夫、どうやらそれほどは苦しくなっていません。大丈夫です。3月末、緯度的には群馬県とほぼ同じ土地のやや高地にいるにも関わらず、うっすらとかいてしまった汗を押さえながら、大岩にまるで抱きかかえられるかにして建つお社を眺めていました。
 かつて熊野界隈で、磐座をご神体としている神社を訪ねました。あの時も岩そのものの大きさに圧倒されましたが、今回とはちょっと状況が違います。何故なら、あの時は磐座がご神体であればこそ、注連縄が張られて、人為の表れともいえるお社がご神体に肉薄するほどの傍には建てられてはいませんでした。

 一方、ここ・焼火神社のご神体は磐座ではありません。山そのものがご神体なのです。ですが、かといって三輪山のように山そのものが禁足地。すなわち神域とされているわけでもなありません。ならば葛城山のように山岳信仰の対象としてすでに成熟しきり、老成しているかのごとき厳粛さを漂わせているのか、と思いきやまだまだ内に凝らせた熱が伝わってくるような勢いが、周囲に自然と漏れてしまっていると感じます。
 不思議です。実に不思議なお社だな、というのが率直なわたしの感想でした。...とあれ参拝しましょう。

 祈りながら、何の脈略なく思い出していたのが、大和国の吉野川でした。大和盆地には幾つも川が流れているにも関わらず、特別な川として人々の憧れを惹起した川。そして、その憧れの根底に流れていたのを、かつてわたし自身がこう解釈しました。
「吉野川は大和盆地を流れずに紀伊を流れて太平洋へ注ぐ。他の大和盆地を流れる川は盆地内で合流し、難波を抜けて大阪湾へ注ぐ。つまり、吉野川は、吉野に来なければ見られない川だった。だから、飛鳥や藤原、平城の人々は吉野川に焦がれた」
 ...これが答えなのかもしれません。祈り終えて顔を上げ最初に感じたことです。そう、これが答えなのだ、と。

 得難きものは尊きもの。身近なものは大切なれど、滅多には手に入れられないからこそ掻き立てられる憧れは、当然といえば当然のことに過ぎません。つまり、高きに焦がれるのはそれだけ得難きもの、近寄り難きものだから、と。大きいものと小さいもの、多いものと少ないもの、上と下...、なるほど。その通りです。
 例えば、高い>低いや大きい>小さい、などのように、定量法的に数値化した際、数値が大きい方がすべて優れている、という固定観念があるわけではありませんから。判りやすい例ならば重いと軽いではどうなのか、と。必ずしも重いばかりがいいと言えないはずです。
 天平期の量刑について、すでに書きましたが刑などは軽いほうがいいに決まっています。少しでも軽い刑に...、そういう思いが前提としてある、すなわち得難さがここに存在しています。現代で言うならば、ダイエットなんてものすごくわかり易いものでしょう。

 ましてや、数値化できない概念に至っては言わずもがな、ですか。正>誤、聖>俗、善>悪、美>醜、などなど。人が人ではない神という概念を生み出した根源もきっとここにあるのでしょう。得難きものは尊きもの、と。つまりは人間の欲です。...それこそ、人が人である最大の所以。それゆえの二元論と二元論による格差と。

 欲り欲りす
 うらはひとゆゑ
 空蝉のひとなるゆゑと沁むれども
 なほしかなしや
 かなしびにさねつらふ色みづの色
 綿津見の色
 風の色
 あれどなき色
 恋ひ恋ふる
 うらもひとゆゑ
 空蝉のひとなるゆゑに
 あれがかなしぶ

 ひとの子に生りひとの子で在るをかなしぶ
 ひとの子であるゆゑかなしぶこともなせるに   遼川るか
 (於:焼火神社境内)

 
 哀しむという傲慢もあるのでしょう。その1つが、隠岐に着いてからのわたし自身だったのだ、と。そして今でも、です。焼火山と焼火神社。それでも人々が見続けた神の具象として、ここにあるものたち。...これまた人間のエゴ、傲慢の表れですね。もっともエゴも傲慢も全てが全て批判されるべきのではない、ともいま改めてわたしは感じていますが。
 木々の隙間から、海が見えています。


                             







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