焼火山を降りて、でも車に乗り込む気にもなれず、しばしまた海を眺めていました。欲。それは生きているものが負っている生きるための機能です。食にしても生殖にしても、すべては命が負い、負わされたもの。生きているものは当たり前のこととして生きることを望み、その前提で日々を暮らす。その為の機能として備わっているもの、それが欲です。
 もっとも食物連鎖の頂点に、たまたまいられる人類の欲はそれだけには留まってもいませんが。ですが仕事する身でこうやって歌のため、古歌紀行文のため、と隠岐までやってきているこの瞬間も、言うなればわたしの欲。後鳥羽院が、後醍醐が、鎌倉に弓を引いたのも欲。一ノ宮と総社の間で揺れ動いた水若酢神社と玉若酢命神社も、紆余曲折を続ける隠岐国分寺も、その裏側にはすべてひとの欲がありました。...欲、なんて言葉を使うと、ネガティブに感じてしまいがちですけれどね。それがひとの世の習いなのでしょう。

 個人的にはこんな風に体よく判った振りをするのは嫌いです。ですが同時に、そうでもしなければ出られない迷宮があることもまた、わたしは知っています。だからわたしは、少しズルをして自分を納得させます。...それが、少しばかり痛いのです。それが、かなりの敗北感として満ちてきているのです。
 いや、別に負けるのが悔しいというわけでもないんですけれどね。第一、わたしが負けた相手はわたし自身ですから。ただ、
「もう一度しっかりと足元から見つめなおさなくちゃなあ...」
 半分以上は無意識にそんなことを呟くしかできませんでした。すでに日差しは傾き始めています。今日の予定の一番最後は、それなりの景勝地となりますから日が差しているうちに着かなければならず、ずるずると重くなり始めている気持ちを無理やり引き上げて、西へ向かいます。

 西ノ島には別府港の他に、もう1つ大きな港があります。浦郷港というのですが、ここは後醍醐の隠岐脱出に関連して少し触れた美田港のさらに西。地図で見ると西ノ島は中央で大きく括れているような地形をしていて、ここまでの訪問地はすべて、その括れの東側だったのに対し、これから先は西側、と。お話が前後してしまいますが、美田港はちょうとその括れの辺りに存在しています。
 ...もちろん、浦郷の港を訪ねたいのではなくて、わたしが目指しているのはそのまた西の先にある由良比女神社。こちらもまた延喜式に名神大として記されている、式内社になります。また、島後の水若酢神社が隠岐国一ノ宮として認識されている一方で、この由良比女神社も、隠岐国一ノ宮とされていますが。...詳細はよく判りません。というよりも、ここまで複雑だとそもそもの一ノ宮信仰そのものに、若干の距離を感じ始めてしまっているのが、偽らざるわたしの本音。なので、一ノ宮だから。式内社だから。ということではなくて、あくまでもそのお社がそれぞれの人にとって、どんな存在だったのかを感じたいです。

 春の西日がとろん、と周囲に散らばっていました。時間にさえ追われていなければ、ここでしばし昼寝でもしたくなりそうな、そしてもうすぐやってくる夜を穏やかに迎えたくなるような、ひと時です。
 清女は春はあげぼの、と書き残しましたがわたし個人で語るならば、春は絶対に黄昏時、となります。本当にこの春先のこの時間帯は、自分までもが透けて世界に同化してしまえるように感じて素敵です。そして、とても感傷的にもなってしまいます。

 由良比女神社。予習している範囲では貫之の土佐日記に道触りの神、として登場している、とのこと。

| 廿六日、まことにやあらむ、海賊追ふといへば、夜中ばかりより船をいだして漕ぎ
|くる。道にたむけする所あり。楫取してぬさたいまつらするに、幣のひんがしへちれ
|ば、楫取の申し奉ることは
|「この幣のちるかたにみふね速にこがしめ給へ」
| と申してたてまつる。これを聞きてある女の童のよめる、

|  わたつみのちぶりの神にたむけするぬさのおひ風やまずふかなむ

| とぞ詠める。このあひだに、風のよければ、楫取いたくほこりて、船に帆あげなど喜
|ぶ。その音を聞きて、わらはもおむなも、いつしかとし思へばにやあらむ、いたく喜ぶ。
|このなかに淡路のたうめといふ人のよめる歌、

|  追風の吹きぬるときはゆくふねの帆手てうちてこそうれしかりけれ

| とぞ。ていけのことにつけていのる。
                        紀貫之「土佐日記 一月廿六日」


 ...貫之の時代、どうやら由良比女神社は焼火神社同様、海上守護の神としてかなり信仰を集めていたようですね。つまり、由良比女神社にしても、焼火神社にしても大前提として当時の隠岐は島前、あるいは西ノ島が海上交通の要衝だった、という事実があってこそのものでしょう。実際、軽く調べた範囲では、大陸への海路に隠岐は不可欠だったのだ、と。...最後の補給地でもあったのでしょうね。水や食料の。
 土佐日記では、土佐から京へと向かう途中、海賊を恐れた一行が、道触りの神に旅の安全を祈念した歌に詠み込まれています。しかもその歌を詠んだとされているのが童女なんですね。もちろん、和歌を嗜む程度の教育を受けていた童女となりますが、それでも年端もゆかない子どもですら、海上守護の神様=道触りの神、と知っていたことになるわけで、どうして、どうして。少なくともわたしが認識していた以上に、隠岐という土地は都に...、少なくとも京の都には気持ちの距離が近かったのかもしれません。例えるならば、現代でいうところの縁結びの神様なら出雲大社、学業の神様ならば大宰府、というようにその代名詞的存在だった可能性か高いのではないか。そう、愚考してみますが如何でしょうか。

 美田界隈を過ぎ、やがて浦郷港界隈も越します。この辺りではすでに海沿いになっていて、つい30分程前は焼火山の中にいたというのに、とここが島であることを再実感してしまいました。
 ひたひたと岸や停泊中の船の縁に寄せる静かな波。世界全体が淡い金色に包まれているような、光景が見渡す限り続きます。そして、そんな景色の中にぽつんと浮かぶ鳥居。すでに境内は日陰に入ってしまっていますが、それでも洩れて差し込む光に淡く縁取られた拝殿や土俵、そして本殿。...由良比女神社です。

  

|乙巳。隱岐國智夫郡由良比賣命神。海部郡宇受加命神。穩地郡水若酢命神。並預官社。
                  「続日本後紀 巻12 承和9年(842年)9月14日」


 これは、恐らく六国史に由良比女神社が最初に登場した際の記述です。他の隠岐の大社同様に官社として預かる、という朝廷の決定を記している内容なのですが、現代でいうならば民間空港に対し、重要度が高いから国営としますよ、と国が決定するのと同じようなことになるでしょうか。
 焼火山に関連して書いた一条帝の時代が986年〜1011年ですから、それよりも古い平安初期にはすでに隠岐はこういう存在だったことになります...。ただの流刑地では決してなかったのだ、と。

 このお社は海に面しているのですが、その浜へ、秋から冬の間に烏賊が大量に押し寄せるとのことで、地元ではするめ大明神とも、いか神様とも呼ばれているようですね。但し、近年は流石に烏賊の数も減っているようですが。
 祭神は海童神=海神あるいは須世理比売命とも。...いやはや、いずれにしても大物が登場してきました。

 覚えていらっしゃるでしょうか。同じく一ノ宮とされている島後の水若酢神社の祭神を。はい、その名の通り水若酢命で、しかもその神様は海中より現れて山越えしたのちに鎮座した、という渡来神だったことを。
 一方、こちら由良比女神社の主祭神は海神(綿津見)か、さもなくば素盞嗚の娘にして大国主の正妻。縁結びの神として名高い出雲大社に夫婦そろって祀られている須世理比売です。片や渡来神、片や国つ神中の国つ神。この違いは何なのでしょうか。恐らくは同じく延喜式神名帳に記載されている以上、創建の時期も、そして中央に知られた存在となった時期も、そうは大きく違わないでしょう。それなのに島前と島後の間に横たわる、何か。その片鱗を垣間見てしまった気がしています。

 お話を戻します。ともあれこのお社の前に広がっているいか寄せの浜。ここに纏わる伝説に曰く、主祭神(綿津見or須世理比売)が海に手を浸したところその姿の美しさに目を奪われた烏賊が噛み付いた。または神武の時代に祭神が烏賊を手に持って現れた、などなど。
 ごめんなさい、この浜に烏賊がどれほど寄せるのか、そしてそれがどれほど奇跡のような現象なのか、は体験したことのないわたしには計りかねます。同時に潮の流れが云々、海流がどうこうといった科学的な分析も手に余るうえに、あまり興味がなく...。

 でも、地元の人々にとってそれは、まさしく天からの授かりものにして、大きな助けともなったもの。そこに国つ神なり初代天皇とされる神武の名前が語られていること。もう、これが答えなのでしょうね。きっと。
 穏座抜記にしても、伊未自由来記にしても。そして忌部の流れを汲んだ一族と、明治初期までずっと燻り引き継いだ反体制の気骨。非常に身勝手な感想に過ぎませんが、この格差が隠岐の島後と島前の間に横たわるものではないか、と。さらには単なる地理的なものから来ているはずの前と後、という呼称もそもそも中央からより遠いからこそ反体制的になり易かったと言えそうですし、その逆も可能性としては否定できず...。個人的には後、という呼称も反骨精神の肥やしとなったように想像してみたくなりましたが、如何でしょうか。

  

 参拝を済ませ、いか寄せの浜を眺めます。もはや哀しいなどとも思えず、ただただこれが統治というものなのだろう。そう思っていました。そしてそれは何もこの国の隠岐に限ったことではなく、世界中のあらゆる土地の、あらゆる時代に行われきたことであり、今もなお行われていることであって。さらにはそれらに底流しているものが、人間の欲です。
 そういえば須世理比売。この名前はどんどん勢いのままに進んでゆく意を持っています。当時の動詞の「すせる」がそういう意味なんですね。つまり、すせりびめ=すせるひめ、と。...偶然、でしょうか。あるいはもしかしたら、勢いのままに進んで各地を統治していった古代大和王朝の様とも無関係ではないのかもしれません。そしてここは、その須世理が鎮座する地なのです。

 いついづへ来しかは知らでけふにありいたくな沁みそけふあるかぎり  遼川るか
 (於:由良比女神社境内)


 そうそう。由良比女神社を後にしながら、ふと思ってしまいました。件の古事記冒頭に登場する隠伎之三子島。やはりあれは、島前の3島を指すのだろう、と。そして、そう解釈するのが島後にとっても望ましいのではないか...。
 本土を離れて2日。また1つ、わたしなりの答えがこの手の中に生れ落ちてくれました。

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 「なつそびくうなかみがたゆ」でも書いたことなのですが、湘南の近くで生まれ育ったわたしには、夕日は山に沈むものという印象がとても強いんですね。もちろん、日本に限らず世界各地で海に沈む夕日を見たことはありますし、その度に綺麗だなとは感じるもののほんのかすかな違和感が拭いきれずにいる、と言いますか。
 もしかすると今から訪ねる先でも、同様の感覚に淡く襲われるかもしれません。西ノ島上陸からすでに3時間以上が経過しています。そしてこの島での最後の訪問地にして、隠岐の古歌紀行2日目の最終訪問地。島前3島が向かい合う内海に面した浦郷界隈を離れ、一気に島の北側へ。そう、島後では白島崎を訪ねましたが、同様に島前の北岸の景勝地。残念ながら、緯度からすれば島前の最北ではありませんけれど、それでもやっぱり最果てと呼ぶに相応しい場所でしょう。国賀海岸です。

 そろそろ、慌て始めていました。まだまだ充分に明るいですけれど、撮影するに足る光量が保てているうちに訪ねて、そしてあれやこれやを済ませなければなりません。けれども国賀海岸へと続く道は、意外にもそこそこ混んでいます。また、途中々々にも工事による行き違い式の片側車線のみの部分があったり。
 さらに驚いたのは、そうやってブレーキをかけている間に眺める車窓の風景です。隠岐は牛の放牧が盛んだ、とは聞いていましたが道路の奥、傾斜を拓いて棚田や段々畑のようにした放牧地に、黒くて大きな牛たちがのんびりと草を食んでいて。しばし見とれてしまっていました。

 前日、白島崎を訪ねた時の感慨。それをゆっくりと自分の中に再現してゆきます。お話がすこし前後してしまいますが、わたしが古歌紀行で各地を周っている際、現地で即詠する歌は必ずしも上代語とは限りません。...もちろん、古歌紀行文には基本的に上代語詠のものしか収録していないのですが、それ以外にも現代口語あり、現代文語あり、上代とは明らかに異なる時代の古語詠も、あるんですね。
 何分、現地では感情が昂ぶって半ばトランス状態になっていますから、いちいち歌の体裁まで考えていませんよし。加えて、俳句が出でくることもありますし。

 ともあれ、そうやってやはり昨日、白島先で出てきた拙歌が2首。上代語ではありません。現代文語になりますが、国賀海岸へと向かうわたしは、その2首を詠んだままのテンション、そうじゃなければ前日のそれを、引きずったままでした。

 ひとの子のつくれるかたち 国ありて国なになるかひとの知らまじ  
                        遼川るか 白島先での雑詠より
 隔つるはみづなむ峯なむ敵はざるものひとは受く ここに国果つ   
                        遼川るか 白島先での雑詠より


 そう、白島崎から海とそこに浮かぶ小島たちを見てから。...いや、違いますね。本当はそのずっとずっと前から。記紀それぞれの冒頭に謳われたこの国のかたちと、その前提となる国というものへ疑問を抱いてしまった遠い日からずっと、わたしは答えを探しています。
「一体、国とは何なのか。国境とは何なのか」
 と。もちろん、普遍の答えなんかじゃなくていいんです。ただ、この瞬間だけでも納得したいという、ある種の我侭みたいなものでしょうか。それでも、思ってしまうんですね。国って一体、何なのだろう...、と。

 国。1口にそう言っても、上代に限定するならばそれは日本という今日的な国家を意味するものだけではないのかもしれません。天皇氏が各地を征して、あるいは制していった足取りは、葛城であれ東国であれ、そしてここ・隠岐であれ。すべて垣間見られます。
 恐らく、国家という構想をもって政にきちんと就いた最初の存在は、わたしが知っている範囲では推古期の摂政だった聖徳太子、となりますけれど、それ以前の段階で聖徳太子という存在は実在が疑問視もされていますし。...厩戸皇子、あるいは豊聡耳皇子は実際していましたけれど、聖徳太子は理想的な為政者として日本書紀などの編纂期に、捏造された可能性も拭いきれていません。

 想像するまでもなく、この島国に国家という概念が持ち込まれたのは大陸から。半島の三国時代や隋だ、唐だ、あるいはそれよりさらに以前。魏志倭人伝の記述の時代まで遡るならば後漢衰退後、と。
 つまりこの島の寄り集まった地域にとって、国とは最初から権力とは不可分のものだった、となるのでしょうか。...だとしたら、もうそこには人間の欲がこびりついていたものとして始まった、としてしまえそうです。なるほど、それならば判ります。そして人々はこの大地の上に、大海の上に、見えない線を引いていったのかも知れません。それが、そこで暮らす最大公約数の意思ではなくても。それどころかむしろ、意思に叛くものであったとしても、です。

 夕暮れの時刻を気にして淡々と走る車は、次第にゆるやかな蛇行を始めます。そろそろ国賀海岸が近いのでしょう。少しスピードをおとしてカーブを幾つが過ぎてゆくと、目の前にすこんと開けた駐車場が現れました。...着いたのでしょう。
 車から降りて最初に感じたのは全身を包むかのように周囲に満ちている潮騒。潮の香はそれほど感じられませんが、だからこそ余計に潮騒に圧倒されている自分がいました。

    

 国賀海岸。広がっていたのは柔らかな草地で、その周囲にはぐるり、と柵が施されています。ここは展望台のような場所ということでしょうか。脇にはより海へと近づくために下ってゆける道がきちんと舗装されています。ですが、その舗装された道をゆくよりもずっと、わたしを捉え視線を釘付けにしたのは、展望台の柵の先。絶え間ない潮騒に縁取られた初めての景色。
 数多の波による侵食によって造られた大小様々な奇岩たちと、それらを今もなお侵し続ける波と、そのさらにさらに向こうには夕日が、海面に姿を長く映しながら沈んでゆこうとしています。耳の後ろではわたしより後からここに来たらしい観光客のお喋りが、途切れ途切れに聞こえてきます。でも、でも...。

 「...上古国防最前線」
 知らず呟いていたひと言です。過去の古歌紀行文の中で何度となく書いてきていますが、白村江の大敗以後、対馬や壱岐、そして隠岐などの島々には対半島・対大陸のための設備がおかれました。つまりあの時代、この島もまた確実に国境という最果ての地であり、此方と其方を隔てる境界でもあり。...あまつさえ21世紀の今でも竹島(独島)に関連して、隠岐界隈は境界線上をゆく舟のままです。
 内と外とを隔てるもの。隔てることで守られるものと、脅かされるもの。得難いものは尊く、それゆえひとは守りたがる。得難いものは尊く、それゆえひとは欲しがる。たったそれだけのことにして、どうしようもなく重たい“それだけのこと”。

 でも、隔てられてこそ伝わるものもまた確実に存在しています。例えばわたしがずっと引きずっている歌と詩の境界。今でこそ“少なくとも世間の言う詩”とはわたしの言う歌と同義なのかもしれない、とも思い始められています。ですが、だからといってわたしの中で、歌と詩が等号で繋がれることは、恐らく未来永劫ないでしょう。同時に、詩のなかのひとジャンルとして括ることも、世間はどうであれ、わたしにはきっとできません。
 それは、わたしの中で歌と詩の間に境界が最初から存在していたからであって、ではその境界とは何かと言えば、いくつか即答できるもの中に国境が含まれてしまうやも知れません。...可笑しな話です。この現代、一般に
「わが国古来の独自文化である和歌」
 と呼ばれるものは古今和歌集以降の漢詩の影響を多分に受けてしまったもののこと。そしてそれ以前の、古代歌謡はそこに括られません。

 では、わたしが倭歌だと信じて疑わないものは。それは一体どうなのでしょうね。...少なくとも記紀の冒頭の国生みが立証する、当時の人々はとっくに日本海(平和の海)なんて越えていたのだ、という現実を前にして、いかなわたしとて自らが信じるものが生粋の倭歌だ、などと主張できるほど恥じ知らずではなし。そもそも、そんなことを主張する意味もわたしには得られません。...なのに、いまだ詩は受け入れられず。
 いやはや、何とも面妖な。でも、これこそが理性では括れない感情というもの。境界などものともせずに越えてゆくわたしの中の風です。

 「なぜ、世間の詩と自分の歌がほぼ同義ではないか、と思い始められたのか。...それはきっと、受け入れられたからではなく、その意味を感じなくなりつつあるから、なのだろうな」
 独り言が風に舞って空に消えてゆきます。境界。そこに境界があるのならば越えたい。だからわたしにとって歌は越境です。ですが、そもそもそれを境界とする意味が、どれほどあるのか。この地上に縦横無尽に走る見えない境界線の群れたち。違いはもちろんあります。それを一緒くたにして同じだ、とする暴論は流石に持ち合わせていません。
 ですが、違うという事実がそこにあるからといって、何も必ず境界線を引くこともまた、きっとないのではないか、と。...いや、ないのでしょう。

|あまの原ふりさけ見れば春日なるみかさの山にいでし月かも
                   阿倍仲麻呂「古今和歌集 巻9 羇旅歌 406」
|天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
                         安倍仲麿「小倉百人一首 7」


 思い出していたのは、あまりにも有名なこの歌です。阿倍仲麻呂。大伴家持よりも20歳くらい年上になりますか。遣唐使として唐へ渡り、唐の官人として様々な職務に就任。その後、帰国しようとしたこともあれどついぞ叶わずに、大陸に骨を埋めた人物ですね。科挙に合格した、という説もあるようですし、李白や王維などとも交流があったようです。仲麻呂が帰国を許されて出航したものの船が難波した、との報を聞いて李白がこんな漢詩を残しています。

|日本晁卿辭帝都  日本の晁卿帝都を辞し
|征帆一片遶蓬壺  征帆一片蓬壷を渡る
|明月不歸沈碧海  明月帰らず碧海に沈み
|白雲愁色滿蒼梧  白雲愁色蒼梧に満つ(書き下し:遼川るか)
                              李白「哭晁卿衡」


 阿倍仲麻呂。彼が残した歌は上記引用の1首のみ。しかしこれとて、どこまでが彼のものかは何とも...。

|間人宿祢大浦の初月の歌二首
|天の原振り放け見れば白真弓張りて懸けたり夜道はよけむ
                         間人大浦「万葉集 巻3-289」
|春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ
                         作者未詳「万葉集 巻7-1295」
|春日なる御笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく
                         作者未詳「万葉集 巻10-1887」


 ただの類歌か、あるいはこちらが派生歌か、そんなことは確かめようもありませんし、確かめる必要もありません。ただ、これらの例からして当時かなり一般的な表現だったらしき謡いまわしだけで成立している歌であることは、覆らないでしょう。
 古今和歌集の左注には

|この哥は、むかしなかまろをもろこしにものならはしにつかはしたりけるに、あま
|たのとしをへてえかへりまうでこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたり
|けるにたぐひて、まうできなむとていでたちけるに、めいしうといふ所のうみべに
|てかのくにの人むまのはなむけしけり、よるになりて月のいとおもしろくさしいで
|たりけるを見てよめるとなむかたりつたふる
                      「古今和歌集 巻9 羇旅歌 406」左注


 







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