と記されていますね。..これによって現代人も知る仲麻呂=望郷という公式が定着しているわけですが、個人的にはとても懐疑的に捉えています。少なくとも、歌の作者としての仲麻呂に関しては、ですが。
 けれども、確かに帰国が叶わなかった彼が、望郷の念を抱いていたであろうことには何の反論もなく、むしろそうあって欲しいとさえ思っています。それ故、この上古国防最前線とも言える国賀海岸にて、すぐに彼を想起してしまった理由でしょう。

 ただ、彼が帰りたかったのは当時の日本という国家だったのか、それとも懐かしい土地だったのかはどうなのか、と。国境なんてものがイデオロギーとロジックによって引かれている見えない線であるならば、なおさら望郷という感情はそれを越えて、その先にあるものを見ていたのでしょうし、見るものなのでしょうし。
 言葉とは、本当に難しいものです。言ってしまえば様々な名前とそれに付随するものから成立している体系であって、中にはとても便宜的な置き換え用に、その言葉を纏っている事物や現象、想念などなどはたくさんあります。言葉はとても便利な道具ですけれど、万能では絶対にありません。むしろとても窮屈で、不便なものとも個人的には思っています。

 でも、その窮屈な檻の中でわたしたちは詠み、謡い、書き、語り、伝えてもいます。理由なんてどうでもいいですし、事実もまたあまり重要ではないでしょう。それでも、現代に仲麻呂作とされている歌が1首あり、それがとても多くの人を魅了していることは、現実です。
 こんな最果ての地、奇岩が立ち並び、潮騒に圧倒されそうになっている心細さの中で、それでもわたしが思い出していることも現実。...そして、それが全てです。

 歌。それは訴ふもの。これはわたし自身がずっと信じている、言わばわたしの背骨です。訴えるには思いが必要で、しかもそこにはかなりの内圧が掛かって初めて訴ふもの、となります。異国に果てた仲麻呂。隠岐で最期を迎えた後鳥羽院、同じくそう伝えられている柿本美豆良麿。その一方で帰れた後醍醐天皇や大伴永主、小野篁。..そういえば帰国が叶わなかった仲麻呂とは裏腹に同時期、無事帰国した遣唐使の中には、吉備真備や玄ムがいます。いずれも奈良時代の本当に末期、歴史の表舞台に立った者たちです。

 帰りたい...。恐らくこの感情は、何処へとか何へなどとは無関係に、わたしたちが負っているひとつの本能のような気がします。根源にあるのは母胎回帰願望、でしょうか。でもその一方で、やはり負っている相反する本能もあります。行きたい、という。
 この相反する本能であり、情動でもあるものの二律背反に苦しんでいました。そしてそれを北と南、という方位に喩えて詠み続けた時期があります。いや。訴え続けた歌たち、です。2つに裂かれるということ。裂くということ。でも、必要以上に裂かなければならない理由もまた、存在していません。
「1つにしたい」
 と望むから実際以上に裂かれる思いは、
「2つであっていい」
 という前提のもとではそれ以上は裂かれることが、恐らくはない。国と国、歌と詩、北と南、人と人、これとそれ。...そして、わたしとあなた。
 展望台から脇道を下って、降りられるところまで降りてみました。春先の夕日がわたしの見ている先で水平線の向こうへ消えてゆきます。

 「最果て。そう思っていたものは確かに最果てであり、けれども同時に最果てではない。それがきっとこの世界の意思なのだろう」
 この日、わたしの中の1つの時代が静かに終わってゆきました。何が、どう、何で、などなどは一切、わたしにも判りません。ですが、ただそれだけを明確に、わたしは感じていました。納得、していました。

 来し方はわたのそこひゆ
 千早振る神つ代なれば常世とも
 みなひと言ひしか
 わたのそこまたも出でむとうまひせし
 根の堅洲国
 黄泉つ国
 霊は海処をゆくらむと
 霊は陸処もゆくらむと
 うまひしてこそ覚めらるれ
 隠ればこそに生らるれと
 みなひと言ひき
 言ひたれば
 なほしゆかなむ
 帰らまくほしくともなほ
 ゆきゆかむ
 在らざるものの尊きを
 得られぬものを欲るてふを
 いかに呼ばむや
 号けむや
 いかほど号け違へども
 いかほど呼ばひ分けたれど
 ひとはひとゆゑ
 魂は魂
 あれはあれにて
 ゆきたきも
 帰らまくほしうらもまた
 あれゆゑあれが
 うらひとつなり

 老い初めぬ あれ号くるは老いとのみさても世をゆく風あらたしき  遼川るか
 (於:国賀海岸)


            

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 明け方から、うつらうつらしながらかすかに聞こえていたのは雨音でした。目覚めて宿のカーテンを開けると、眼前に広がる別府港は柔らかな春雨に濡れそぼっています。本土を離れてからずっと、軽く汗ばむ陽気だったのですが、今日はやや肌寒く...。出番がなくてバッグの底で眠っていた薄手のコートを取り出しました。
 本土を離れて3日目。そして今回の隠岐の旅の最終日が明けました。夕方には本土へ向かうフェリーに乗ります。そしてまたいつの日か、再訪を...。だめですね。今はまだそんな気持ちになれません。何故なら、隠岐の主たる4島のうち、まだ訪ねていない島があるからです。最初の訪問も済ませていないのに、再訪なんて、...と。

 知夫里島。わたしがまだ訪ねていない、最後の島です。そしてその古名は道触りの島。すなわち、道触りの神の斎く島、となりますか。...足掛かり、あるいは道標の島、と。
 宿を一歩出ると細かな雨が思っていた以上に降っていました。ここまではすべてフェリーで島と島の間を移動してきましたが、今日は違います。水上バスのような連絡船“いそかぜ”が島前3島間を走っていて、そのかなり朝早い便に乗ります。

 フェリーたちの港とその波止場から外れて、奥まったところにある小さな入り江のような場所の傍に、まさしくバス亭のような建物が1つ。屋根とベンチだけで、中に入っていても、細かな雨が吹き込んでくるそこで、船が来るのをぼんやりと待っていました。
 前日、国賀海岸で図らずも思えてしまったこと。
「わたしの中の1つの時代が終わった」
 一体、あれは何だったのだろうか、と。そして、その翌日に向かうのがよりにもよって足掛かりとか、道標などの意味を持つ道触りの島。

 旅を続けていると、本当にこういう偶然とは言い切れないほどの偶然に、頻繁に遭遇します。まるで何者かの意志に沿って、そうとも知らずに動かされているかのようです。本当に、いつも愕然とさせられて...。
 でも、ずっとわたしの中で貫いて来ていることの1つに、この手の偶然や巡り合わせには絶対に逆らわない、というものがあります。そう、これが誰かの意志であろうが、単純にわたしがそう思いたいだけの偶然であろうが、はたまた他でもないわたし自身が無意識にしている選択の結果であろうが。...逆らってはだめなのです。そのまま流れに自らを委ねるのが最良、とわたしはずっと信じています。はてさて、その道触りの島は、一体どんな風にわたしを迎えてくださるでしょうか。何はともあれ、連絡船に乗り込みます。

  

 連絡船の中は思っていた以上にこじんまりとしていて、乗客もわたしのほかにも1人だけ。別府から乗り込んだのはわたしだけでしたから、中ノ島からのお客さんでしょうか。いずれにせよ、行き先は同じようです。
 柔らかな春雨。陸ではそう感じていた雨脚も、海上にでると意外にも強いものらしきことに気づきました。船もかなり揺れ、それなりに時化でいるのでしょう。この連絡船は天候不良になると欠航する、とは聞いていたものの、
「この程度の雨なら...」
 と欠航の可能性なぞ、ほんの一瞬だって頭を過ぎらなかったんですけれどもね。やはり自然とは、そんなに生易しいものではないようです。...当たり前のことなんですけれども。

 中ノ島と西ノ島、そして知夫里島3島が向かい合う内海を、連絡船は進みます。窓からはずっと陸地なり岩影なりが見えていて、どれがどの島で、どれが何で、などということは、地元民ではないわたしに、判るはずもなく。けれども、そうやって陸地が見えている以上はすぐ到着できるだろう、と思っていたわりには存外、長く乗っている気がしていました。けれどもそれも、前方に小さな桟橋が現れ、どんどん近づいて来ていることから、そろそろ終わるようです。
 船内から出て、船べりから見た道触りの島は淡い鈍色の中、周囲に溶けるでもなく、存在を殊更主張するでもなく、すっくりと佇んでいました。

 この島で絶対に訪ねたい場所は3ヶ所。時間と気持ちに余裕があればもう1ヵ所。そんな心積もりで何はともあれ車を借りて、最初のポイントへ。島の大部分は放牧や、観光のために広々とした景観のまま保全されているこの島だからでしょうか。どうやらこれまで訪ねたどの島よりも民家が局地的に密集している印象です。車ではやや走りづらいかな、と。
 すでに前述していますが延喜式の時代、隠岐は島前・島後を通じて4郡とされていました。といって各島毎に、というわけではありません。島後は周吉郡と穏地郡の2つに分かれ、中ノ島はそのまま1つで海部郡。...はい、そうなれば4郡のうち3郡までが出揃ってしまうわけで、では最後の1郡は、と言えばそれが西ノ島と知夫里島を合わせた知夫郡、と。

 ...もうお判りでしょうか。つまり、西ノ島で訪ねた由良比女神社が知夫郡の明神大だったわけですから、この知夫里島にはどうなのか、と。いえいえ、ちゃんとこの島にも式内社は存在しています。そもそも件の由良比女神社も、かつてはこの島に鎮座していて後に西ノ島へ遷ったとされていますしね。そこはやはり、土佐日記が書かれた時代、すでに広く知られていた島ですよし。

|知夫郡 七座 大一座 小六座
|    由良比女神社二座 名神大
|    大山神社
|    海神社二座
|    眞氣命神社
|    天佐志比古命神社
                           「延喜式 巻10 神祇10」


 平安期から今日までの間に、全ての神社がそのままでいるわけではないようですが、ともあれここ知夫里島には、
「島の一宮(いちぐう)さん」
 と呼ばれる式内社があります。天佐志比古命神社。それが、この島での最初の訪問地です。

 車2台では行き違いができないかのような小学校脇の細い道を、時速20Km以下でのろのろ進みます。春休み中でしょうから子どもたちが飛び出してくることも少ないでしょうが、なかなかに緊張感を伴います。時折、建物が途切れて見える海はさらに時化たのか、海鳴りがくぐもるように響き続けていて。詳細な地図もなく、それでも進む先に見える石段。どうやらあれを登れば、天佐志比古命神社への参拝が叶うのでしょう。少しばかり広まった場所に車を止め、小糠雨の降るなか、外へ出ました。
 いつものことですけれど傘はなく、総じて淡い灰色をした景色の中へ、ゆっくりと同化してゆくわたし。お社と、そしてこの島と同じ雨に今、降られている。この事実がひと時の帰属意識を生み出します。あるいは一体感、でしょうか。

  

 天佐志比古命神社は、お社そのものはそれなりに古びていますが、石段や鳥居などの周辺の設備に関してはそこそこ新しい印象で、それがどこか親しみ易さといいますか、地元の人から一宮さん、と呼ばれるのも自然と頷けてしまう雰囲気です。そして、半ばモノトーンの世界に、そこだけが総天然色であるかのように咲いている紫の花の群れ。都忘とも、矢車菊とも微妙に違って見えたのですが、恐らくは自生ではないでしょう。...本当に地元の方に大切にされているお社のようです。
 祭神はその名の通り天佐志比古命。そしてこれはすなわち海の指し彦命、ということらしく、まさしく海上の道を指し示す道触りの神さまなのでしょう。...この界隈の多くの家が漁業に関わっているようですから、親しまれ、信奉されているのも自ずと納得できます。

 たまたま目を通していた資料にはこのお社で、記録に残る最古の神官とされている佐藤貞重が詠んだという歌もありました。

|有りがたや神の教えに従いて御碕たのしむ我が身なるかな
                  佐藤貞重「隠岐は絵の島歌の島」より孫引き
                   ※歌の表記も資料のまま引用しています。


 中世の人とのことですが、歌の印象からすると、表記もさることながらもっと後世のもののようですけれども、如何でしょうか。

 ともあれ、そんな島民たちの信奉の現われの1つに、隠岐神楽歌があるのだと感じます。こちらも同一の資料からの孫引きで恐縮なのですが、このお社の祭礼には欠かせない、神楽舞が伴う歌たちです。

|此の御座に悪魔は寄せじ魔は寄せじ寄せじが為を祈りこそすれ
                 隠岐神楽歌「隠岐は絵の島歌の島」より孫引き
|庭火たく岩戸の前の夜神楽を面白し面白しと神や見るらん
                 隠岐神楽歌「隠岐は絵の島歌の島」より孫引き
|氏子をば神こそ守れ千年まで丸なる岩の平となるまで
                 隠岐神楽歌「隠岐は絵の島歌の島」より孫引き


 受け取り用によっては、神聖な神楽歌に対して失礼に当たるやも知れませんけれど、個人的にはなかなかにカオスだ、と思ってしまった神楽歌です。悪魔、という概念は相当、時代を下らないとこの国には渡来しませんし、他の2首は天岩戸伝説と君が代を下敷きにしていると思われますから。
 ...いえ、批判しているつもりは毛頭ないのです。むしろ全くの逆。本来、神楽歌とは田楽から始まった大衆芸能に根ざしているもの。古式ゆかしい神楽歌が現存していることは、同時にそれ以降の時代に氏子たちによるその時代々々ならではの神楽歌が自然発生してこなかった、あるいはそれが継承されてこなかった、ということの証明ともなりえます。

 それがこの天佐志比古命神社はどうでしょう。確実に明治以降、もしかしたらば昭和期にも氏子たちが自然と歌い、引き継いできた神楽歌があって、しかもそれを今でも神楽舞に伴わせて祭礼奉納しているのです...。
 各地のお社を随分と周っている自負があります。神楽歌もあれこれと見聞きしてきている自負だってあります。ですが、こういう事例はもしかしたら初めてではないでしょうか。この衝撃は、なかなか筆舌に尽くしがたいものがあります。

  

 ...歌。それもわたしが信じている古代歌謡とは、本来こういう市井の人々によって自然と謡い謡われ、また謡い交わされ。その中で数多の派生歌もまた生まれる。わたしたちだって子どものころに替え歌などをやってきています。言ってしまえば本歌取りも、派生歌も判り易く言い切るならば現代の替え歌のような経緯によって生まれ出たものたちのはず。インスパイヤがインスパイヤを呼び、次々と姿を替えてゆく歌は、やがて自らで移動することができるようになります。人々の口から口へ、謡い継がれて移動してゆく、動ける歌たち。
 文字化されたものは、自らは動けません。その紙のうえに固着され、確かに写本などで広がりはしますが、自らは動くことなどできるはずもなし。

 野を駆け、山を越え、海を渡る歌たち。古代のものだからこそ尊いのではなく、そこに息づく人々の思いと、体温と、呼吸があってこそ尊い。それが歌だ、とわたしはずっと信じています。文芸となり、半ば求道の対象となった歌は、詠みたいことをきちんと詠む、という本来の意義から大きく逸れ、評価を受けることこそがその本義である、と成り代わってきました。そして、少なくともわたし個人で語るならば、それがどうしても受け入れられませんでした。だから、こうして古代歌謡の足跡を辿り、各地を歩いています。
 私的なことになってしまいますが、かつて記者だったころ、書きたいものが書けないジレンマと闘っていました。しかしそれは報酬をいただく前提の仕事であれば已むを得ないことで、だから自分を騙して書き続けました。

 母を亡くし、
「何故書くのか」
 という根源的な問いにわたしは答えられませんでした。だから書けなくなりました。その後、書けない5年もの空白の後、誰に頼まれたからでもなく、わたしがわたしの為に書きたいから。...たったそれだけの理由でまた書き始めたもの。それが古歌紀行文です。
 歌だって同じことでしょう。詠みたいから詠むだけです。それが後にどう評価されようと、批判されようと、それらはすべて二次的なことに過ぎません。そう気づいたから、当時所属していた結社をやめて、ネットの片隅で8年近く独りで詠み続けました。

 やりたいことをやるために、あえて野に下る元プロ。そんな人々は現代社会に於いてさまざまなジャンルに存在していますし、たくさんいらっしゃいます。...分けたら、わたしもその1人となってしまうのかも知れません。ですが、本当に欲しいものはプロというステイタスや、得られるかもしれない脚光や賞賛ではないのです。といって、ならば趣味かと問われたならば、それもまた首肯できず。趣味という言葉は、あまりにも広義ですよし。
 ...道触りの島。そして道触りの神。これが、また新たな時代を迎えたわたしの足掛かりです。道標です。そう、これこそが、です。

 あれゆかむあれほるゆゑがあれなればあれはあれゆゑあれとてゆかむ  遼川るか
 (於:天佐志比古命神社)


 やや高台にある境内から、時化た海が見渡せます。この海を越えてわたしは来て、わたしは帰ります。ここから始めるものと、ここから始まるものと。
 肌寒いくせに。傘がないくせに。雨の中に立ったまま海だけを見ている自分がかすかに笑っていることに、わたし自身が気づいたのは、少し後のことでした。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 赤壁。こう聞くと、どうしても最初に思い浮かべてしまうのが三国志演義となってしまうわけで、あるいは蘇東坡が残した名韻文たち、となりますか。流石に赤壁三詠をすべて引くことはしませんけれど、どうしても赤壁=中国、という固定観念がある者にとって、この光景はあまりにも強烈です。
 高さの所為でも、吹き付ける風の所為でもなく、眩暈がしそうになっていました。

 天佐志比古命神社を後にして、車はいよいよこの旅の終点を目指して進み始めます。周囲にはすっかり民家などなくなり、牛たちの放牧地へと入りました。前日の西ノ島ではそれでも柵があったのですが、この島ではもう柵もありません。ただ、道路に時々、牛たちでは通れないような鉄の板が渡されていて、それが柵ではない柵となっているように思えましたが。つまり、牛さんたちが車の進む先にいて、どいてくれるまでは立ち往生、という事態も起こりうるというわけですね。...少なくとも、ここの主人は人間ではなく牛たちなのでしょう。
 帰還後に地図の等高線を辿って確認したのですが、知夫里島西部は赤ハゲ山の頂上から広がる傾斜と裾野で成り立っているようで、車がゆるゆると登り続けていたのもその為でしょう。

                 

 もう、ここまで来るとここが日本か否かも疑問に感じるほどの、一面の草地と牛たち。エンジンを掛けたままの車がいても一向に恐れもせず、...いや。仮に本気で体当たりされたら車のほうが一溜りもないように思えます。
 牛だけではありません。島後同様にここでも雉は我が物顔に道路を渡り、狸たちもこちらをじっと見ていたり。これで天気がよかったらきっと、さぞやワクワクする光景なのでしょうが生憎、ちょっとした春の嵐は一向に、過ぎてゆく気配もなし。むしろ、益々強まってくる風と雨とで、運転しているのがそろそろ怖くなってきました。

 知夫里島の最西端ではないのでしょうが、隠岐知夫赤壁と呼ばれる地は、すでに外海に面した、断崖絶壁です。外海の荒波に削られて、赤い岩肌が剥き出しになっているといいます。もう、この辺りは古歌が云々ということではなくて純粋な観光目的でやってきたわけですが、観光目的にしてはあまりにも悪天候すぎます。当然、他の観光客もなく、スペースに車を止め、展望台まで進もうとすると牛さんたちが、その体温まで感じるほどの距離に居座っている始末。一応、徒歩での順路には柵があるので、牛さんたちの中を突っ切るようなことにはなりませんが、時々途切れる柵と柵の間に限って牛さんが通せんぼしてしまうわけで。
 背後を振り返ると近隣の島がぽつり、ぽつり、と霞んで見え、この時になってやっと悟りました。
「まずい、ここで発作がおきてしまったら...」


  







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