風あらば
 また潮あらば
 空蝉のひとはひとゝて
 ひとならじ
 綿津見をゆき
 懸くるならとほく
 足頼らずも
 過ぐるなら
 陸ゆきゆく真楫榜ぎ
 黄泉は根の国
 弥遠に
 生るは潮ゆ
 在るならば道あり
 穂なり
 天降りして
 中国とふ地のかぎり
 されば隠らむ時とても
 みなひとなほし綿津見を
 忘らえざるて
 忘れじて
 土も恋ひ恋ふ
 地なれば
 みづも恋ひ恋ふ
 河なれば
 風も恋ひ恋ふ
 天なれば
 火とて恋ひ恋ふ
 人ゆゑに
 世に世と号くものも人
 世を世と沁むるものも人
 人は世なれど
 世は人にあらざる世にて
 人知らに
 知らまくほしきものは世と
 なれば問はむや
 世とはいづくゆ

 綿津見も山の峯も野も古りたれどえ古りざるゆゑ こにそ生れたり

 い帰らばいづへにするらむ いづへとて世にしあるゆゑい帰らずとも  遼川るか
 (於:JR湖西線和邇駅ロータリー)


 和邇氏の本拠地とされているのは、前述の通り奈良県は天理ですが、ここ近江の湖西もまた、その影響力のとても強かった地域。それではお隣は小野駅の近くへ移動して、小野氏に纏わるポイントを訪ねるとしましょう。

       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 JR和邇駅のロータリーから線路高架を潜って、山側へ。この一帯は、比良山系の裾野から琵琶湖湖畔までの距離がとても短く、その分、傾斜も急なのでしょう。走っている道路の山側は明らかにわたしより高く、湖側は明らかにわたしより低く、ちょうど段々畑や棚田状に造成されているのかも知れません。
 道路の両脇には比較的、幅の広い側溝が続き、水の流れる音が車の中へも響いてきます。地図上では和邇川があるはずですが、ぼんやりしていのかちょっと記憶にないのが残念。そして右手には鳥居らしきものが現れます。小野神社です。

 道路に面した鳥居の傍には、この界隈にある小野氏縁の場所を表した地図。先ずはこれをじっくり見て、それぞの位置関係を頭に入れます。どうやら、小野神社の敷地内には、小野篁神社もあるようで(摂社なのかは不明)、まだごく近くに小野道風神社もあるようですね。
 ...とは言え、わたしが1番訪ねたいと思っていた、小野妹子の墓所はやや離れているみたいですけれども。

 朝から殆ど晴れ間が続いていて、何とかこのままもってくれれば...、と祈っていましたが、そこはやはり台風が近づいてきています。そろそろ薄曇になってしまった空が、小野神社の参道を覆う木々の枝の向こうに見えています。
 境内自体も決して広くはなく、大社という風情でもないお社です。けれども、この規模の神社にしては珍しく、別の参拝者と行き違いました。古歌紀行をやってきた中では、ちょっと珍しく思えたのですが、それは考え方が逆だったからなのでしょう。きっと、この小野神社は、規模こそ大きくはなくとも滋賀県内では有数の史跡なのだと思います。...神奈川帰還後に調べたら、やはり式内社でしたね。それに、歴史上の著名人たちにも複数因んでいますから。

 

 社務所を過ぎると、右手に小野篁神社があり、小野神社は左手に。ただ、その小野神社は垣で囲まれていて、本殿は禁足地になっていました。先に小野篁神社を参拝し、続いて小野神社です。さして広くはない境内に複数の参拝者がいたからなのでしょう。社務所から人が出てきて、朱印もどうぞ、と声をかけていただきました。
 ...もっともわたしは、御朱印帳を持っているわけもないですから、会釈だけして応えましたけれど、他の参拝者さんたちはみな、捺していたようですね。

 小野神社の祭神は、第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命と、その7世子孫の米餠搗大使主命。このうち米餠搗大使主命は、春日氏や小野氏の系譜の祖となりますが、和邇氏の嫡流は米餠搗大使主の兄弟・日触使主命が祖。つまり、ここで分かれているということですね。
 米餠搗大使主命。小野神社の祭神だとは訪ねるまで知らなかったのですが、実はこの神様は歌とは全く無関係な方面で知っていました。

 ...はい、その名の通りこの神様は、応神天皇の時代、米から餅を搗いた最初の存在とされていて、全国の菓子・餅職人の信仰を集めているんですね。古くは、職人の位となる匠や司などを授与していたともいいます。わたし自身は和菓子の資格は持っていませんけれど、一応は調理の世界の住人ですから。
 そして、その米餠搗大使主命を祀っているからなのでしょう。小野神社の境内横には柵で囲まれた御田がありました。

 御田。神田とも言いますけれど、要するに神社が所有している田圃のことです。昔はそこで育てたお米でお酒をつくっていたということも聞いてはいますが、現在では、主に神事に使うためのお米を育てる田圃であることが、一般的になっていると思います。
 事実、ここ・小野神社でも毎年11月2日に粢祭り、という神事が行われているようです。曰く、新米を搗いて餅にして、それを納豆のように藁つとで包んだものと、青竹の筒に入れたお神酒・蜂蜜・生栗・蕎麦の実と一緒に神前奉納するのだ、といいます。
 境内の脇のささやかな御田。けれども、そこには穂を重たそうに垂れている稲たちが元気に育っています。餅にするのですから、陸稲なのでしょう。...台風、接近しないといいんですけれどもね。

 小野妹子、そして小野篁。妹子は言わずと知れた最初の遣隋使です。

|日出處天子致書日沒處天子無恙
|書き下し:日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや。
                                 「隋書倭国伝」


 彼が携えていた、大和朝廷の国書が先鞭となって、この国は隋との交流を始めました。そして、中国の進んだ文化もそれまで以上に次々と伝来することとなります。それまではこの島国へ、大陸から渡来する人々こそいましたが、この島国から大陸へ渡った存在。それも、1つの国としての概念を持った上でのものは、きっとなかったはずです。
 当然、隋からしてみればこの国は属国、あるいは単なる辺境の地のような存在と見る向きが強かったわけで、けれども妹子が届けた国書には、倭はあくまでも独立国であり、国と国とは対等である、という姿勢の表明が書かれていて。...1つ間違えれば、その場で斬り殺されても仕方ない役目だったように思えます。

|秋七月の戊申の朔、庚戌に、大礼小野妹子を大唐に遣す。
                 「日本書紀 巻22 推古天皇 推古15年(607年)7月3日」
|十六年の夏四月に、小野臣妹子、大唐より至る。
                   「日本書紀 巻22 推古天皇 推古16年(608年)4月」


 けれども、妹子はそれを果たしました。もちろん、その裏側には、妹子が云々というよりも大国・隋が倭との揉め事を忌避したからなのは明らか。でも、これにより、隋は倭を独立国と認めた証になりますから、彼の功績でもあると言えるでしょう。

|則ち復小野妹子臣を以て大使とす。
                 「日本書紀 巻22 推古天皇 推古16年(608年)9月5日」
|秋九月に、小野臣妹子等、大唐より至る。
                   「日本書紀 巻22 推古天皇 推古17年(609年)9月」


 その後も、妹子は隋と倭を行き来しました。ですが、そもそもそんな大役を仰せつかるほど、当時の小野氏に力があったようには思えません。大礼、という位は厩戸皇子が制定した冠位12階では上から5番目です。
 境内にあった系図では、妹人は敏達天皇の皇子・春日皇子の子ども、となっているのでそれだけを見れば皇族にも等しい存在だった、となってしまいますが、他の資料で追いかけた限りでは確認できず。

 そんな地方の豪族出身だった彼が何故、高位を授かり、また遣隋使になれたのかは、何とも釈然としません。...きっと余程優秀な人物だったのでしょうね。そして、それを厩戸皇子が高く評価したのでしょう。
 何せ、この琵琶湖西岸は渡来人が多く住んでいましたし、妹人がそういった渡来人たちと多く交流し、言葉や文化、情勢などを吸収していたのであるならば、それもまたないお話ではなかったのでしょうね。

 余談になりますが、そんな妹子について日本書紀にはこんな記述が残っています。

|爰に妹子臣、奏して曰さく
|「臣、參還る時に、唐の帝、書を以て臣に授く。然るに百済国を経過る日に、百済人、探り
|て掠み取る。是を以て上ることを得ず」
| とまうす。是に、群臣議りて曰く
|「夫れ使たる人は死ると雖も、旨を失はず。是の使、何にぞ怠りて、大国の書を失ふや」
| といふ。則ち流刑に坐す。時に天皇、勅して曰く
|「妹子、書を失ふ罪有りと雖も、輙く罪すべからず。其の大国の客等聞かむこと、亦不良」
| とのたまふ。乃ち赦して坐したまはず
                 「日本書紀 巻22 推古天皇 推古16年(608年)6月15日」


 つまり、有名な「日出づる処の天子〜」という倭からの書に対する、大国・隋の返信とも言える書を、百済で妹子は紛失してしまった、というんですね。けれども、推古女帝は彼を赦したのだ、と。
 これについては過失ではなく、妹子の意図的な紛失あるいは破棄だった、という俗説もよく耳にします。なんでも隋からの返事は、あまりにも失礼極まりなく、それを届けるのはよいことにならない、と妹子が判断したらしいんですね。

 もちろん、事実は判りませんし、そもそも隋からの返信があったのかすら判りません。ただ、相応に罰されても仕方なかった妹子は罰されることなく、前述の通りその後も活躍していたのはほぼ、お違いないでしょう。
 ...どうもこのへんは何故、妹子が遣隋使になれたのか、ということとも無縁ではないように感じてしまうのは、深読みのしすぎでしょうか。

 一方、その妹子の5世孫にあたる小野篁です。平安初期の学者にして歌人ですが、恐らくはこちらの歌が1番有名ではないでしょうか。

|わたの原やそ島かけてこぎ出ぬと人にはつげよ蜑のつり舟
                     小野篁朝臣「古今和歌集 巻9 羇旅歌 407」


 なかなか波乱に富んだ生涯だったようで、遣唐使として任命されるも船の難破などで2回、渡航ができず。そして3回目は当時の嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐に流され、またしても渡航できず。中央へ復命した後も唐に渡ることはなかったようですね。
 しかし、それも含めてきっと人柄が実直で、ともすれば当時の価値観のなかで風変わりな人だったのかもしれません。だからでしょうか、彼に纏わる奇々怪々な説話も多く残っていますね。

 小野篁。境内にある歌碑は、件の「わたの原〜」。21代集には、それも含めて古今集にのみ、採られています。幾つかご紹介しましょう。

|花の色は雪にまじりみえずともかをたに匂へ人の知べく
                     小野篁朝臣「古今和歌集 巻6 羇旅歌 335」
|なく涙雨とふらなんわたり川水まさりなばかへりくるかに
                    小野篁朝臣「古今和歌集 巻16 哀傷歌 829」
|水の面にしづく花の色さやかにも君がみかげのおもほゆる哉
                    小野篁朝臣「古今和歌集 巻16 哀傷歌 936」


 そして、彼の孫が三蹟の1人・小野道風となりますが、道風を祀った神社は、小野神社の境内にはなく、少し離れているようです。


 海人族、和邇氏、そして小野氏。系譜というものは、当然ですけれど時代が下るほど追いかけづらくもなりますし、また混交が進んでしまうもの。確かに嫡流こそは系図も描けましょうが、嫡流だからこそ、決して描かれない系譜の方が大部分です。
 例えば、母方の系譜はこの手の系図には描かれていないことの方が一般的ですし、仮にそれが描かれるのなら、氏族も何も、みなが何処かで、何らかの形で繋がっていることにもなるでしょう。

 そういう意味では逆に、嫡流として生まれて来てしまったが為の哀しみも、きっとあったはずでしょうし、そもそもの氏族って何なのだろうか、と。...そう思いたくもなりますね。 元々が獣なのですから、群れが単位であることも、そのベースとなるのが家族という血統であることも特段、異論も引っ掛かる点もないんです。なのに、それが嫡流だ非嫡流だ、となってくると何処か、ぐったりしてしまいまして。ましてや、それが氏族の繁栄云々、なんて代物とリンクし始めると、です。

 ですが、そういう人の歴史であったからこそ、こうして小野氏の氏神を訪ねているわたしもいます。人の歴史、人として在ること、人が人である意味。
 人として産まれたから、自身の源へも興味が湧くわけで、きっと獣として産まれていたなら、こんな風に源流回帰願望に駆られることもなかったでしょう。ならば、その願望は人が負ってしまった業なのか、あるいは特権なのか。...やはり思わずにいられませんね。人は一体、何処から来たのか、と。

 息の緒が帯ぶ五百重波 寄する空い帰る地とあれゆく影と  遼川るか
 (於:小野神社)


 小野神社に着いたときは、それでもまだ空は明るかったのですが、徐々に雲が厚くなってきているようです。今日はまだ、この先も訪問地が目白押しですから、急ぎましょう。小野妹子の墓所と言われている唐臼山古墳へ、です。

       −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 小野妹子の墓所は、ここ・滋賀県の他に大阪府の太子町にもあります。そちらへは近くまで行ったことはあれど訪ねてはいませんから、初墓参となりますか。進んできた道をJR湖西線の高架手前で右折。住宅地の中へ入ってゆきます。
 後で知ったことなのですが、びわこローズタウン。そんな名前の住宅地なのだそうです。比良の山裾の緩やかな勾配を開発した住宅地は、坂の上から琵琶湖がすぐそこに見えて
「眺めはいいけれど、自転車では辛いかもなあ...」
 とつい、呟いてしまいましたが。

 妹子の墓とされている唐臼山古墳は、このびわこローズタウンの一画にある、ということしか事前に調べていなかったわたしは、住所だけを頼りに辺りをきょろきょろ。どうも地番表示があまりされていない、といいますかそもそも大きな通りが大きく迂回するように弧を描きながら走っていて、そこへ細かな路地が直角に交わっている為、走っているとだんだん自分のいる位置が判らなくなってきてしまいます。...方向感覚にはかなり自信があるのですが、これには少々参りました。
 ともあれ、古墳である以上はこんもりと木々が茂った場所であることは間違いないので、それらしき所を探します。ちょぅど小学校の向かい辺りが古墳のようだったので、車を降りてみると小野古墳、との表示。唐臼山古墳ではありませんね。...少し迷いましたが、とりあえず登ってみることにしました。

 

 木々が鬱蒼と茂り、薄暗い泥の斜面を進みます。すぐに薮蚊に刺された腕のあちこちが痒くなり始めました。耳元では虫たちの羽音。...こんな新興住宅地のすぐ隣にも、古墳の林が現存している。それが、ここ・近江国なのでしょうね。関東、それも南関東では、なかなかこうはゆきません。
 小野古墳を登り切ると、そこは現代の墓地になっていました。古墳という墓所の上に墓地が並んでいるというのも一寸、考えると不思議なものがあって、しばしぼんやり。小野氏末裔の方々の墓地なのでしょうか。

 古墳だと思えばこそ、その場に留まりあれこれ考えるのもいいのでしょうが、現代の墓地となると流石に、墓参ではなくあくまでも趣味、あるいは遊びに来ていることが不謹慎に思えて、長居する気が起きませんでした。...失礼なのではないか、と。
 でも、少し高台になっているからなのでしょうね。時折、吹き抜けてゆく風は勾配の高い方から確かに降ろして来るように涼やかで、木々の合間から見える琵琶湖の光景と合わせて、軽く寛げてもしまったのですが。

 再び、びわこローズタウンの中をぐるぐる廻ります。そして気づいたことは、このぐるぐる廻っている、という立地自体の不可思議さで、まるで何かを避けるようにして道ができているとしか考えられないんですね。
 では一体、何を避けているのか。...これが答えなのでしょう。そう、古墳です。恐らくは唐臼山古墳そのものを避けるようにして造成された分譲地と、そこを走る路地と。...確かに、わたしがぐるぐる廻っている間、左手にはずっと木々の梢が見えていました。どうやら、そこのようです。

 古墳の傍まで行ってみると、古墳全体が小野妹子公園として整備されていました。妹子の墓所、と言いますか墓参に適した場所は、頂上まで登らないとなさそうですね。
 ただ、困ったことに車を停めるスペースが見つけられないんですね。何周かしてみたのですが、やはりありません。折りしもついに、ぽつりぽつりと雨まで降り出してしまい、どういいのやら。

 綿津見も
 天つみづまた淡海さへ
 みづにて
 みづを統ぶるごと
 常世ならずも
 綿津見のさきなる地をいまし懸け
 行くなることゝ
 帰りゆくことゝ
 来ること
 いたも知る
 日出づる国ゆ
 日没する国にもかつも
 日没する処ゆ
 日出づる処にと
 越えたる波は数へども
 よろづちよろづ
 日を越えぬ
 夜も越ゆれば
 いにしへのとほさ沁みゐる
 かしこくも
 ゆゝしけれども
 いはまくも
 あやにかしこきいましにて
 知りてゐたらむ
 宣な宣な
 みづのあまきや
 みづはあしきや

 とほつくに 世にあるきはみのきはみにていましの越えし後にあれあり 遼川るか
 (於:小野公園)








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