もちろん、この世界はゲームではありません。リセットなど利きませんし、過去に戻ってチョイスのやり直しをすることもできません。だからこその一期一会。ですが、原因があるから結果がある、という一定法則によって編まれてゆくこの世界で、わたしたち人間は様々なフラグを自覚・無自覚に関わらず立ててもいるのでしょう。
 何となく天智と、彼が負った時代としての近江朝。そのフラグが比良の宮にあったのかも知れないな、などと思わずにはいられませんでしたね。そして、その近江遷都がフラグとなったことだって、歴史には刻まれていて。...蒲生野の薬猟や壬申の乱などは、まさしくそうでしょう。

 現在でも、比良の宮があった場所は未詳とされています。けれども、港があったであろう、ここ・近江舞子界隈は可能性として、とても高いでしょう。
 斉明5年であれば、大化元年に産まれている讃良も、祖母・斉明や父・中大兄皇子(天智)と一緒に、近江へやって来ていたのかもしれません。後年、その讃良(持統天皇)の近江行幸で詠まれた、とされているのが、すでに引用させて戴いた人麻呂の歌も含む、一連の歌群。旧都を偲んだそれらを近江挽歌と呼ぶ向きもあるようですね。日本書紀には該当時期に、持統の近江行幸の記述はないようなのですが、有力説では持統4年(690年)。彼女の即位直後だったのではないか、とされています。

 斉明5年から持統4年まではたった約30年。ですが、そのたった30年の間に世界という戻れない河は、早く流れ、また大きく曲がりました。
 もう1300年も前のこと。21世紀の比良には宮もなく、ただ変わらずにあるものは湖と、そこで遊ぶ人々だけです。

 稲筵川ゆくすゑの淡海にて
 またも淡海ゆ流れては
 川ゆくすゑに綿津見や
 天つみづ降り
 あしびきの山にしみづの石垂れて
 束なりて川
 みづは川
 川はし淡海
 淡海とは潮海とほく陸にて
 のちのみ空を欲りしては
 横たふかぎり
 うつそみに見えざる川の流れては
 みなひと流る
 川のむた
 流れのむたに流れゆき
 いづへにゆかむ
 いづへにもゆかまくほしや
 いづへとはいづへにあるや
 天知るや
 天知らずなば
 地も知らに
 また人知らに世は流る
 間なく絶えゝず
 なほなほしゆく
 
 比良のわだなにをか見しやこに弥日異に
 淡海のたれを見るらむけふにあしたに

 綿津見のいづへにあるやこは陸にて
 陸とはいづへゆ来しやいまはいまにて      遼川るか
 (於:比良の大わだ)


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 今回の古歌紀行では、比良の大わだが訪ねる北限。そう書きました。そうなんですね。実際、万葉故地や古代史の舞台は、近江の北側にも複数存在しているのですが、日程の都合上、南半分を周るのがせいぜいといった処。なので、これ以降は来た道を戻る形で、訪問地を周ってゆくことになります。
 気持ちの寛ぐ琵琶湖の浜と、そこに寄せる波音にはかなり後ろ髪が引かれたのですが、もうお昼過ぎです。朝の出発が遅れたのですから急がなければなりません。再び車に乗り込んで、JR湖西線の近江舞子駅近くから大津方面へ、国道161号を進みます。

 このJR湖西線の駅名にも、流石は古の大国・近江ならではだな、と感じてしまうものがあります。即ち近江舞子・比良・志賀・蓬莱、と来た後に続くのが和邇と小野だからです。
 「あきづしまやまとゆ・弐」でも少し書きましたが、和邇。これは古代の大豪族・和邇氏に縁の地であるからこそ、の地名です。また、その和邇に隣接している小野は、和邇氏を祖とした複数の豪族、春日・柿本・粟田などなどと並ぶ氏族の名。...はい、小野妹子や小野老、小野篁、小野小町、小野道風などを輩出した小野氏の名前からでしょう。

 和邇。この巨大豪族の名を冠した駅に、何となく立ち寄ってしまった理由は、自分でも良く判っていません。何せ駅ですからね。ただ名前が同じだというだけで、駅を眺めたところで何があるわけでもなし。かいとってせめて入場券だけでも買いたい、という趣味があるわけでもなくて。
 ただ、...ただ、羨ましかったのかもしれません。万葉期よりもさらにさらに古。それこそ記紀に記述はあれど、それの何処までが事実なのかすらももう確かめようもない時代からずっと変わることなく継承してきた地名という“音”と、それを素地として暮らしている地域が、わたしには羨ましかったからだったように、今は感じますけれども。

 和邇の駅は、地方のローカル駅と何かが大きく違うこともなく、ロータリーに集っているタクシーも、駅周辺に並ぶお店も、本当に普通の駅です。交番と、駐輪場と、信号機の点滅と。なのに、わたしの脳裏には、古事記に描かれた様々なシーンが次々と蘇ってきていました。
 和邇氏、すなわちワニ。その名の通り大本は鰐(鮫)という意味で、この氏族が海人族であったことは言わずもがな、となるのでしょう。

 文化人類学的なことはわたしの手に余りますので正直、何処まで信憑性があるのか。そしてその細部はどうなのか、という点についてはあまり胸を張れないのですが、大掴みにこの国は南方からの縄文系渡来人と、大陸からの弥生系渡来人との混交によって成立した、と思っています。
 そしてその南方系の渡来人たちは専ら、海人族系でもある、と。

 海人族については、まだまだ未詳の部分が多く、ましてやわたし自身も浅学なので、よくは判りません。ですが要するに、各地の海辺で漁業によって暮らしていた人々なわけで、当然ですけれど造船・航海・製塩などの技術に長けていたようですね。
 古代豪族の中では、和邇氏の他に息長氏や阿曇氏、宗像氏、隼人氏などが海人族であったことがほぼ断定されています。そして、これらの氏族は早い段階から大和王朝に合流しているといいますか、臣下として仕えてもいます(隼人氏は除く)。

 大陸渡来の天皇氏に対し、ある意味では先住民でもあった海人族たちが臣下になっている、というのも若干、違和感がありますが、よくよく考えると当然のことなのかも知れませんね。
 弥生時代や古墳時代の食生活。それにはどうしても魚介類が欠かせないですし、塩も必須。また、一方の大陸渡来の氏族たちは、農耕などの技術を持っていたわけで、現代風の言い方ならばギブ・アンド・テイク。共存共栄の道を選択したのかも知れません。...あるいは鉄器などによる威圧もあったのかも知れません。
 また、逆に支配していた天皇氏側から考えれば、そういう大勢力とほど、友好関係を結びたいものでしょうし、何らかの優遇処置を約束することで臣下に置いた、と考えれば図式はとてもシンプルなものになります。

 日本書紀を眺めていると、海人族系氏族が政治的な面で前面に出てくることは、息長氏以外ではあまりないようです。けれども、天皇氏にごく近い位置にずっと存在していた大氏族・和邇氏は政治という表舞台にこそ登場しなくとも、大きな勢力であったこともまた、間違いないでしょう。
 そもそも、和邇氏は、春日氏が世代を重ねる中で立った氏族で、春日氏自体は大和王朝の成立当初から、当時の大王=天皇氏のもとで勢力を誇っていたといいます。新撰姓氏録によれば、始祖は第5代孝昭天皇の第1皇子であった天足彦国押人命。そこから色々と枝分かれして和邇氏は成り、けれどもその宗家が絶えてしまったのでしょうか。傍流の春日氏がのちに宗家となっている、というように話を何処かで見聞きした記憶があります。

 あと、面白いなと感じた説では和邇=和丹、という解釈。丹、つまりは赤土のことですが、土器の製造や陵の管理といった、いわば古墳被葬者に近い役割を担っていたのではないか、というものがあります。
 事実、わたしは訪ねたことがありませんが、奈良県天理市櫟本の和邇氏の本拠地、とされていた地域には赤土山古墳が存在しています。またすでにご紹介した、古事記に採られている応神天皇の歌からも、それが垣間見えるやも知れません。

|この蟹や いづくの蟹 
|百伝ふ 角鹿の蟹 
|横去らふ いづくに至る
|伊知遅島 美島に著き 
|鳰鳥の 潜き息衝き 
|しなだゆふ 佐佐那美道を
|すくすくと 我が行ませばや 
|木幡の道に 遇はしし嬢子
|後方は 小蓼ろかも 
|歯並はし 菱なす
|櫟井の 丸邇坂の土を 
|初土には 膚赤らけみ
|底土には に黒き故
|三栗の その中つ土を 
|頭著く 真火には当てず 
|眉画き 濃に書き垂れ 
|遇はしし女 かもがもと 
|我が見し児に かくもがと 
|我が見し児に 現たけだに
|向かひ居るかも い副ひ居るかも
               応神天皇「古事記 中巻 応神天皇 3 矢河枝比売」再引用


 これは応神天皇が、和邇氏の娘・宮主矢河枝比売を娶った時に謡ったもの。因みに矢河枝比売というのは「あきづしまやまとゆ・弐」で書いた菟道稚郎子や八田若皇女、雌鳥皇女の母親です。
 この中に登場する“丸邇坂”は「わにさか」と読みますし櫟井とは現在の天理市櫟本のことです。前半の蟹や鳰鳥、潜き息衝き、といったあたりの言葉は海人族をそのまま表しているように感じられますね。
 そして土です。海人族は入墨を入れる風習だったと言われていますが、赤土はその染料になっていたのかも知れません。

 さらにはこんな記述も、記紀それぞれに残っています。

|かれ、大毘古命さらに還り参上りて、天皇答へて詔りたまはく、
|「こは山代国なるなが庶兄建波邇安王、邪き心を起せし表ならなむのみ。伯父、軍を興し
|て行すべし」
| とのりたまひて、即ち丸邇臣の祖、日子国夫玖命を副へて遣はしし時、即ち丸邇坂に忌
|瓮を居ゑて罷り往きき。
                   「古事記 中巻 崇神天皇 3 建波邇安王の反乱」

|復大彦と和珥臣の遠祖彦国葺とを遣して、山背に向きて、埴安彦を撃たしむ。爰に忌瓮を
|以て、和珥の武坂の上に鎮坐う。
               「日本書紀 巻5 崇神天皇 崇神10年(紀元前88年)9月9日」
    ※西暦年は日本書紀記載の年号を、純粋に西暦換算して書いています。よって考古
     学や科学的に算出されたものとは大きく異なる場合が多々あります(以下同)。


 はい、和邇氏の始祖である彦国葺が忌瓮を使った、とありますね。上記引用している内容は、謀反を起こした埴安彦を討つために、崇神が大彦を派遣するのですが、それに付き従わせたのが彦国葺。上記引用は、彼が自らの本拠地の坂に忌瓮を据えて神を祀った、という件です。
 忌瓮。これは清らかな酒を入れる甕、つまりは土器のことで、それを据えるのは、自身の領土から他者の領土へと越境する際に行う、安全祈願の神事なのだといいます。

 境界。...身勝手な私見ではありますが、生きていた人物が身罷り、死者の国へと赴く。それはある種の越境なのでしょうし、死者があちらの国で安らかであるように、と願う行為はまさしく葬儀でしょう。そして、その神事に欠かせないものが土であり、神事を司る人物なり、と。
 古代に於ける葬儀。それは身分の高い人物ほど、他界してすぐには埋葬されません。有名な伊弉諾の黄泉訪問の場面などが判り易い例になりますが、伊弉冉の身体は埋葬されてはいず、黄泉の国にある部屋の中に安置されていました。

 記紀万葉にも殯とか殯宮という言葉がよく登場しますが、同じことです。他界後、間をおかずに埋葬するのではなく、一定期間は特別に設えられた殯宮に、遺体を安置。その期間も長ければ実に3年にも及んだとのことで、直截的な言い方をしてしまえば、白骨化するまでは埋葬しなかった、ということなのではないか、と思います。
 殯宮での期間が過ぎると、遺体は棺に移されて舟に乗せられます。そして、その舟は地上を牽かれて、墓所へと向かうわけですね。被葬者に近い人々は、棺の周りで謡い、舞って死者を送ったのだとか。

 やがて実際に埋葬する、つまりは古墳内へ棺を安置するに当たり、死者が寂しくないように。また、死後の世界で不自由しないように、と様々な副葬品も一緒に古墳内へ持ち込まれるわけですが、そこに欠かせなかったのが、そう。埴輪です。
 元々は海外の国々同様、この国でも殉死者が実際に一緒に古墳に入った、というような記述もあるようですが、いずれにせよその身代わり、つまりは傀儡の製造が必要になったわけです。

 ...どうでしょうか。棺を載せて地上をゆく舟と、副葬品の製造に欠かせない土と。さらにもう1つ挙げられるのが実は、歌舞。つまりは歌と舞です。
 恐らくはその時々の為政者なり、支配層と密接なつながりを持っていた和邇氏。けれども、その活躍の場は政治の舞台ではなく、むしろ葬儀などの現代でいうところの祭祀に関連深いものだったのでしょう。

 だからなのでしょうか、あるいは単なる偶然なのかは判りませんが、和邇氏系氏族にはやはり、祭祀や神職として活躍していた氏族が複数あります。
 筆頭核は猿女氏。言うまでもなく、天宇受売を始祖とする宮中内の神楽など、神事を担当し続けた氏族です。余談になりますが、彼女と共に猿女氏の始祖でもあるのが猿田彦ですけれど、彼が海辺の民であった記述は古事記にも登場しますね。

  

|かれその猿田毘古神、阿邪訶に坐す時漁して、比良夫貝にその手を咋ひ合さえて、海塩に
|沈み溺れましき。かれそのそこに沈み居ます時の名は、そこどく御魂と謂ひ、その海水の
|つぶたつ時の名は、つぶたつ御魂と謂ひ、そのあわさく時の名は、あわさく御魂と謂ふ。
                「古事記 上巻 邇邇芸命 4 猿田毘古神と天宇受売命」


 猿女氏だけではありません。柿本氏と言えば、歌聖・柿本人麻呂を輩出した、やはり祭祀系氏族ですし、稗田氏からは古事記を口誦した稗田阿礼が出ています。稗田阿礼。この現代では女性説がほぼ不動になっていますが、要するにこちらも神職系の巫女のような存在だったのでしょう。
 流石に大和王朝の時代にもなれば、海人たちも大陸系の人々と混交していたでしょうから、大陸系の人々があまり持っていない部分を活かした職を専らとしていたのではないか、と。その中の1つが、仏教や道教、儒教などとは違う祭祀様式、となるのではないかな、と個人的には感じていますね。

 猿田彦に因んだ説話を引きましたが、古事記には他にも海人族らしき存在はちらほら見受けられます。また、その中には和邇氏なのかも知れない、と推測したくなるものも、です。
 特に有名なのが、海幸・山幸で山幸こと火遠理命が滞在した竜宮とそこに集う魚たち、彼の子どもを産んだ海神の娘・豊玉姫の説話。あるいは、ご存知・因幡の白兎に騙された、と兎の皮を剥いてしまった鰐(鮫)たちなどなど。

|一尋和邇白く、
|「僕は一日に送る即ち還り来む」
| とまをしき。かれ、ここにその一尋和邇に、
|「然らば汝送り奉れ。若し海中を度る時、な惶畏ませまつりそ」
| と告りて、即ちその和邇の頸に載せて送り出しまつりき。
                     「古事記 上巻 火遠理命 3 火照命の服従」

|ここに方に産まむとする時に、その日子に白して言はく、
|「凡て他国の人は産む時になれば、本つ国の形を以ちて産むなり。かれ、妾今本の身を以
|ちて産まむとす。願はくは妾をな見たまひそ」
| とまをしき。
| ここにその言を奇しと思ほして、その方に産みますを窃かに伺ひたまへば、八尋和邇
|に化りて匍匐ひ委蛇ひき。
                 「古事記 上巻 火遠理命 4 鵜葺草葺不合命の生誕」

|最後に来ませる大穴牟遅神、その莵答へ言さく、
|「僕淤岐島にありて、此地に度らむと欲へども、度らむ因無かりし故に、海の和邇を欺き
|て言はく、『吾と汝と競べて族の多き少なきを計へむと欲ふ。かれ、汝はその族のありの
|まにまに悉に率て来て、この島より気多の前まで、皆列み伏し度れ。ここに吾れその上を
|踏みて、走りつつ読み度らむ。ここに吾が族といづれか多きを知らむ』と、かく言ひしか
|ば、欺かえて列み伏せりし時、吾その上を踏みて、読み度り来て、今地に下りむとする時
|に、吾云はく『汝は我に欺かえつ』と言ひ竟る即ち、最端に伏せる和邇、我を捕へて悉に
|我が衣類を剥ぎき。
                      「古事記 上巻 大国主神 1 因幡の白莵」


 如何でしょう。


 何が、特に、ということもなくわたしの目の前にあるのは、純粋に駅とロータリーとそこをゆく人々と。そして、そういった人々の中には、駅名あるいは地名の和邇。この由来すらも知らない、という人だっていることでしょう。
 かく言うわたしとて、上代に関係深い畿内や近江などの地名には、いちいち反応することができますが、地元・神奈川の地名には果たしてどれだけ反応できているのか、はかなり疑問です。

 例えば、「なつそびくうなかみがたゆ」に書いた倭建と弟橘。「さねさしさがむの〜」と歌に謡われているにも関わらず、日本書紀に駿河国と書かれているために、わたしは自身が暮らす相模国との関連性にピンと来ていませんでした。
 そして、今更のように気づき、倭建一行の足取りなどから考えれば、ごくごく地元が彼の歌の舞台になっていた可能性があったことを悟ってからは、何とも言えない不思議な感覚に襲われたものです。

 要は生活圏という日常と、上古の歴史というある種のファンタジーとが、同じ地表上で展開されている実感と、その違和感です。...かつて訪ねた、大和国の藤原宮跡や葛城山は、それでもやはり旅という“非日常”の舞台で展開された現実とファンタジーでしたから、まだ曖昧でいられたんですけどね。
 ...そう、わたしたちは歴史上の様々な時代の人々とたった1つしかないない地表を共有しています。それは継承しているという意味での共有であることはもちろんですが、また別に現代風のシェアするという意味での共有もあると思っています。

 そう、この今もわたしたちは1000年も2000年も前の人々と、地表を現在進行形でシェアしているのでしょう。だからこそ、わたしたちは歴史への関心を失うことがないのかも知れません。霊感的なことではなくて、ただその土地に刻まれてきた全てがあるからこそ、現代の土地である以上、共有もそして共存も、しているように思えてならないんですね。
 そんな今なお息づく当時が、ある時ふっと現代の表層へと顔を出し、それを受信するものが時代々々にも存在して。だからこそ、2000年を経ても変わらない地名があります。変わることない何かが、確かに存在しています。

 和邇氏、そして海人族。海のない近江国にありながら、この国の古代史には海人族の影が拭っても拭いきれません。前述している三上山と御上神社も海人族の息長氏に縁がありますし、その息長氏出身にして近江国はもちろん、日本という国の歴史に名前を残したのが神功皇后です。また、この地で起きた古代史最大の戦火・壬申の乱。ここで天武方の総大将として最も戦功あったのが天武の第1皇子・高市ですが、彼は母親が宗像氏の出身でした。
 そして、壬申の乱を起こした張本人にして、勝者・天武。彼の即位前の名前がすべてを物語っているでしょう。そう、大海人皇子、と。







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