黒人と同族の高市許梅が、壬申の乱の最中に神懸りして神託を降ろしているんですね。詳しくは追々書きますが、彼が従軍していたのは天武サイドが終始優勢だった近江での戦局ではなく、天武サイドが敗戦を続けていた大和での戦局。その大和の戦局も、彼の降ろした神託や援軍の到着によって劣勢を覆し、やがて勝利に終わったことはこの国の“歴史”と呼ばれているものが、克明に記しています。
 ...自らがそのものになってしまう、依代としての器。黒人も許梅も、そういう器質の系譜だったのかも知れませんね。

 人麻呂たちは大津宮から徐々に離れてゆく形で、歌を謡いあげてゆきました。一方のわたしは大津宮へ徐々に、徐々に近づいてゆく形でここまでやってきました。時刻はもう5時近くなっています。
 このまま、大津宮跡へ一気に向かいたいのは山々なのですが、その前に立地的にも、時間的にも立ち寄っておかなければならない場所が、1つ。

 ...崇福寺跡。そう、讃良の行幸の行程に、恐らくは組み込まれていたであろう古刹の跡地です。比叡山へ向かう山の中にある、近江国屈指の万葉故地へは、恐らく体力的にかなりシンドいことになるでしょう。
 また、今日の古歌紀行は天候からしても、崇福寺跡がラストになりそうです。辺りはすっかり暮れかけていて、雨脚は心なしかすこし強くなってきています。

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 史書。この国の歴史と呼ばれているものは、勅撰・私撰を問わず、何者かが記したがゆえに、後の時代の人々がそうであった、と知ることができたからこそのものです。だから、そう信じられていたり、あるいは通説としてそう在ったり。
 もちろん、それとは別に、極めて科学的な事実分析によって、歴史と呼ばれているものが追認されたり、時には覆ったりもします。...この科学的な事実分析こそが、一般に考古学領域の担っている部分だ、とわたし自身は勝手に思っていますが。

 ただ、虚と実を縒り合わせた人の世の糸は、本末がしばしば逆転します。事実とは何らかの形で乖離してしまった歴史と呼ばれる“通説”があるから、それが事実であったか、否かを確認するために科学のメスが入る、とも言えてしまう訳で、それでは一体虚と実はどちらが、どちらなのでしょうか。
 古歌の舞台を訪ねていると、そんな煩悶に繰り返し、繰り返し襲われてしまいます。

 いや、それどころかその科学そのものこそが、本末の逆転の上に成立している最たるものでしょう。そもそも科学は、科学として人間がそう呼んでいるに過ぎず、元々がそうであった摂理であり、機序です。そして人間はそうやって存在している摂理に対して
「何故なのか」
 と疑問を抱き、解明にも挑んだのでしょう。結果、解明されたものがあれば、それはあたかも初めてのもののように“発見”と称されます。ですが実際は発見ではなく“追認”が成立したに過ぎません。

 世界。それは人間という生物には手に余るほどの謎です。そして同時に謎ではない事実です。謎を謎として成立させているのも、謎を謎として解明しているのもすべては世界のてのひらの上で足掻いている人間の業。
 もちろん、それが悪いとも、滑稽だとも思っているのではなく、むしろたまたま食物連鎖の頂点にいた、というだけで自らを覇者と心得てしまう人間という不遜。そちらの方が、よっぽど滑稽だと感じられてならないのですが。

 ともあれ、この世界にたまたま存在していた小さな島国。そこに歴史と称して語られ、記され、残されたもの・史書。
 わたし自身が上代について考える時、必ずページを捲る史書は

 1) 古事記
 2) 日本書紀
 3) 続日本紀
 4) 風土記
 5) 先代旧事本紀
 6) 古語拾遺
 7) 扶桑略記
 8) 釈日本紀

 となるでしょうか。もちろん、これ以外に「万葉集」や日本霊異記、懐風藻の記述も参考にしていますが。

 扶桑略記。成立したのは、もう平安朝も後期になります。堀河天皇の時代に、比叡山の僧・皇円が編纂した、とされているものですがこの皇円、実は浄土宗開祖の法然のお師匠さんにあたる人物でもあります。
 そんな皇円が残した私撰史書・扶桑略記はほとんどが散逸してしまっているのだ、と言いますが、扶桑略記より後に記された様々な史書たち。例えば愚管抄や水鏡などにも引用が多く、後世に大きな影響を与えたものであったことは疑うまでもないでしょう。

 記紀や風土記といった勅撰の史書にはない記述もあって、別説というよりは記紀や風土記を補完するものとして、個人的にもかなり重視している史料です。
 その扶桑略記に、日本書紀にはないこんな記述が残っています。

|二月三日。天皇寝大津宮。夜半夢見法師。来云。乾山有一霊窟。宜早出見。天皇驚悟。出見彼
|方之山。火光細昇可十余丈。火焔廣照。甚為希有。即召大伴連桜井令見。皆奏奇異之相。
|明日尋求其地。天皇行幸。願満法師等相具。當彼火光処。有小山寺。
                       扶桑略記 巻5 天智6年(667年)2月3日」

|七年戊辰正月十七日。於、近江国志賀郡。建崇福寺。始令平地。掘出奇異宝鐸一口。高五尺
|五寸。又掘出奇好白石。長五寸。夜放光明。天皇左手無名指。納燈下唐石臼内。奉為二
|恩。掌中捧燈。恒供弥勒仏及十方仏焉。自尓以還。霊験如在。天下之人無不帰依。
                      「扶桑略記 巻5 天智7年(668年)1月17日」


 天智7年、つまり西暦668年。この年の1月3日、中大兄皇子は第40代天智天皇として即位したわけですが、即位した日の2週間後には、彼は大津宮から程近い山の中に、寺の建立を命じました。
 崇福寺。天智が大津京鎮護の為に創建した、とされている古刹にして、その天智亡き後は彼の菩提寺ともされていたといいます。

 そんな崇福寺建立に至る経緯は、上記引用している扶桑略記に詳しく、曰く建立前年、大津宮で眠っていた天智の夢に法師が現れて、乾の方角(北東)に霊窟がある、と。そこで訪ねてみたところ、その地には小さな山寺があって、瑞祥もあったのだといいます。そこで翌年に寺を立てるよう命令を下し、まずは土地を平らにしていると宝鐸や綺麗な石といったやはり瑞祥が、次々出土もして。
 天智は亡き両親(舒明天皇と斉明(皇極)天皇)の恩に応えるべく左手の薬指を切り落としてその地の燈籠に納め、火を灯し、弥勒仏を始めとするあらゆる仏への不滅の火を供えて建立。以後、この地のあらたかな霊験に帰依しなかった人はいなかった、とのことです。
 これを信じるならば、崇福寺を天智が両親の菩提寺としていたことが判りますし、すなわちそれは、彼自身の菩提寺にもなったことは、まず動かしがたいでしょう。

 時は流れて、彼の娘・讃良が天皇即位します。父親と、祖父であり舅でもあった舒明と、同じく祖母であり姑でもあった斉明(皇極)の菩提寺に、天皇即位の報告をするのはごくごく自然の流れだったのだと思います。
 そしてそれに従駕したのが人麻呂であり、黒人であり。彼らが残した近江挽歌と呼ばれる歌群は、恐らく崇福寺にて謡われたものはなかったのでしょうが、それでもここに崇福寺がなければ、彼らの歌は生まれていなかったのかも知れません。

 湖沿いの唐崎から再びいくつかの国道と、いくつかの線路を渡り、比叡山の南の裾野を登ってゆきます。穴太の辺りとは周辺の街並みが随分と違って、あの涼やかな音を立てていた側溝もありませんし、所々あった畑ももうありません。あるのは勾配に対して斜めに経つようにして並ぶ家々。
 どれもが比較的新しい印象の家たちなのですが、その割にはどのお宅も敷地が広いお屋敷ばかり。そしてそれぞれの玄関先にほぼ必ず紋の入った幟が立っています。私見では家紋というよりは菩提寺、あるいは氏神の寺紋か神紋のように感じましたし、その紋所の下にはそれのお宅の家長さんのお名前と思しきものが染め抜かれていました。

 余談になりますが、この幟。意外にも近江国の各地で見ました。それこそ、同じお寺や神社さんの檀家なり氏子のものであるはずもない、と即座に考えられるほど、距離が離れた場所でも、です。
 もしかしたら、秋の神事の前に氏子さんがする何かに由来でもしていたのかも知れませんね。

 ともあれ、そんな幟があちこちにはためく住宅街の坂道を、ゆっくりゆっくり登り続けます。辻々には史跡探訪用の道しるべや看板が出ていて、思っていたよりは判りやすかったのですが、如何にせん小雨降る、もうすでにかなり薄暗い時刻。道しるべがあってもよく見えないことも多く、何度か急勾配を行っては戻り、バックしては前進し、という心許なさ。
 そして気づくと周囲に民家はもうなく、誰もいない山道の上でした。近くで響いているのは明らかに滝の音です。車で何処まで入れるのか。そんなことは判りませんし、かといって流石にこの時刻に知らない山道を1人で、というのも、大袈裟ではなく真面目に根性が必要です。...持病の喘息がどうこう、ということもさることながら純粋に怖いな、と感じてしまっているのですから。


 行けるころまでは車で行く、と言ってもその行った先で突然、道がなくなり、行くはおろか後退するにも難儀する。...そんな経験は、古歌紀行をやっていて何度かありました。また、致命的だったのは携帯電話の電波圏外に入ってしまっていることで、車が脱輪した場合、どうすればいいのやら。
 あれこれ考えた末に、ここならば戻って来た時に車の向きをUターンさせられる、と感じた場所。滝のすぐ脇で車を降りました。

 リュックに入れたのは貴重品とデジカメと喘息の発作止薬。電波圏外で使えない電話はそれでもいざという時の明り取りくらいにはなるだろう、と思い持込み。地図上で見る限り、ここから崇福寺跡までは、距離はそれほどでもなさそうでしたが、電灯らしきものは、まず殆どないと考えるのが賢明でしょうから。
 山道は、車でも通れるように舗装もされていますし、まったくの未開というわけではありません。そもそも崇福寺跡自体も国指定の史跡ですし、崇福寺跡までの道すがらには、志賀の大仏も、百穴古墳群もありますから、たまたま訪ねた時間帯に問題があっただけ。

 そうは判っていたんですけれどね。判っていたんですけれど、やはりなんだか怖くて。滝より奥へ進もうとしているわたしの右手には、滝へと流れ進んでゆく川。左手には鬱蒼と茂る木々。そして、ゆっくり歩いて行く先には小屋のような影がひとつ。
 近づいて看板を読むに、志賀の大仏はこの小屋の中に安置されているようです。目の前まではゆきませんでしたが、やさしげなお顔立ちに向けて黙礼をして、先を急ぎます。

 

 背後からは変わらずに滝の音。それ以外に聞こえてるのは自身の息遣いだけで、鳥の鳴き声も聞こえてきません。
 扶桑略記を信じるならば、とても霊験あらたかな地であるゆえに、敢えて立てられた崇福寺ですが、信仰心をもたない者にとっては
「何だって、こんな行き来しづらい場所に、大事な菩提寺を立てるのかしら」
 と不平を洩らしたくもなります。事実、登りの最中はずっとブツブツ、独り言と呼ぶにはやや声が大きすぎる不平を口にもしていました。...自分の声だけでも、少しは安心材料になりますしね。

 途中、喘息の発作止めを使ったのは2回。もちろん、健康体の方ならば鼻歌交じりに来られてしまうに違いない道ですが、わたしにはそれなりに厳しく、いやはや何とも。
 そして現れた道しるべに従い、脇道を登ります。こちらは一般的な山道同様、木で土留めした階段状で、大きく蛇行するようにして登り切ると、山の中腹にぽかんと拓けた広場のような空間に出ました。...崇福寺跡です。
 最初に思い出していたのは、4年前に大和国で訪ねた粟原寺跡。そう、額田の終焉の地とされている宇陀の古刹跡地です。あそこも、規模こそ違いますがここと同じように山道の途中に広場のように拓けていました。...山寺の跡地というのはやはり、みな何処となく似た雰囲気を放つものなのでしょうか。


|題詞:但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、穂積皇子を思ほして作りませる歌一首
|秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも
                           但馬皇女「万葉集 巻2-0114」
|題詞:穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣はす時、但馬皇女の作のませる歌一首
|後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背
                           但馬皇女「万葉集 巻2-0115」
|題詞:但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、竊かに穂積皇子に接ひて、事すでに形はれて作
|   りませる歌一首
|人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る
                           但馬皇女「万葉集 巻2-0116」


 この崇福寺へ勅命で派遣された人物がいます。穂積皇子。天武の第8皇子で、母親は蘇我赤兄の娘・石川夫人。後に大伴坂上郎女を妻にしていた人物です。
 そんな彼が都(藤原宮)を離れて近江へ少しの間行ってしまう、という出来事に、
「残されて、ただ恋しがっているくらいなら出かけて追いつきたい。どうか、道の曲がり角ごとに印を残しておいてください」
 と謡った人物、それが一連の歌の詠み手・但馬皇女。彼女もまた天武の娘にして母親は鎌足の娘だった氷上娘、です。

 歌だけを見れば、ごくごくありふれた恋歌のはずなのに、どうしてどうして。それぞれの立場を知ってしまうと、なかなかに複雑にして切羽詰った状況だったことが、即座に悟れます。
 「あきづしまやまとゆ」でもすでに書いていますが、「万葉集」が語る悲恋の中でも屈指とも言えるドラマの主人公・但馬皇女。彼女はこの当時、すでに人妻でした。では、彼女の夫は誰だったのかと言えば高市皇子、と。
 はい、こちらも天武の皇子。それも第1皇子にして壬申の乱に於ける最大の功労者。さらには時の太政大臣ですから、事実上の東宮のような存在だったんですね。

 言うまでもなく、これは世間のおしゃべり雀たちの恰好のネタとなって、随分と噂されたらしきことは上記引用歌からも判ります。...確かに状況から考えれば、あまりに大っぴらにどうこうできる立場では2人ともなかったことでしょう。ましてや相手が高市ではなおのことです。

 そもそも穂積が崇福寺へ派遣された理由も、純粋に藤原遷都の報告のためという説と、この但馬とのスキャンダルからしばらくの冷却期間を設けさせよう、と持統が考えたから、という説があるほどです。
 ただ、わたし個人としてはどっちがどう、というよりは多分に両方のことを考えてだったのではないかな、と感じています。つまりあくまでも目的は藤原遷都の報告を父や祖父母にするために菩提寺であるここ・崇福寺に誰かを派遣しなければならなかったのでしょうし、でもそれを穂積を任命したという人選には、何らかの思惑も感じられないわけでもない、といったくらいでしょうか。

 ...いや、決してこのあまりにも有名な悲恋がなかった、とは流石にわたしでも思っていません。それは彼らが残している歌を読めば明らかなので、それがどうこうとは考えていませんが、それでもかすかに感じるのは、彼らの歌を後世の人々がさらに温度を高めて読んで来ているのではないだろうか、と。...ヘソ曲がりかも知れませんが、率直に思います。
 その顕著な現れが問題の

|後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背
                        但馬皇女「万葉集 巻2-0115」再引用


 なのではないかな、と感じずにはいられないんですね。

 わたしとて女ですし、恋をしたこともありますから、こういう“ついて行きたい”という気持ちは判っているつもりです。けれども、もしそれを実行してしまったならば、果たして誰が1番危うい境遇に追い込まれてしまうのか考えないのかと言えば、そんなことはないでしょう。
 もちろん、2人揃ってすべてを捨てて逃げ出すのであれば話は別ですが、そもそもの穂積の崇福寺行きは、あくまでも“君命に従っているからこそ”のもの。そういう意味では、逃げるつもりなど穂積にはないですし、それは当然、但馬とて理解もしていたのだ、と感じます。
 結う。草を結んだり、枝を結んだり、などは当時、旅の安全の祈願する呪術的行為でした。但馬が「結へ」と言っているものは神域を表す標です。恐らくは、穂積の旅の安全を何よりも願い、実際にはできない切望を、できないと判っているからこそ歌にするのが精一杯、というの但馬の思いだったのではないでしょうか。

|今朝の朝明雁が音聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し
                           穂積皇子「万葉集 巻8-1513」
|秋萩は咲くべくあらし我がやどの浅茅が花の散りゆく見れば
                           穂積皇子「万葉集 巻8-1514」
|言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを
                           但馬皇女「万葉集 巻8-1515」


 その後の2人については、資料が少なくてよく判っていません。ただ、高市の他界は持統10年(696年)で、一方の但馬は和銅元年(708年)までは生きていたことが、日本書紀と続日本紀に明記されています。...下品な物言いになりますが、少なくとも12年という時間はあったはずであろうに、2人のその後はようとして知ることができません。
 そして但馬は他界。

|題詞:但馬皇女の薨りましし後、穂積皇子、冬の日雪の落るに、遥かに御墓を見さけ
|   まして、悲傷流涕して作りませる歌一首
|降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の塞なさまくに
                           穂積皇子「万葉集 巻2-0203」


 穂積と但馬。もし、確かに一時は激情に身を焦がしたとしても、その時々で2人がしてきた選択が分別あるものであり、逆を言えばそれでもその範疇内に留まることができるものだったとしたならば。...もちろん、分別あったからその程度に過ぎなかった、などということは言いませんし、思ってもいません。むしろ、分別ある選択をできてしまえたからこそのものは、確実にあったのだろうとも思います。
 そして、仮にそういう前提に立ったとしたならば、穂積が残した直接的に但馬を思う唯一の歌。それは現代のわたしたちが安易に考えてしまいがちな、哀惜の歌と単純に受け止めてしまっていいのだろうか、と。

 理由などありません。ですが、この崇福寺の跡地に立ってみて、そう思ってしまったのは事実です。かつて訪ねた桜井市の吉隠地区。但馬が葬られたという猪養の岡が何処かは判りませんでしたし、わたしが訪ねたのはあくまでも吉隠地区の一画に過ぎません。
 そして、その吉隠の地でも、ここ崇福寺跡でも。わたしに響いてくるのは同じ女性である但馬の思いよりも、むしろ言葉少なかった穂積の思いです。

  

 言はずとて見ゆるうつそみ言痛きはたがものならずあれがものゆゑ  遼川るか
 (於:崇福寺跡)


 そもそも穂積自体の正妃が誰だったかも判っていない状態です。判っているのは、前述している通り大伴坂上郎女を妻にしていたこと(子どもはもうけていない)と、子や孫の存在も複数記述に残っていることくらいでしょうか。 

|題詞:境部王、數種の物を詠む歌一首 [穂積親王の子なり]
|虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍捕り来む剣太刀もが
                            境部王「万葉集 巻16-3833」
|題詞:天皇、酒人女王を思ほす御製歌一首 [女王は穂積皇子の孫女なり]
|道に逢ひて笑まししからに降る雪の消なば消ぬがに恋ふといふ我妹
                            聖武天皇「万葉集 巻4-0624」
|題詞:廣河女王の歌二首 [穂積皇子の孫女、上道王の女なり]
|恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から
                            廣河女王「万葉集 巻4-0694」
|題詞:廣河女王の歌二首 [穂積皇子の孫女、上道王の女なり]
|恋は今はあらじと我れは思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる
                            廣河女王「万葉集 巻4-0695」


 穂積を思う度に、感じてしまうことがあります。それは、見えてしまうということの哀しさ、というものでしょうか。もう、周囲も何も見えないくらいになれてしまう方が、むしろずっと語弊はありますが気軽なのでしょうし、潮が引くときは案外に早いものなのかも知れません。ですが、まだ見えてしまうというある種の不完全燃焼は、時に低温火傷のように人の心を長期に渡って蝕みます。開き直れるというのは、とてもとても幸福なことなのだとも思います。







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