唐崎界隈は、万葉歌に志賀津、と詠まれた地とそう離れてはいなかった、あるいは同じ湖岸を差すのだろう、という判断から幾つかの万葉歌を引いてみます。

|題詞:(弓削皇子の薨りましし時、置始東人の作る歌一首)また短歌一首
|楽浪の志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほせりける
                            置始東人「万葉集 巻2-0206」
|我が命のま幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波
                          穂積朝臣老「万葉集 巻3-0288」
|楽浪の志賀津の海人は我れなしに潜きはなせそ波立たずとも
                     作者未詳「万葉集 巻7-1253」古歌集より撰
|楽浪の志賀津の浦の舟乗りに乗りにし心常忘らえず
                            作者未詳「万葉集 巻7-1398」
|大君の 命畏み
|見れど飽かぬ 奈良山越えて
|真木積む 泉の川の
|早き瀬を 棹さし渡り
|ちはやぶる 宇治の渡りの
|たきつ瀬を 見つつ渡りて
|近江道の 逢坂山に
|手向けして 我が越え行けば
|楽浪の 志賀の唐崎
|幸くあらば またかへり見む
|道の隈 八十隈ごとに
|嘆きつつ 我が過ぎ行けば
|いや遠に 里離り来ぬ
|いや高に 山も越え来ぬ
|剣太刀 鞘ゆ抜き出でて
|伊香胡山 いかにか我がせむ
|ゆくへ知らずて
                            作者未詳「万葉集 巻13-3240」
|天地を嘆き祈ひ祷み幸くあらばまたかへり見む志賀の唐崎
                            作者未詳「万葉集 巻13-3241」


 万葉期は、きっと先に訪ねた比良の大わだのように浜、もしくは磯だったのでしょうね。実際に訪ねてみて、湖面にちょこんと突き出した地形から、そう感じていました。
 近江大津宮はまだもう少し南ですが、この辺りでもきっと当時の人々は舟遊びをしたり、漁をする海人の姿を眺めたりしたのでしょう。その雰囲気がよく出ているのが「楽浪の志賀津の浦の舟乗りに〜」の歌ですね。

 「志賀津の浦で舟に乗るように、乗りかかってしまったこの心が、あの人のことをいつも忘れられないんだ」

 上3句は4句目の乗り、を導き出すための序詞。つまり、それくらい志賀=舟という公式が人々の間には、それなりに成立していたのでしょうし、逆を言えば志賀津界隈には当時、港があったのではないか、とも考えられそうですね。
 そして舟に乗る、ということが何を意味しているのか。これを明確に物語っているのが「大君の〜」の長歌とその反歌である「天地を〜」となるでしょう。

 「天皇の畏れ多いご命令に、見飽きることなんてあるはずもなかったあの奈良山を越えて、木材を運ぶ泉川の浅い瀬を竿挿しながら渡り、宇治の激流も渡って、近江へ続く道の逢坂山で道の神に手を合わせて。そうやってやってくると志賀の唐崎に着くが、もしわたしが無事でいられたならば、再訪して眺めよう。ゆく道が曲がるたびに、そのたくさんの曲がり角のたびに嘆きながら進んでくれば、故郷はさらにさらに遠ざかり、とても高い山もすらも越えたならば、太刀を鞘から抜き出して如何せん、ではないが伊香胡山や来たわたしは、どうすればいいのだろう。行き先すら知らないというのに。
「天地に嘆きながら祈ることで無事でいられたならば、またやって来て眺めよう、この志賀の唐崎を」

 この長歌と反歌は、1説によると穂積朝臣老が佐渡へ流される途中に詠んだ、とされています。

|壬戌、正四位上多治比真人三宅麻呂謀反を誣告し、正五位上穂積朝臣老乗輿を指斥すとい
|ふに坐せられて、ならびに斬刑に処せらる。而るに皇太子の奏に依りて、死一等降して、三
|宅麻呂を伊豆嶋に、老を佐渡嶋に配流す。
                 「続日本紀 巻9 元正天皇 養老6年(722年)1月20日」」


 ...どうやら新年早々、当時の天皇(元正)を批判して斬刑、つまりは死刑に処されたのを皇太子だった首皇子(後の聖武天皇)の取り成しで、1つ軽い流刑に処された、というのがことの次第のようです。
 この事件そのものは続日本紀にも記載されていますから、疑う必要性は感じられませんが、上記引用の万葉歌が、その穂積老の詠んだものなのか、は不明です。

 説自体の真偽はさておき、平城京から若狭や越前、越中、越後への道程がなんとなく手繰れてきますね。つまり大和盆地を平城山越えで後にして、宇治川(琵琶湖から流れ出す瀬田川の中流の名前)流域を進んで山城国と近江国の境界にある逢坂山を越えて近江国へと入る、と。
 そこから徒歩で湖北方面にゆく場合と、舟で湖上を渡り湖北方面へ抜けるのとは、恐らくは身分なり経済面などで分かれたのでしょうね。そして、湖上をわたる場合はここ・志賀の唐崎から乗船した、ということになるのだと思います。

 「なつそびくうなかみがたゆ」でこんなことを書きました。

|領土、国、郡、藩、市町村。地上にはないはずの線が、境界として何かを分断し、何かを接触
|させて来たことが人の歴史であるのならば、最大の境界は、きっと水なのかも知れません。
|海と川と湖と。そして最小の境界は皮膚。かはべです。
                       遼川るか「なつそびくうなかみがたゆ」


 ここにも水の境界が存在していたようです。ですが、唐崎で人々が離れがたかったのは近江国でも、唐崎の地そのものでも、志賀津でもありません。...とおく逢坂山の向こうに広がる故郷・畿内であり、同時に大和国そのものだったのでしょう。
 現代の唐崎は、先ず神楽殿があってその奥に、唐崎ノ松と呼ばれる大樹。そしてさらに先に琵琶湖が広がっていました。流石に現代では護岸工事もされていて、浜や磯であったであろう面影は感じられませんでしたけれども。

 

 あるがゆゑ越ゆも越えぬもえ越えじもうらのまにまに 世にあるきはみ 遼川るか
 (於:志賀の唐崎)


 この地の向こうの大和を偲んだ人々。けれども逆に、大和より来てこの地と、この地に刻まれたかつての時代を偲んだ人々もまたいました。...はい、柿本人麻呂と高市黒人です。

|題詞:近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本人麻呂の作る歌
|玉たすき 畝傍の山の
|橿原の ひじりの御代ゆ
|生れましし 神のことごと
|栂の木の いや継ぎ継ぎに
|天の下 知らしめししを
|そらにみつ 大和を置きて
|あをによし 奈良山を越え
|いかさまに 思ほしめせか
|天離る 鄙にはあれど
|石走る 近江の国の
|楽浪の 大津の宮に
|天の下 知らしめしけむ
|天皇の 神の命の
|大宮は ここと聞けども
|大殿は ここと言へども
|春草の 茂く生ひたる
|霞立つ 春日の霧れる
|ももしきの 大宮ところ
|見れば悲しも
                     柿本人麻呂「万葉集 巻1-0029」再引用
|題詞:(近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本人麻呂の作る歌)反歌
|楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ
                          柿本人麻呂「万葉集 巻1-0030」
|題詞:(近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本人麻呂の作る歌)反歌
|楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
                       柿本人麻呂「万葉集 巻1-0031」再引用
|題詞:柿本朝臣人麻呂、近江国より上り来る時、宇治河の辺に至りて作る歌一首
|もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
                          柿本人麻呂「万葉集 巻3-0264」
|近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
                          柿本人麻呂「万葉集 巻3-0266」



 「畝傍山の麓の橿原の宮に即位された神武天皇の時代から、代々の天皇が次々に皇位を継いで天下を治めてきた畿内を離れて平城山を越え、何をお思いになられたのか、都から遠い片田舎の近江国は大津宮にて天下をお治めになられた天智天皇の大津宮はここだと聞いても、大殿はここだと言うけれども、今は春の草が生い茂り、春の霞が棚引いている、この大宮の跡を眺めるのは、哀しいことだ」
「志賀の唐崎はいまも変わらずにあるというのに、かつて大宮人たちを乗せたであろう舟は、いつまで待っても来ることはない」
「湖岸が大きく湾曲し、志賀(比良の)大わだの湖水はあまり動かずに淀んでいるのに、昔の人々に会うことはできない」
「宇治川の網代木に阻まれて、流れきれずにいる波がやがて何処へ流れていったのか、判らなくなることがあることだ」
「近江の琵琶湖の夕暮れに千鳥が鳴けば、近江に栄えた都のあった昔日をどうしても思い出してしまうよ」

 

 日本書紀やその他の史書に明記されているわけではありませんが、讃良が天皇即位した年の3月末から4月初めにかけて、持統天皇の近江、あるいはもっと先の若狭湾あたりまで、行幸があったのであろう、というのが現在ではほぼ定説化しつつあります。
 そして、その説の根拠となっているのが上記引用の人麻呂の歌群、続いて引用させて戴く、高市黒人による一連の近江荒都歌です。

|題詞:高市古人、近江の旧き堵を感傷びて作る歌(或書に云く高市連黒人なりといふ)
|古の人に我れあれや楽浪の古き都を見れば悲しき
                           高市古人「万葉集 巻1-0032」
|題詞:高市古人、近江の旧き堵を感傷びて作る歌(或書に云く高市連黒人なりといふ)
|楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも
                           高市古人「万葉集 巻1-0033」
|題詞:高市連黒人、近江の旧き都歌一首
|かく故に見じと言ふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな
                          高市連黒人「万葉集 巻3-0305」


 「その昔の人ではないはずなのに、近江の旧都をみるとわたしは哀しい」
「近江国の神の御心の荒んでしまったが為に、荒れてしまった昔の都をみると哀しい」
「これほどに見たくはない、と思っているのにも関わらず、近江の旧都を見るとどうしようもなく哀しい」

 2人の他にも、刑部垂麻呂や石上麻呂らの歌もあります。

|題詞:近江国より上り来る時、刑部垂麻呂の作る歌一首
|馬ないたく打ちてな行きそ日ならべて見ても我が行く志賀にあらなくに
                          刑部垂麻呂「万葉集 巻3-0263」
|題詞:志賀に幸しし時、石上卿の作る歌一首
|ここにして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて来にけり
                            石上卿「万葉集 巻3-0287」


 複数の歌人が、ほぼ同時期に近江を訪ねている以上、それは個々人の旅による羈旅歌ではなく、天皇行幸への従駕とそれによる奏上の歌、ととらえるのが自然、ということですね。また、それでは何故、それが持統4年とすることができるのか、と言えば

1) 「万葉集」の分類で持統朝に詠まれた歌であることはほぼ確定的。
2) 該当歌が収録されている「万葉集」の巻1の歌の並びは、ほぼ時代順。
3) 該当歌のすぐ後に、持統4年のものと明記されている川島皇子の歌や、同じく持統4年
  5月の吉野行幸にて詠まれた人麻呂の歌が収録されている。
4) 歌に詠まれているように彼らが近江を訪ねたのは晩春から初夏にかけてである。

 などのポイントを手繰った結果、消去法的に持統4月以外に合致しそうにないからなのでしょう、恐らくは。

 持統4年。この年に、讃良は第41代持統天皇として即位しました。元旦のことです。そして、その年の初夏に近江を行幸しているとしたならば、その目的は父親の天智天皇の菩提寺だった崇福寺(大津市)への即位報告のようなものだったのかも知れません。...壬申の乱では夫・大海人皇子と行動を共にし、亡き父の作った都を拠点にしていた大友皇子と敵対、そして打ち負かした側の人間だった讃良です。しかし、彼女からしてみれば、大津宮や亡き父親に刃を向けたのでは決してなく、むしろその父からの流れを守るための選択だったのでしょうから。
 ともあれ、持統4年の初夏に讃良は近江方面へ行幸し、それに従駕したのが人麻呂、黒人、刑部垂麻呂、石上麻呂らであった、という前提で以下を書きます。

 近江荒都歌。ですが世間ではこうも呼ばれています。そう、近江挽歌と。...刑部垂麻呂、石上麻呂のものはさておき、少なくとも人麻呂と黒人のものは、そう呼ばれるのに相応しいと思います。
 ご存知の通り、人麻呂その人はそもそもが挽歌の名手であることは言うまでもなく、それがこの一連の歌群では悼み、偲ぶものがもはや個人ではなく、数多の大宮人が行き来した旧都そのものと、その時代として謡っているという壮大さです。

 また、#29〜#31の長歌と反歌は1首ごとに詠んだ場所が移動しているのが、読み取れると思います。つまり、最初の長歌は大津宮跡で、続いて反歌の1首目はここ志賀津の船着場で。そして最後の反歌が、舟で北上した比良の大わだ界隈で、と。
 前述しているように、この「楽浪の志賀の(比良の)大わだ淀むとも〜」は、恐らくは原案が比良の、であって後の推敲で志賀の、と人麻呂自身が変えたのであろう、とするのが現在では有力視されていますよし。

 人麻呂は生没年が未詳です。なので、天智朝の頃に何処で、何をしていたのか、はっきりしたことは全く判っていません。諸説間の生年はほぼ20年くらいありますから、最も早く生まれたとしている説を採るならば近江遷都時にすでに青年ですし、最も遅く生まれたとしている説を採るならば、近江遷都の年前後に生まれていることになりますか。
 いずれが正しくても、間違っていても、わたし個人はさほど頓着しなませんが、仮に天智朝を後に懐旧できる程度の記憶が残る年齢で、人麻呂が過ごしていなかったとしたならば。もっとはっきり言ってしまうと、大津都に対する懐かしさに、実は彼自身の実感を伴っていなかったとしたならば。

 ...それでも、こんな壮大な挽歌を詠んでしまうのが人麻呂の人麻呂たる証でしょう。いやはや、かつて訪ねた大和国で、たった9mの茂みとも言える雷の丘のことをとてもとても気宇壮大な歌として仕上げた人麻呂という歌人に、愕然とさせられたのを思い出していました。...ここでもなのか、と。
 そして同時に、そんな彼だからこそ推敲したらしき形跡が、わたしには少しやるせなく感じるのもまた、事実なんですが。

 一方の黒人です。正直、個人的にはこの近江荒都歌群に限定するなら、人麻呂よりも彼に軍配を上げたいところです。元々、人麻呂と黒人は対照的な歌人としてよく取り上げられます。つまり、人麻呂が長歌に長け、枕詞や序詞などを駆使した独自の歌風を以て比喩表現を多用しているのに対し、黒人は俳句で言うところの嘱目吟に近いといいましょうか...。
 といって何も叙景であり、写生である、と言っているのではありません。あくまでも心情吐露が前提の叙情歌である中の、歌風の違いということです。そしてこの近江荒都歌群では、その歌風の違いが黒人に齎したものが、もはや脱帽。いや、平伏したくなるような形で表れている気がしてなりません。

 黒人もまた、人麻呂同様に生没年が未詳です。けれども、その活動時期からみて恐らくは人麻呂よりやや遅れて生まれたことが、推測できそうです。
 ...はい、つまり黒人もまた可能性としては天智朝に対する懐かしさを、実感をもって抱けた可能性は5分5分くらいしかない、ということですね。

 人麻呂はその溝を彼特有のメソッドで飛び越えました。つまり目の前に見えているものの向こう側にあるであろうものを見据えることでボルテージを上げ、あとは一気に比喩表現をふんだんに盛り込むことで、イメージという橋を架ける...。人麻呂はあくまでも主体として「見ている」わけです。
 ところが黒人は違います。

|古の人に我れあれや楽浪の古き都を見れば悲しき
                        高市古人「万葉集 巻1-0032」再引用


 お判りでしょうか。そう、黒人は「見ている」のではありません。彼は、自らをして「なっている」のです。
 ともすれば懐かしさや哀しさに、実感が伴わないかもしれない状況で、でもそこに漂う時代の残滓と人々の営みの跡。新天地を求めて、新しい国家の創生を目指して遷都を強行した天智天皇こと、中大兄皇子の夢の跡地で。...目の前には草がただ生い茂っているという“ないということ”だけが広がっている中、何を感じ取ることができたのか。

       

 人麻呂も、黒人も“ない、ということ”から何かを感じ取り、片やその感じ取ったものと自身との間にイメージの橋を架けて自らに引き寄せました。片や感じ取ったものを即座に自身の中に取り込み、自ら向かっていってしまった。...自らがなる、つまりは依代、というのが近い気がします。
 もちろん、2人とももうこれだけで並外れているのでしょうし事実、こう書くのは難ですが同じく行幸に従駕していたと思われる刑部垂麻呂や石上麻呂の歌は、ただ遠出できることへの楽しさや喜びが詠まれているだけです。つまり“ない、ということ”からは何かを感じ取れなかったのではないか、と。

 感じやすさは感じやすさとして、その表現方法は人それぞれ。そして、そのどれもが意図的に
「ああしたい、こうしたい」
 として出来上がってゆくものではなく、気づいた時には自然とそうしていたものこそが、その人自身にとって最も合った表現方法なのだと思っています。
 なので個人的には、できるだけ人様のお歌は読まないように努めています。どうしても気づくと自身の中に取り込んでしまうらしく、それが嫌なんですね。また、ですから当然ですけれどいい意味での模倣は、古典のみに限定もしています。逆を言えば、誰かの形を真似ることにある種の屈辱感を抱かないのだとしたら、もうその時点で表現したいものがない、何よりもの証でもある、としみじみ感じていますから。

 あれなるはあれなるゆゑに依るものゝあり
 あれなるはたれになきゆゑ寄るものもあり     遼川るか

 ほりすればおのづ受くるを頼みてはなしゆくものゝ
 祈ひ祷みの象 覆槽ふする象           遼川るか
 (於:志賀の唐崎)


 余談になりますが、黒人について依代に近い気がする、と書きましたけれど、日本書紀に興味深い記述があるので引いてみます。

|是より先に、金綱井に郡せし時に、高市郡大領高市県主許梅、忽に口閉びて、言ふこと能
|はず。三日の後に、方に神に着りて言はく、
|「吾は、高市社に居る。名は事代主神なり。又、身狭社に居る。名は生霊神なり」
| といふ。
                    「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)」
             ※ 672年は現代年表では弘文元年(1月中旬までは天智11年)と
               なりますが、ここで日本書紀に倣い天武元年としています。







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