そんな彼の漢詩です。

|春日鶯梅を翫ぶ 一首

|聊乘休假景  いささか休假の景に乗じて
|入苑望青陽  苑に入って青陽を望む
|素梅開素靨  素梅素靨を開いて
|嬌鶯弄嬌聲  嬌鶯嬌聲を弄する
|對此開懷抱  これに対し懷抱を開けば
|優足暢愁靨  優に愁情を暢べるに足りる
|不知老將至  老のまさに至らんとするのを知らず
|但事酌春觴  ただ春觴を酌むこととする(書き下し:遼川るか)
                            葛野王「懐風藻 葛野王 2首」
|龍門山に遊ぶ 一首

|命駕遊山水  駕を命じて山水に遊び
|長忘冠冕情  長く冠冕の情を忘れる
|安得王喬道  いずくんぞ王喬が道を得て
|控鶴入蓬瀛  鶴を控いて蓬瀛に入らん(書き下し:遼川るか)
                            葛野王「懐風藻 葛野王 2首」


 何となく見て取れるのは実直にして一本気、そして不器用な人柄です。...それぞれが残した詩から感じるに、何処となくやはり大友に似ている気がします。きっと、大友や葛野が生きるには、時代が複雑すぎたのでしょうね。
 生まれてきた時代を間違えてしまった人々。後から追尊されたこぎれいな御陵。形骸化された囲いの中に押し込められているようにすら感じる墓所から、わたしが受ける印象です。

 正史から消された飯豊青皇女、倭姫王、そして大友。遥か彼方上流にあった濁流は、いまもまだかすかな濁りと淀みを抱えながら、流れてゆきます。
 当時を生きた人々にとってはドラマなどではなく、そして正しさなどでもなく、ただ必死に生きていただけ。元にあったのはそれだけで、後から人々が様々な色を添え、温度を加え、バイヤスをかけて。
 人として生を受けたこと。その哀しみは水のようなもの。ふいに、そんな歌が溢れてきました。

 みづありて生くるうつそみ え絶えざるかなしびむだきゐるゆゑに在り 遼川るか
 (於:弘文天皇陵)


      −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 境界。異なるもの同士を隔てるものであり、同時に異なるもの同士の接点ともなるものです。獣時代の縄張りから始まって、わたしたち人間はこの境界というものを挟んで手を繋ぎもするし、時に殺し合いもします。
 また、相対性のうえに成り立つすべての概念は、何らかの形で境界を差し挟むことによって初めて成立もするわけで、括るということと、分けるということの表裏一体にわたし個人はずっと痛みと高揚の綯い交ぜになったものを抱き続けているのでせすけれども。

 上代歌謡とは縁遠くとも、小倉百人に採られているこれらの歌はご存知の方が多いでしょう。

|これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬもあふさかの関
                              蝉丸「小倉百人一首 10」
|名にしおはばあふさか山のさねかづら人にしられでくるよしもがな
                       三条右大臣「後撰和歌集 巻11 恋3 701」
|夜をこめて鳥のそらねにはかるともよにあふ坂の関はゆるさじ
                       清少納言「後拾遺和歌集 巻16 雑2 940」


 逢坂。小倉百人では、難波と並んで詠みこまれた歌数が3首で、最多となる歌枕です。小倉百人だけではありません。21代集では実に183首もの歌に詠み込まれている平安中期以降の代表的歌枕でもあります。
 前述していますが、この逢坂。地理的には京都と滋賀の境目にある山で、上古にはここまでが畿内とされていましたし、同時に関所も設置されました。その後、平安遷都の直後に一旦、廃止になった関所は857年に再設置。東海道と東山道がこの関所を通過していたこともあって、まさしく京都への北や東からの玄関口だった場所です。

 一方、万葉歌人たちにとっての逢坂。それは志賀の唐崎とほぼ同じ意味を持っていたのでしょう。当時は現代と違います。情報網は発達していないですし、交通手段とて殆どありません。それでも畿内であれば大和朝廷の勢力下でしたから、そこそこ安心もできたのではないか、と。
 けれども、その畿内の外へと出向く。現代の感覚で言うならば出国する、ということよりも不安だったでしょうし、保障もまた何もなかったのでしょう。...つまり、逢坂を越えてしまったら、何があっても仕方ない。生きて帰れる保障もない。
 そういう最後の境界だったのだ、と思います。

|我妹子に逢坂山のはだすすき穂には咲き出ず恋ひわたるかも
                           作者未詳「万葉集 巻10-2283」
|そらみつ 大和の国
|あをによし 奈良山越えて
|山背の 管木の原
|ちはやぶる 宇治の渡り
|瀧つ屋の 阿後尼の原を
|千年に 欠くることなく
|万代に あり通はむと
|山科の 石田の杜の
|すめ神に 幣取り向けて
|我れは越え行く 逢坂山を
                           作者未詳「万葉集 巻13-3236」
|題詞:或本の歌に曰く
|あをによし 奈良山過ぎて
|もののふの 宇治川渡り
|娘子らに 逢坂山に
|手向け草 幣取り置きて
|我妹子に 近江の海の
|沖つ波 来寄る浜辺を
|くれくれと ひとりぞ我が来る
|妹が目を欲り
                           作者未詳「万葉集 巻13-3237」
|題詞:反歌
|逢坂をうち出でて見れば近江の海白木綿花に波立ちわたる
                            作者未詳「万葉集 巻13-328」
|大君の 命畏み
|見れど飽かぬ 奈良山越えて
|真木積む 泉の川の
|早き瀬を 棹さし渡り
|ちはやぶる 宇治の渡りの
|たきつ瀬を 見つつ渡りて
|近江道の 逢坂山に
|手向けして 我が越え行けば
|楽浪の 志賀の唐崎
|幸くあらば またかへり見む
|道の隈 八十隈ごとに
|嘆きつつ 我が過ぎ行けば
|いや遠に 里離り来ぬ
|いや高に 山も越え来ぬ
|剣太刀 鞘ゆ抜き出でて
|伊香胡山 いかにか我がせむ
|ゆくへ知らずて
                        作者未詳「万葉集 巻13-3240」再引用
|我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
                         中臣朝臣宅守「万葉集 巻15-3762」


 「万葉集」に詠まれた逢坂です。#2283以外はやはりすべて畿内、すなわち故郷なり、故郷に残してきた人なり、から離れることに対する哀しみを詠んでいますね。ですが、#2283はどちらかと言うと平安以降の歌枕的詠まれ方になっています。
「逢坂山の薄の穂ではないけれど、人に知られないように恋し続けてゆくよ」
 と、序詞の中に登場しているんですね。けれども、これもベースになっているのは逢坂山は遠い、という前提があっての比喩であることは間違いないでしょう。...それくらい、当時の人の感覚では大和盆地の外に出て、さらに山代国の外にもなる近江は遠かったのだし、そこを隔てる逢坂という地には、特別な意味があったのだ、と。

 ですが、やはり境界は境界です。別れもあれば、出逢いもあり、そして戦もまた、ここから起こります。天智が近江に遷都するよりもはるか昔、やはり皇位継承に絡んで、逢坂で武力衝突がありました。

 市役所界隈を離れて国道161号を南へと進みます。そして浜大津で右折。京阪石山坂本線の線路を越えれば道は京都へと向かい始め、やがて国道1号と合流。その頃にはすでに登り坂になっていて、これが逢坂山ということなのでしょう。
 とにかく交通量のとても多い道路で、石碑は何処か、看板は何処か、などという悠長な運転をしていると、忽ちクラクションが響きます。交差点に表示されている地名は確かに逢坂となっているのですが如何にせん、後続に煽られるまま運転し続けなければなりません。

 

 そして気づくともう京都に入ってしまっていて、やれやれ。何処かでUターンしないことには、どうにも...、です。
 いい加減、そこそこの距離を進んでしまってから、ようやく見つけたコンビニエンス・ストアの駐車場で向きを変えて、いま来た道を戻ります。...どうやら、近江から京都へ向かうのと、京都から近江へ向かうのでは車の交通量に差があるようで、今度は少しスピードが落とせそうです。そして、辺りを探して。

 ちょうどさっき見かけた“逢坂一丁目”という標識の下辺りに、小さな碑のようなもののあるのが見えてきたので、路肩に車を止めて降りてみます。かなり新しいであろう碑にはこう書かれていました。

|「日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会った
|ことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時
|代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や、関寺も建立され和歌などにむ詠まれる
|名所として知られました。
                                 逢坂一丁目の碑文



 どうやら、近くには関蝉丸神社もありそうですが、流石に路肩駐車ではあちこちまで探しにはゆけませんね。...上代ではなくとも、蝉丸法師はかなり好きな歌人なので、かすかに後ろ髪が引かれるのですが仕方ありません。
 ですが、そんな蝉丸よりも気になっていたのは、はい。神功皇后と武内宿禰です。...飯豊青皇女に倭姫王に続いて神功皇后では、いささか出来過ぎのような流れになってしまいました。もちろん、意図は全くしていないんですけれどね。ただ地理的な都合だけで、訪問順を決めているのですが。

 神功皇后。伊弉諾・伊邪冉から始まる神代を継いで始まったこの国の人の世。初代天皇とされている神武から今日まで続く皇統は125代となっていますが、何度も書いている通り、この数字はあくまでも日本書紀や古事記によれば、という注釈がつきます。
 なので、実際は即位していただろうに歴史からその事実を消されたらしき者たちは複数いますし、同時に恐らくは実在してなかったであろう人物が、あたかも存在していたかのように様々な功績を上げ、それが記載されてもいることも、ほぼ間違いと思います。

 とにかく諸説が溢れています。わたしが見聞きした中で1番大胆にして、けれどもとても有力な説に至っては、継体天皇以前の記紀の記述や、人物はすべて実在していない、とまでしていまして、流石にきょとんとなってもしまいましたが。
 ですが、そこまで大胆ではなくとも倭建などは実在していなかった、とする方が恐らくは自然でしょうし、同様なのが神功皇后なのは動かし難いのだと思います。

 神功皇后。第14代仲哀天皇の后です。蛇足ながら、仲哀天皇の父親は倭建となります。本作はもちろん、これまでにも拙作内で、神功皇后という文字は何度か書いてきていますが、そもそも彼女はどういう人物だったのか。記紀は彼女をどういう風に記述しているのか、という点について、どういうわけか機会に恵まれず書いてきていません。
 そこで逢坂についてふれる前に、神功皇后について簡単にご紹介します。

 彼女が仲哀の后となったのは仲哀2年(193年)のことと日本書紀は記しています。そして仲哀8年(199年)、当時なかなか服従しいでいた熊襲を討つことを、仲哀たちが討議していたところ皇后に神託が降りたのだ、といいます。曰く

|「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。是、膂肉の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐に足ら
|むや。茲の国に愈りて宝有る国、譬へば処女のの如くにして、津に向へる国有り。眼炎く
|金・銀・彩色、多に其の国に在り。是を栲衾新羅国と謂ふ。若し能く吾を祭りたまはば、曾て
|刃に血らずして、其の国必ず自づから服ひなむ。復、熊襲も為服ひなむ。其の祭りたまはむ
|には、天皇の御船、及穴門直踐立の献れる水田、名づけて大田といふ、是等の物を以て幣ひ
|たまへ」
                  「日本書紀 巻8 仲哀天皇 仲哀8年(199年)9月5日」


 「熊襲が服従しないことを憂う必要はない。そこは土地が痩せていて、戦ってまでして討つには足らない。それよりももっと宝が多くある国。例えば海上に乙女の眉のように見える国があるが、そこは目にも眩い金銀彩色がたくさんあるという。この栲衾新羅国は、自分をよく祀れば刃を血で染めることなく服従するだろう。そして熊襲も服従するだろう。祀るには天皇の御船と穴門直踐立が献上した水田を供え物にしなさい」

 簡単に現代語訳するとこうなります。...余談になりますが、これまでの拙作では偶々こういうもはや誰の目にも歪曲にして捏造、と感じ取れる記述を引いてきていませんでしたが、つまりこれが記紀というもののもう1つの側面です。
 もちろん、これは記紀に限ったものではなくて世界各国の神話などには、この手は山ほど存在しています。但し、正史としているものにあるのかは若干、疑問ではありますが。

 お話を戻します。結局、仲哀はこの神託を信じきれず、そうこうしているうちに翌年には病没。この事実を神功と時の大臣・武内宿禰他数名の忠臣は公にはせずに仮葬します。
 一方、仲哀が突然、病死してしまったのは神託に従わなかったから。そう考えたのが皇后の神功でした。そして彼女は神々を祀ったところ、先ず熊襲が自然と服従。そこで続いて新羅へと出兵したんですね。

 現在の長崎県は対馬に鰐浦という場所がありますが、神功が半島へ向けて、出兵した地はここだとされています。蛇足になりますが鰐浦の鰐は当然ですが、和邇のこと。海人族であった和邇氏に縁の地でもあります。
 出兵する際、神功はすでに臨月に入っていたといいます。けれども、腹帯に石を挟んでお腹にあて続けて、出産を遅らせます。そして海上へ。

 神々を祀り続けたからでしょう。海上にでると風の神は風を吹かせ、波の神は波を立たせて神功たちの軍は櫂で船を漕ぐことなく新羅へと到着。その際、大波が新羅国内まで打ち寄せ、それに恐れをなした新羅国王は降伏します。また、その顛末を聞いた高麗と百済の国王も朝貢を絶やさないことを誓約。
 そうして帰国した彼女は、宇佐の地で臨月より遅れること3ヵ月後、出産します。はい、ここで生まれたのが第15代応神天皇となった誉田別皇子です。

 

 それから2ヶ月後のこと。神功は乳飲み子を抱えて、豊浦宮(山口県豊浦)に仮葬した仲哀の遺体と一緒に畿内へ戻ろうします。ですが、これを快く思わなかったのが仲哀の他の皇子たち。仲哀には皇后の神功の他に妃などが複数いて、皇子は後の応神を含めて4人いました。もちろん、応神が末弟です。
 仲哀が他界し、皇后の神功が子どもを産んだとなれば、自分たちは皇位を継承できない。そう判断した麝阪王と忍熊王は神功たちを討とうとします。麝阪王はその途中で死んでしまうのですが、最後まで抵抗した忍熊王が陣取った地。それが宇治、つまりは現在の京都にして近江のお隣の地でした。

|三月の丙申の朔庚子に、武内宿禰・和珥臣の祖武振熊に命して、数万の衆を率きゐて、忍熊
|王を撃たしむ。爰に武内宿禰等、精兵を選びて山背より出づ。菟道に至りて河の北に屯む。
|忍熊王、営を出でて戦はむとす。時に熊之凝といふ者有り。忍熊王の軍の先鋒と為る。則ち
|己が衆を勧めむと欲ひて、因りて高唱く歌して曰はく

| 彼方の あらら松原
| 松原に 渡り行きて
| 槻弓に まり矢を副へ
| 貴人は 貴人どちや
| 親友はも 親友どち
| いざ闘はな 我は
| たまきはる 内の朝臣が
| 腹内は 小石あれや
| いざ闘はな 我は

|時に武内宿禰、三軍に令して悉に椎結げしむ。因りて号令して曰はく
|「各儲弦を以て髮中に蔵め、且木刀を佩け」
| といふ。既にして乃ち皇后の命を挙げて、忍熊王を誘りて曰はく
|「吾は天下を貪らず。唯幼き王を懐きて、君王に従ふらくのみ。豈距き戦ふこと有らむや。
|願はくは共に弦を絶ちて兵を捨てて、与に連和しからむ。然して則ち、君王は天業を登し
|て、席に安く枕を高くして、専万機を制まさむ」
| といふ。則ち顕に軍の中に令して、悉く弦を断ち刀を解きて、河水に投る。忍熊王、其の
|誘の言を信けたまはりて、悉に軍衆に令して、兵を解きて河水に投れて、弦を断らしむ。爰
|に武内宿禰、三軍に令して、儲弦を出だして、更に張りて、真刀を佩く。河を度りて進む。忍
|熊王、欺かれたることを知りて、倉見別・五十狹茅宿禰に謂りて曰はく
|「吾既に欺かれぬ。今儲の兵無し。豈戦ふこと得べけむや」
| といひて、兵を曳きて稍退く。武内宿禰、精兵を出だして追ふ。適逢坂に遇ひて破りつ。
|故、其の処を号けて逢坂と曰ふ。
               「日本書紀 巻9 神功皇后 神功摂政元年(201年)3月5日」


 数万。日本書紀にはそうあります。ですから、これもまた実際にあったのであるならば古代史に於ける、大きな戦乱。つまりは天下分け目の戦いなのかも知れません。
 忍熊王が宇治に陣を構えたことを知った武内宿禰は、後に和邇氏の祖となる武振熊を将軍に据えて、作戦を練りました。...要するに騙し合いです。

 弓の弦の予備を兵の髪の毛の中へ隠し持たせ、腰には木刀を佩かせて、忍熊王軍と対峙。
「戦うつもりない、その証拠に...」
 と弓の弦を切り、木刀を宇治川へ投げ入れて帰順する姿勢を見せて、相手にも武器を捨てさせたんですね。そして、予備の弦を張った弓と、隠していた本当の刀で襲い掛かる。...当然、忍熊王は抵抗する術もなく敗走。さらにそれを追いかける武内宿禰軍が、ようやく忍熊王に追いつき出遇った地。
 だから逢坂、ということです。

 走りすぎてゆく車の排気音は、絶えず響いています。逢坂の関が設けられるよりずっと昔から、何かと衝突の舞台となっていたらしき逢坂を、恐らくはそうとも知らずに過ぎ去ってゆくたくさんの人々がいます。そして、逢坂の地はそれをただ静かに見つめているだけなのでしょう。
 わたし個人としては、神功皇后や万葉歌よりも以前に、どうしても小倉百人から入ってしまった所為か、実際に逢坂に来るまではどうもピンと来なかったというのが正直なところでした。

 何せ、その小倉百人もわずか4歳にして出会ってしまったのでは、意味など判っていなかった時期がとても長く...。ただ音として捉えていましたから、半ば語呂合わせのような響きは単純に面白がっていましたし、部分的に意味が判るものがあれば、そこだけの印象ばかりが残ってしまいます。
 そう、まさしく蝉丸の「これやこの行くも帰るも〜」という語呂合わせのようなリフレインは子ども心に面白くて仕方なかったんですね。しかも詠み人の蝉丸という響きも、不謹慎ながら子どもにはかなりのインパクトがあって。

 そういう印象から入ってしまった逢坂。それがわたしの中で引っ繰り返ったのは蝉丸と逆髪の逸話を知ってからだったと思います。そして、万葉歌や21代集に詠まれた意味と、神功皇后のことと。
 今ならば、蝉丸が詠んだ思いも手繰れます。彼が詠んだものはまさしく境界だったのですから。







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