ところで、持統の行幸に従駕し、歌を残した人麻呂。恐らくは彼が、再利用のために礎石以外、何も残らず、ただ草ばかりが生えていたここ・大津宮跡界隈で耳にした伝説があったのでしょう。
 こんな挽歌もまた、「万葉集」には残っています。

|題詞:吉備の津の釆女の死りし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首[短歌を并せたり]
|秋山の したへる妹
|なよ竹の とをよる子らは
|いかさまに 思ひ居れか
|栲縄の 長き命を
|露こそば 朝に置きて
|夕は 消ゆといへ
|霧こそば 夕に立ちて
|朝は 失すといへ
|梓弓 音聞く我れも
|おほに見し こと悔しきを
|敷栲の 手枕まきて
|剣太刀 身に添へ寝けむ
|若草の その嬬の子は
|寂しみか 思ひて寝らむ
|悔しみか 思ひ恋ふらむ
|時ならず 過ぎにし子らが
|朝露のごと 夕霧のごと
                           柿本人麻呂「万葉集 巻2-0217」
|題詞:(吉備の津の釆女の死りし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首[短歌を并せたり])
|   短歌二首
|楽浪の志賀津の子らが罷り道の川瀬の道を見れば寂しも
                           柿本人麻呂「万葉集 巻2-0218」
|題詞:(吉備の津の釆女の死りし時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首[短歌を并せたり])
|   短歌二首
|そら数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき
                           柿本人麻呂「万葉集 巻2-0219」


 「秋山が紅に装うような美しい乙女。なよ竹のようにしなやかなその乙女は、何を思っていたのだろうか。命は永らえるべきものなのに。露ならば朝に宿って夕方に消えることも、霧であれば夕方に立って朝にも消えることもあるけれども。亡くなったという噂を聞いたけれど、これまでかすかに見ただけだったわたしですら、こんなに悔やまれてならないのに、手枕を交わし、寄り添って寝たであろう夫は、寂しく思いながら寝ているだろうか。悔いながらも恋焦がれているだろうか。思いがけなく亡くなってしまったあの娘が、露のように、霧のように...」
「志賀の大津の采女がこの世を去ってゆく葬送の道となる川瀬の道を見ると何とも寂しいものだ」
「大津の采女と会った日に、何とはなしに見てしまったが今になって悔やまれてならないものだ」

 どうやら後宮に従事していた采女が1人、自殺したようです。...本来、采女というのは天皇に献上された娘たちのことですから、夫がいたというのが何とも。短絡的に考えるなら、それが理由で自ら命を絶ったのでしょうか。
 いずれにせよ、すべては昔語りです。吉備の津の釆女も、額田と天智というあったかなかったのかすらも判らないドラマも、親兄弟の仇へと嫁いぎ、もしたかしたなら一時的に政を執り仕切ったかも知れない倭姫王も、天智の理想も、鎌足の野望も、すべてはここから始まった激しい戦の向こう側。その戦によって変わってしまった世界からは、わずかに透けて見える別の世界の、昔語りです。

 近江から戻った人麻呂。現地で詠んだ大津宮という1つの時代に対する挽歌とは別に、彼が謡わずにいられなかった采女の歌に、人麻呂が偲んだものは時代だけではなかったのかも知れない、と...。留まれない、ということは時に残酷で、そしてこれ以上もないほどの祝福なのですから。

 弥日異にゆきゆくかぎり ゆくことで帰らるゝとふ知りゐてやなほ  遼川るか
 (於:大津宮跡)


 初秋の早朝の空気はほのかにひんやりとしていて、袖から出している肘や腕の肌に、軽い重みを訴えます。こじんまりとして、空地に近いままでいる大津宮跡。その第2ポイントの真ん中で、ぼんやりと空を見上げてしまっている自身がいました。
 ...何が哀しい、ということでは決してなかったというのに。そうではなかったのに、それでもうっすらとした虚しさが、肌をやんわりと逆撫でしているような、そんな感覚だけが満ちていて。わたし自身もそれに抵抗せず、気持ちを預けてしまっていました。
 そうするのが、自然だったのです。

      −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 車を取りに一旦、近江神宮の駐車場まで戻ってから再び、近江神宮を背に、点在している大津宮跡を過ぎてゆきます。この通りは大津市役所に面しているので、それなりに車も人も混んでいるのではないかな、と思っていたんですけれどね。時間帯が早過ぎからなのか、それとも他に理由があったのか。ともあれ辺りは驚くほど静かで、閑散ともしています。
 ちょうど市役所の目の前まで来ると、球体に近い形をしたオブジェがあります。
「それを目印に右折してください」
 そう教えてくれたのは、お茶を買う為に立ち寄ったコンビニエンス・ストアのアルバイトさん。

 言われた通りに右折すると、そこから先は軽い登り坂で、しかも住宅はあれど緑も増えてきている、という按配。...あきらかに古墳の特徴です。
 大友皇子。当人が生きていた時代よりおよそ1000年も経ってから天皇と追尊された人物の御陵の裾野がもう始まっているのでしょう。

 大友。どんな人物だったのか、はよく判っていません。前述しているように日本書紀には、存在こそ明記されていますが、詳しいことなど何1つとして語られてはいなくて、その理由が壬申の乱の勝者サイドによる記録の改竄なのか、あいはそもそもが采女の子という出自ゆえだったのか。
 そんな彼のことを最も現代に多く伝えているのは、すでに引用している懐風藻のみ。ただ、その懐風藻の編纂者と目されているのは彼の曾孫である淡海三船ですから、こちらもまた全てを鵜呑みにできるとも思えません。
 額田と天武の娘・十市皇女と大友の間には葛野王が生まれ、その彼の孫が淡海三船ということですね。

 残念ながら、大友の歌は残っていないらしく「万葉集」を筆頭に、記紀歌謡にも見つけられません。けれども漢詩ならば残っています。

|言侍宴一絶

|皇明光日月  皇明日月と光り
|帝コ載天地  帝徳は天地に載つ
|三才並泰昌  三才ならびに泰昌
|万国表臣義  万国臣義を表す  (書き下し:遼川るか)
                       大友皇子「懐風藻 淡海朝大友皇子 2首」
|述懷一絶

|道コ承天訓  道徳は天訓を承け
|鹽梅寄真宰  塩梅は真宰に寄す
|羞無監撫術  羞づらくは監撫の術なきことを
|安能臨四海  安んぞ四海に臨まむ(書き下し:遼川るか)
                       大友皇子「懐風藻 淡海朝大友皇子 2首」


 前者が父・天智の治世に対する純粋な賛美と、その皇子たる自身の喜び。きっと、そんなものが詰まっている漢詩なのでしょう。一方、後者は太政大臣としての力量がない自身と、それでも真摯に政務へ取り組もうとしているある意味、とても純粋な情熱のようなものに溢れている印象です。
 ...まだ年齢にして20代そこそこ。いくら当時の成人が13歳だったとは言え、これくらい真っ直ぐしているのがむしろ普通だったのでしょう。また、そうであったならばそもそもが、大海人皇子に敵うはずもなかった、と見るべきなのかも知れません。

 いや、ある意味で最も罪深かったのは大友でも大海人でもない、天智だったとも思えます。ここまでに何度か、天智が近江へ遷都した理由は、当時の国内外情勢によるものだったのだろう。
 そうわたしは書いています。ですが、当然ですけれどそれは複数ある説の中の1つに、たまたまわたしが納得できているからこそ書いたのであって、世間には別説だって存在しています。そして、そのうちの1つになかなか衝撃的なものが、存在しています。

 当時の皇族たちの名前。例えば持統天皇ならば菟野讃良、となりますし皇子であるならば大海人皇子(天武)、葛城皇子(天智/中大兄皇子というのは今で言うところの次男の皇子、といったような意味合いで、名前ではない)というようになるのですが、この菟野にしても、葛城にしても、大海人にしても、すべては地名というか氏族の名前なんですね。
 皇族たちは生まれても親の元で育つことは当時、殆どありませんでした。養育係の氏族のもとで育てられていたんですね。

 ですから菟野、あるいは讃良というのも河内国更荒郡菟野邑という地名が導き出せますし、彼女が幼少期を過ごした場所か、あるいは彼女の乳母の出身地が、そうだったということです。
 同様に天智の葛城は大和国の葛城氏、大海人皇子の大海人は摂津他の凡海(おおしあま)氏が見えてくるわけです。

 さて、そして大友です。大友皇子というくらいですから、彼を養育した氏族は大友氏、ということになりますし、その大友氏の本拠地。...そう、これが近江なんです。
 つまり天智の近江遷都にまつわる衝撃的な説というのは、天智は自らが即位する前から、後継者は大友にしようと決めていた、というものなんですね。この時代、皇族にとって自身の養育係であった氏族は、現代で言うところの大票田のようなものです。

 出自自体の問題で、即位したならきっと色々逆風に見舞われるであろう大友のことを考えて、彼にとってのアウェイとなりかねない大和ではなく、彼にとってのホームである近江へ。そう、天智が望んだゆえの遷都だったのだ、と。
 ...判りません。わたしにとっては流石に衝撃的過ぎて、すぐには呑み込めない説ではあるのですが、それでも捨てることもまた出来ない説であることは、事実です。

 緩やかな坂道を登り始めるとすぐに、左に木々の深い影が広がります。これ以上は車も進入できそうになく、民家の塀の脇に車を止めさせて戴きました。
 木々が繁る中へと続く小さな歩道。歩けば右手には鳥居、左手には宮内庁看板が建っています。弘文天皇長等山前陵です。


 かつて奈良で訪ねた志貴皇子の御陵と同じです。宮内庁看板から御陵そのものまでに距離があって、御陵の形はほとんど手繰れそうにありませんでした。
 追々詳しく書きますが、天智の息子として生を受けたことに喜びを抱き、真摯な情熱をもって時代と向き合おうとしていた若者は、けれどもあまりにもやせない形で短い生涯を閉じました。

 ...いや、何も大海人皇子がクーデターを起したから。だから彼が若い命を散らさなければならなかったのだ、などと言うつもりはありません。1つ間違えれば、ここにあったのは大海人皇子の御陵だった可能性も否定はできませんし、そもそも大前提として歴史に正義も悪もないでしょう。
 「なつそびくうなかみがたゆ」で書きましたが、改めて思うのは政、まつりごととは本当に、やるせないもの。そして、世界が変わりゆくスピードに、人はいつだってついてなどゆけなくて。

 明治になってから天皇として追尊された大友。何でも江戸期には、彼は即位していたとするのが一般的な説だったようです。平安末期以降の様々な文献にそう記されたことから、通説になってしまったのでしょう。
 ですが現在、彼に対する諸説は専ら、即位はしていなかったとしていますし、けれども立太子はしていた、ともしています。...はい、わたしもほぼそれに同調している次第。


 墓参。...そう、墓参なのです。わたしの古代史探求は、讃良への憧れから始まりました。なので、どうしても天武のサイドから大津宮時代を見ることが多く、随分と長い間、大友という存在を、結果として軽んじてしまっていた気がしています。
 もちろん、だから詫びたいというわけでも、今さらながらというわけでもなく、ただ全ての死してしまった命はみな平等。そんな思いだけがあって、大友の御陵を訪問地へ加えたわたしです。...実際は、ここに大友が眠っているとも思ってはいないんですけれどね。

 生れたるをうれしぶもあり
 絶えたるをかなしぶもある
 息の緒の継ぎゐしものに
 寄りゆかば
 寄り来ればみな水泡なむ
 とこしなへなるものなくに
 日は目交ひの間のごとし
 なにしか間なく思ふものか
 なにしか間なくほるものか
 たゞにあらまくほしきとて
 しが難ければ
 諸人の思ひて思へども
 道のなし
 なし且つもあり
 あり且つもなきゆゑ
 けふもあれの泣き
 あれのゑみゑむものなれば
 とほきを沁みし皇子なほし
 生れしをほかむ
 ゐしをほかむや

 違はざるものにありゐて天あれば地あるごとく過ぎば過ぐれば

 天つ日のもとにしあれば地のへにあるにほかなき世にある玉の緒  遼川るか
 (於:弘文天皇陵)


 余談になりますが、前述している葛野王です。今回、初めて気づいたのですが、この葛野王、父は大友、母は十市ですから、すなわち彼の祖父母には天智、天武、額田の3人が揃っているんですね。
 これはちょっと盲点でしたし、気づいたら気づいたで、もうあんぐりと口を開けてしまいました。そして、不謹慎ながら笑ってもしまいましたね。

 ...そう、あの古代史屈指にして学校の授業ですら、そう教えているとも言える三角関係、あるいはラブ・アフェア。わたし自身の考えはすでに書きました。ですが書きながらずっと感じていたのは、
「別に誰と誰がどうで、誰と誰がどうじゃなかったなんて、それこそどうだっていいことじゃない」
 と。正直、不毛に思えてならなかったんですね。

 再三、書いていますがわたしが興味をもっているのはことの実際がどうだったか、ではなくてあくまでも散らばった断片をかき集めてよりドラマチックにしたがる人間の習性です。どうしてそんなに夢を見たいのか、と感じずにはいられないから諸説を読み比べ、あれこれ考えして、書いてきています。
 ですが、そんなソープオペラとは別次元に、3人を祖父母に持った存在がいるという事実だけで、何だかすべてが。そう世界も、人も、そしてもちろん自分自身も可笑しくて、可笑しくてしばし笑い続けてしまいました。


 そんな葛野王。彼もまた懐風藻に漢詩が採られていますし、ちょっとした人物伝も記されています。

|葛野王 二首

|王子は淡海帝の孫、大友太子の長子なり。母は淨御原帝の長女十市内親王なり。器範宏
|風鑑秀遠、材棟幹に称ひ、地帝戚を兼ぬ。少くして学を好み、博く経史に渉る。すこぶる文
|を属することを愛し、兼ねて書画を能くす。淨原帝の嫡孫にして淨太肆を授けられ、治部
|卿に拝せられる。高市皇子薨じて後、皇太后、王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむこと
|謀る。時に群臣おのおの私好を挟んで衆議紛紜たり。王子進奏して曰く、
|「わが国家の法たるや、神代よりこの典を以て仰いで天心論ず。誰かよく敢へて測らむ。し
|かも人事を以てこれを推さば、從來子孫相承して以て天位を襲ぐ。もし兄弟相及さば、す
|なはち乱れむ。聖嗣自然に定まれり。この外たれか敢へて間然せむや」
| 弓削皇子座に在り。言ふことあらむとほつす。王子これを叱してすなはち止む。皇太后
|その一言を嘉して、特閲して正四位を授け、式部卿に拝す。時に年三十七。
                            葛野王「懐風藻 葛野王 2首」


 讃良、つまりは持統天皇の時に、太政大臣だった高市が病死します。そして持統は自らの皇位の継承者を誰にするべきか、とみなに問うたわけですね。
 本来の皇太子だった草壁はとおの昔の病死、大津は草壁よりも早く謀反の嫌疑を持たれて自害。

 ...この当時、生存していた天武の皇子たち。細かくは確認していませんが、長皇子、弓削皇子、穂積皇子、舎人皇子、新田部皇子、といった顔ぶれは確実に健在だったと思います。そして、このうちで母親が皇族の存在は、と言うと長皇子、弓削皇子、舎人皇子といった面々ですか。
 日本書紀などを見る限り、この3人の中では弓削が一番年若だと思います。懐風藻では彼が皇位を欲しているかのような書き方になっていますが恐らくは、この記述。さほど深い意味はないのではないか、考えられます。

|弓削皇子座に在り。
                        葛野王「懐風藻 葛野王 2首」再引用


 とあるように、たまたまその席に居合わせた中で、皇位継承の可能性があった存在が弓削だったということでしょうね。...逆を言えば、この場に長皇子や舎人がいたならば葛野が一喝した相手は違っていたのかもしれません。
 そう、彼がわざわざ持統に対し
「古来より皇位の継承は子孫へとなされるもので、兄弟間でこれが起こっては世の騒乱の元となりますから厳に慎むべきです。...であるならば、皇位を継承すべき方はもう決まっています(天武と持統の孫にして草壁の子である軽皇子以外にはいない)」
 と奏上したところ、それに不満気だった弓削を叱りつけたように、です。

 もう、壬申の乱の後の時代です。大友の遺児だった葛野王は肩身も狭かったことでしょう。しかも母親は斎宮となる直前に自殺したらしき十市。蛇足ながらさらに付け加えるのなら、その十市は高市と只ならぬ間であったのではないか、とも目されていましたから、葛野からすれば当時の宮中はもうしがらみだらけ。あたかも地雷原のような状態だったのでしょう。しかも、1つ踏み外せば相手は讃良です。...何が待っているのかは、彼だって、いや彼だからこそ心得てもいたはずです。

 実際は、長皇子や舎人皇子ならばまだしも、弓削に皇位継承の順番が回ってくることはほぼあり得なかったでしょうし、要は喧々諤々勝手なことばかり主張する者たちを薙ぎ払って、讃良が最も望む選択を誰かが
「そうあるべきです」
 と叫ばなければならなかっただけのこと。逆を言えば、とっくに皇位継承などからは解き放たれた葛野ならば、それを言うのも容易かったのではないかと思います。
 そして、何よりも葛野が嫌だったのは、皇位継承で人々が揉めること、そのものだと感じました。壬申の乱で父親を喪い、それによって窮屈な思いをしていたであろう彼だからこそ、なのではないでしょうか。

 面白いな、と感じますね。もちろん、限られた記述からしか手繰れない時代ですから、いま知ることのできるものが全てだ、などとは思っていません。ですが、壬申の乱より後に窮屈ながらも生きた皇子やその子どもたちがどういう姿勢をとったのか、は千差万別で本当にまちまちです。
 保身を図った、とされている川島皇子(天智の遺児)。控えめに、けれども真摯に勤め、風雅の世界を愛した志貴皇子(同じく天智の遺児)。そのいずれとも違う姿勢で、葛野もまた時代の濁流を生きたのでしょう。







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