ささなみのしがゆ・弐

 ゆっくりと胸に沁みこみ、そして沈み凝ってゆくような水の匂い。大きな大きな湖面に光が反射してひと際、明るい印象を放つ景色。初秋とは明らかに違う晩春の陽射しのもと、それでもこの地は半年前と変わることなく視界に横たわります。呼び覚まされる、とおいとおい悠かなかつての感覚。太古、確かに自分は水の中からやってきたのだ、という確信とそれを追認するかのようにざわつく肌の感触すらも違えることなく、そのままに。
「ただいま」
 ただ、ただ、それだけを呟けばこの国が纏うすべてに、ゆったりと抱きすくめられてゆくような懐かしさがあって、途端に熱くなってしまう目と鼻の奥。まみづが鎮座し、司る国・近江。こんなに早く、またここへ来られた感謝を込めて深く、深く、世界へ向けて一礼しました。

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 さゝなみのしが。大津界隈を中心としたかつての近江国のことですが、現在の自治体名で言うならばもちろん、滋賀県。その南半分を、訪ねて回ったのは昨秋は9月の末のこと。当時はまさかこんなに早く再訪することになるとは思ってもおらず、けれども半年前、巡り合わせが悪くてついに行けなかった幾つかの訪問地について、あれこれ思いを馳せ続けていたわたしが、今ここへ来られているのは純粋に仕事のお影でした。現地入りすることが必須のイベントがたまたま今年は滋賀県の、それも兵部大社のごく近くで開催されたことから、その帰りに宿題を済ませよう、訪ねられなかった数ヵ所を、可能な限り訪ねよう。そう、心に決めて近江国入りしたのは昨日のこと。
 仕事を無事終え、まだまだ時刻は12時前です。夕方には岐阜羽島の営業所へレンタカーを返さなければなりませんが、その為の移動時刻を見越しても、宿題はすべて終えられそうな気配。...いやはや、これはちょっと頑張らなければならないでしょう。

 いかへれば沁むるがものといづへみなけふさゝなみのしがをし思はむ  遼川るか
 (於:さゝみな街道途上)


 湖南と湖東の中間あたり。野洲川が琵琶湖へと注ぐ辺りから出発し、湖岸に沿って南下します。このあたりは、半年前に逆方向から通ったことがあるので、土地勘もあって気持ちにも余裕がありますし、だからという訳ではないですが、ついつい周囲を見渡してしまって。 すでに世間は春の大型連休に入っているからか、車の通行量も道行く人の数も多く、半年前のあの、忍び寄ってくるやも知れない台風に急かされながら走り回った時と比べるとずいぶんと華やいで見えます。ただですら反射光で眩いこの国。それがこんなに華やいでいると、ついそういうものだ、と思い違えてしまうそうですね。...本当は、数多の血がしみこんだ、決戦の地のはずなのに、です。

 「さゝなみのしがゆ」の冒頭でも書きましたが、近江国は天下分け目の地。戦国時代の関が原こそもっと岐阜よりになりますが、上代では壬申の乱を筆頭に湖南界隈で、数度の武力衝突が起こりました。そして、それらのうち多くの舞台となったのが瀬田の唐橋。はい、琵琶湖から唯一、流れ出ている河川・瀬田川に架けられた橋です。
 ...半年前も、21世紀の瀬田の唐橋が長閑なことが哀しいような、嬉しいような複雑な感情でしたが、あのときよりもさらに華やかで、清々しく見える今日のこの橋に、胸の奥がかすかに冷たくなってゆくのを、確かにわたしは感じています。ただ、その距離がどうにも遠く歯痒いのですが。

  

 ...決して、瀬田の唐橋だけが数多の血がしみこんでいるわけではありません。古戦場の類はこの国ならばそこかしこにありますし、それ以前に人類が日々の糧としてきた動植物の血まで考えれば血がしみこんでいない土地など、そもそもあるはずもなし。
 それなのに、このわずかに重く冷たい胸は、何なのでしょうね。それこそ名づけるのなら感傷、あるいはロマンとでも呼ぶのでしょうか。...だとしたら随分と情けなく、また安っぽいこと。もちろん、わたしの自身が、です。

 晩春というよりは、もはや初夏。かつて讃良が初夏の白っぽい衣を謡ったのも、まさしくこの季節でしょうか。やや渋滞気味の瀬田の唐橋。そこを徒歩で渡ってゆく人々もまた、みな白っぽい装い。益々、この橋が刻んでいる歴史とのギャップが浮き彫りになります。
 この橋が壬申の乱の最終決戦地となったことや、神功皇后の時代には武内宿禰が率いる皇后軍と忍熊軍の戦いで、やはり勝敗が決した地となったことは、前作でかなり書き込んでいますが、その他にもう1つ。こちらは軽く書き添えた程度だったのが天平末期、恵美押勝の乱でのいち場面です。

|乃ち高野天皇に諷して都督使と為り、兵を掌りて自ら衛る。諸国の試兵の法に准拠、
|管内しての兵士国毎に廿人、五日を番とし、都督衛に集めて武藝を簡閲す。奏聞し
|畢りて後、私にその数を益し、太政官の印を用ゐて行下す。大外記高丘比良麻呂、禍
|の己に及ばむことを懼りて、密にその事を奏す。中宮院の鈴・印を収むるに及びて、
|遂に兵を起こして反く。その夜、党与を相招き、道きて宇治より近江に奔り拠る。山
|背守日下部子麻呂・衛門少尉佐伯伊多智ら、直ちに田原道を取り、先に近江に至りて
|勢多橋を焼く。押勝これを見て色を失ひ、即便ち高嶋郡に走りて前少領角家足の宅
|に宿る。
               「続日本紀 巻25 淳仁天皇 天平宝字8年(764年)9月」


 恵美押勝。本来の名前は藤原仲麻呂。藤原4兄弟の長子・武智麻呂の次男にして、聖武天皇の皇后だった光明子を後ろ盾に、孝謙期の政界に君臨した存在ですが、彼の辿った一連の流れは、良くも悪くも滅びゆく天平そのもののミニチュアなのかも知れません。
 実の叔母・光明子は皇后。藤原の直系にして嫡流中の嫡流の出身でしたからたとえ、生まれこそ皇族ではなくとも実質はそれに匹敵、あるいはそれを上回る権力をもって、時代を掌握。聖武上皇が没した際、その遺言により立太子した天武の孫に当たる道祖王が、のちに素行不良によって廃太子されると、自身の長男の未亡人である粟田諸姉を妃としていた大炊王(淳仁天皇)を立太子させることに成功。また、祖父・藤原不比等から継承した、養老律令の作成・施行をも成し遂げました。...が、そんな仲麻呂でも、時代の凋落には敵わなかった、と言うべきなのでしょうか。

 叔母・光明子が没した頃から少しずつ、少しずつ狂い始める歯車。孝謙が譲位し、大炊王が淳仁天皇として即位するも、孝謙は上皇として実権を握ったままでした。そして、かつては良好な関係だったはずの仲麻呂にとって代わるかのように、孝謙の信任、あるいは寵愛は弓削道鏡へと移ってしまって。
 それを諌めよう、と淳仁を通して進言したことで、それでも何とか保たれていたバランスが崩壊します。孝謙・道鏡サイドに対する淳仁・仲麻呂サイドの緊張は高まり、つい仲麻呂は武力に訴えた...。これが後にいう恵美押勝の乱、となります。

 けれども、仲麻呂はつねに孝謙に先手を取られ続けます。時の天皇・淳仁が持っていた御璽と駅鈴を奪われ、ならばと平城京から脱出して東へ向かうも、これまた先回りした孝謙の手によって瀬田の唐橋が焼き落とされて、先に進めず。仕方なしに湖西方面から北上して、愛発関を越すルートを取りました。また、寄りによって時の天皇・淳仁を連れ出すことにも失敗し、別の皇族・塩焼王(天武の孫)を擁立して独自の朝廷を名乗り、諸国へ号令を発布、と。
 ですが、やはり孝謙軍が先に愛発関を固めてしまったことから、もはや進退が窮まり、琵琶湖西岸の城に立て篭もりますが、こちらも陥落。最後は舟で琵琶湖上へ逃げ出しましたけれど、時ならぬ逆風で岸に戻されてしまい、そこにて捕縛・斬首に処されました。

|是の夜、星有りて押勝が臥せる屋の上に落つ。その大きさ甕の如し。伊多智ら馳せて
|越前国に到りて、守辛加知を斬る。押勝知らずして、偽りて塩焼を立てて今帝とし、
|真光・朝獵らを皆三品とす。餘は各差有り。精兵数十を遣して愛発関に入らしめむと
|す。授刀物部廣成ら拒きてこれを却く。押勝、進退を失ひ、即ち船に乗りて浅井郡塩
|津に向ふ。急に逆風有りて、船漂没せむとす。是に於て、更に山道を取りて直に愛発
|を指せども、伊多智らこれを拒く。八九人箭に中りて亡せぬ。押勝即ちまた還りて高
|嶋郡三尾埼に到り、佐伯三野・大野真本らと相戦ふこと、午より申に及ぶ。官軍の疲
|頓なり。時に従五位下藤原朝臣蔵下麻呂、兵を将ゐて急に至る。真光衆を引きて退く。
|三野らこれに乗じて、殺し傷ること稍く多し。押勝遙に衆の敗るるを望み、船に乗り
|て亡ぐ。諸の将、水陸両道より攻む。押勝、勝野の鬼江を阻とし、鋭を尽くして拒き戦
|ふ。官軍これを攻め撃ち、押勝が衆潰ゆ。独り妻子三四人と船に乗りて江に浮ぶ。石
|楯獲て斬り、及その妻子従党卅四人皆江の頭に斬る。独り第六子刷雄、少きより禅行
|を修むるを以て、その死を免れて隠岐国に流さる。
               「続日本紀 巻25 淳仁天皇 天平宝字8年(764年)9月」


 これが、恵美押勝の乱の概略です。つまり、ここ瀬田の唐橋は少なくとも恵美押勝の乱では直接的に血が流れた戦場とはなっていません。...でも、やはり実質的な勝敗はこの橋で決まってしまったようなものでしょうね。もし。もし、仲麻呂がこの橋を渡って東国へ逃げ込んでいたならば...。
 やめましょう。歴史に仮定など無意味です。そして、どんな命もまた、有限である現実はこの三千世界に住まうすべての存在に等しく定められた終末なのですから。

 半年前、実際にわたしが瀬田の唐橋を渡ったのは湖西方面から、湖東方面へ向かって、でした。時間帯は朝、天気は曇り。そして今、湖東方面から湖西方面へ、快晴の南中時刻にこの橋を渡ります。同じ橋。けれども決してあのときと同じではない橋。この橋のしたを流れてゆく川の水がひと時として同じものではないように、時は常に移ろい、流れます。
 過去に何度も書いていますが、旅というのはたとえ同じ地を訪ねたとしても、どれも異なり同じものはひとつしてありません。にも関わらず、この橋が繰り返し歴史の舞台となってしまったのは、一重に境界ゆえの宿命なのでしょうか。せめてこの先、この境界が多くの人の幸福への足掛かりとなってくれるといいのですけれどね。...いや、少なくともこの橋で多くのことを学ばせてもらっているわたし個人にとっては、とっくにそういう存在になっているのですが。
 渋滞は相変わらず。けれども天気は上々、絶好の宿題日和です。レンタカーの窓を開けるとさらり、とした初夏の風。

 間なくゆく
 みづまたも風なほしひと
 霊あまたゆゑ
 隠れるも
 隠るもあまた
 みなひとのすゑ違はざり
 すゑひとつ
 流れしものに号れば
 あらたまの年
 ぬばたまの夜を統べる月
 久方の日の象なせる光なむ
 天つみづふり
 風吹けど
 またもかへらむ
 かへりくるもののかぎりと
 世は世にて
 橋は橋とて
 橋なればきはみとてあり
 分かたゆる
 此方彼方に
 なに見むや
 違はざる橋
 違ひゐて
 なほし続くるきはみなる橋

 みなひとはひとつ処へいかへるらむ 知るをかぎりにみなひと知らに  遼川るか
 (於:瀬田の唐橋)


                  

        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

|「挂けまくも畏き朕が天の先帝の御命以て朕に勅りたまひしく、天下は朕が子いま
|しに授け給ふ。事をし云はば、王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも、汝の爲せまに
|まに。假令後に帝と立ちて在る人い、立ちの後に汝のために无礼して從はず、なめく
|在らむ人をば帝の位に置くことは得ずあれ。また君臣の理に從ひて、貞しく淨き心
|を以て助け奉侍らむし帝と在ることは得むと勅りたまひき。かく在る御命を朕また
|一二の竪子等と侍りて聞きたまへて在り。然るに今の帝として侍る人を此の年ごろ
|見るに其の位にも堪へず。是のみに在ず。今聞くに仲麻呂と心を同じくして窃に朕
|を掃はむと謀りけり。また窃に六千の兵を発しととのひ、また七人のみにして関に
|入れむとも謀けり。精兵をして押ししひて壊り乱りて、罰ち滅さむと云ひけり。故、
|是を以て、帝の位をば退け賜ひて、親王の位賜ひて淡路国の公と退け賜ふと勅りた
|まふ御命を聞きたまへと宣る」
| とのたまふ。
             「続日本紀 巻25 淳仁天皇 天平宝字8年(764年)10月9日」


 恵美押勝の乱は当事者の仲麻呂や、彼によって帝とされた塩焼王が斬られたことで、すべてが終わったわけではありません。曲がりなりにもその当時、即位していたのは淳仁です。そして、その淳仁は仲麻呂サイドの天皇だったにも関わらず、仲麻呂とは一緒に逃げませんでした。
 これには諸説あるようで、乱の時点で淳仁は孝謙に捕らえられていた為としているもの、あるいはその頃にはすでに仲麻呂についてゆけなくなった淳仁自らが孝謙に帰順した、としているものなどなど。

 ですが、そのいずれにしても時の天子がそんな有様では...、となっても致し方ないでしょう。はい、上記引用している通り恵美押勝の乱の収束の際、孝謙上皇が淳仁を廃し、淡路国公に処す、と詔を出します。そして、彼女自身が重祚。称徳天皇として再び即位した訳なのですが。
 廃帝・淳仁。彼が日本史に於いて再び天皇とされるのは大友皇子同様、明治期まで待たなければなりません。その間、ずっと彼は廃帝でした。

 淳仁天皇、あるいは大炊王。天武の皇子であった舎人親王の7男です。...正直、これまたとんと皇統からは遠い位置に生まれた、言ってしまえばまず皇位継承に関して名前が挙がってくるとは思えない人物でした。実際、舎人親王にとっても遅い子どもだったからか、わずか3歳にして父親を亡くし、皇族でありながら官位すらなかったほど。
 そもそも、そんな彼が立太子して、あまつさえ即位までしてしまったこと自体、すでに仲麻呂の肝煎りだったということでしょう。...ある意味ではお神輿、お人形のようだったのではないか、と。

 淡路公という位は、事実上の淡路流罪。もうこの頃には流刑の遠・中・近が存在していましたから、それでも軽い処罰だったと言えそうですね。ですが、それも称徳の政治的手腕の1つだったのかもしれません。続日本紀は、こんな件をのちに記載しています。

|乙亥、淡路国守從五位下佐伯宿祢助に勅したまはく、
|「風に聞かく、『彼の国に配流せる罪人、稍く逃亡を致せり』ときく。事、如し実有ら
|ば、何を以てか奏せぬ。汝、朕が心に簡ひて、往きて彼の事の動靜を監て、必ず早に奏
|すべし。また聞かく、『諸人等、詐りて商人と称りて、多く彼の部に向ふ。国司察らず
|して、遂に群を成す』ときく。今より以後、一切に禁断せよ」
| とのたまふ。
             「続日本紀 巻26 称徳天皇 天平神護元年(765年)2月14日」

|庚辰、淡路公、幽憤に勝へず、垣を踰えて逃ぐ。守佐伯宿祢助、掾高屋連並木ら兵を率
|ゐてこれを邀る。公還りて明くる日に院中に薨しぬ。
           「続日本紀 巻26 称徳天皇 天平神護元年(765年)10月22〜23日」


 つまり、淡路へ流罪に処したにも関わらず、商人のふりをして淳仁の元へ出入りする人々が絶えないことから、これを禁じろと称徳が命じた、と記しているのが前者で、後者はその淳仁が遂に逃げ出すもすぐに捕まり、その翌日には没した、と記したもの。...捕縛の翌日に都合よく病死するわけもなく、誅されたのであろうとするのが現代の一般的な見方です。
 乱そのものに直接的に関わらなかった淳仁を、いったんは遠く退けてから別の理由で誅する。この時代には当たり前だったことではありますが、称徳のやり方は、世間の視線を意識しつつも、不安材料はきっちり排除する、という冷徹さがあります。...流石に淳仁が、本当に逃げだしたとはちょっと考えづらいですし。

 ともあれ、たまたま仲麻呂と近い間柄だった為に歴史の表舞台に立ち、その仲麻呂によって逆賊、流罪、客死(あるいは暗殺)となった淳仁。政治的にも、恐らくはその殆どを仲麻呂が統べていたと思われますが、それでも彼が行ったとされる政治的事業は、当然ですけれど色々とあります。
 ちょうど、お隣の唐で長恨歌や楊貴妃で有名な安録山の乱が勃発したのが彼の在位期間中でしたから、九州の国防警備を強化。また当時の官位名を唐風に改めたりもしていますし、草壁皇子を岡宮天皇と追尊したのも、淳仁です。けれども、個人的に一番興味があるのは保良宮造営、となりますでしょうか。
 保良宮。淳仁が近江の国に造ろうとした離宮です。

|戊寅、造宮輔從五位下中臣丸連張弓、越前員外介從五位下長野連君足を遣して、保良
|宮を造らしむ。
              「続日本紀 巻22 淳仁天皇 天平宝字3年(759年)11月16日」

|丁未、司門衛督正五位上粟田朝臣奈勢麻呂、礼部少輔従五位下藤原朝臣田麻呂ら、六
|位已下の官七人をして保良京に於て諸司の史生已上の宅地を班ち給はしむ。
               「続日本紀 巻23 淳仁天皇 天平宝字5年(761年)1月21日」

|壬戌、内舍人正八位上御方広名ら三人に姓を御方宿祢と賜ふ。また大師に稲一百万
|束を賜ふ。三品船親王・池田親王に各十万束。正三位石川朝臣年足・文室眞人淨三に
|各四万束。二品井上内親王に十万束。四品飛鳥田内親王、正三位縣犬養夫人・粟田女
|王・陽侯女王に各四万束。都を保良に遷すを以てなり。
              「続日本紀 巻23 淳仁天皇 天平宝字5年(761年)10月11日」

|甲子、保良宮に行幸したまふ。
              「続日本紀 巻23 淳仁天皇 天平宝字5年(761年)10月13日」

|己夘、詔して曰はく、
|「平城宮を改め作る為に、暫く移りて近江国保良宮に御します。是を以て国司の史生
|已上の事に供れる者、并せて造宮使藤原朝臣田麻呂らに位階を加へ賜ふ。郡司には
|物を賜ふ。当国の百姓と、左右京・大和・和泉・山背等の国との今年の田租を免したま
|ふ。また天平宝字五年十月十六日昧爽より已前の近江国の雜犯死罪已下、咸悉く赦
|除せ」
| とのたまふ。正四位上藤原朝臣御楯に従三位を授く。従五位下藤原朝臣田麻呂・巨
|曾倍朝臣難波麻呂・中臣丸連張弓に並に従五位上。正六位上椋垣忌寸吉麻呂・葛井連
|根主に並に外従五位下。是の日、勅して曰はく、
|「朕思ふ所有りて、北京を造らむことを議る。時の事由に縁りて暫く移りて遊覧する
|に、この土の百姓頗る差科に労せり。仁恕の襟、何ぞ矜愍むこと無けむ。都に近き両
|郡を割きて、永く畿県とし、庸を停めて調を輸すべし。その数は京に准へよ」
| とのたまふ。
              「続日本紀 巻23 淳仁天皇 天平宝字5年(761年)10月28日」

|六年春正月庚辰の朔、朝を廃む。宮室未だ成らぬを以てなり。
                「続日本紀 巻24 淳仁天皇 天平宝字6年(762年)1月1日」

|壬午、宮の西南に新に池亭を造り、曲水の宴を設く。
                「続日本紀 巻24 淳仁天皇 天平宝字6年(762年)3月3日」

|甲辰、保良宮の諸殿と屋・垣とを諸国に分ち配りて、一時に功を就さしむ。
               「続日本紀 巻24 淳仁天皇 天平宝字6年(762年)3月25日」


 続日本紀に残されている記述を列挙してみましたが、難しいですね。例えば、同じく奈良末期の他の都であれば先ず遷都の詔があり、さらにはその都の大門に盾と槍が掲げられた、という記述もありますし、その後、また遷都したのであるならば、廃都とされた、とは記述されないまでも、また新たな都への遷都の詔と大盾・大槍が登場します。
 が、保良宮にはそれがありません。保良宮へ遷都したという詔もなければ、その後の遷都の記述もなし。これは淳仁が廃帝となってしまったがため、彼が定めたことは一切なかったこととして処されたのか、あるいは最初から正規の都ではなかったのかが、判断できないんですね。

  

 わたし個人の感覚論では、正規の都というよりは離宮に高い感覚だったのではないか、ともしたいのですが、同時にそうとしてしまうことにも首肯し切れず。続日本紀は桓武天皇の時代に編纂されていますが、果たしてそのころに淳仁がどういう位置づけにされていたのか。それによって見えてくる世界は、正反対にもなりうるでしょう。そして、前述していますが淳仁が廃帝ではなくなるのは、明治期まで待たなければならなかった、という歴史上の事実と、です。
 保良宮。記述からのみ辿れば実質、たった4年程度しか機能できなかったであろう都。わたしが知る限り、明確な遺跡はみつかっていなかったはずです。ただ、状況証拠的に有力説となっているのが滋賀県は現・大津市の南部。昨年、訪ねた近江国衙址や、探せど見つけられなかった近江国分寺址などから比較的、近い瀬田川を渡った対岸側、とのことですが。

 半年前も、確かに訪問先リストには保良宮跡、とあったはずなんですけれどね。瀬田の唐橋に意識を集中させていた所為か、瀬田界隈を遠くはなれた頃になってようやく、保良宮址を洩らしてしまったことに気づいたものです。...だからこそ、今日は何をさておいたとしても最初は保良宮址。そう決めていました。
 有力説しかない現状、そして遺跡らしい遺跡も皆無ではありますが、それでも礎石ではないか、とされているものならば存在しています。正式名・ほらの前の礎石。通称はへそ石というようですが、なんでも住宅街の真ん中に鎮座しているとのこと。そこを目指します。







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