瀬田の唐橋を渡り、そのまま直進します。大津宮跡やその他、先の近江での旅の訪問先群は殆どが右折した先になりますが、今日は直進。そして目当ての交差点で左折します。道なりに淡々と南下。余談になりますが、源氏物語と紫女で有名な石山寺も、この界隈になります。...いや、世間的な注目度で言うならば石山寺とへそ石では雲泥の差、でしょうか。きっと、過去に訪ねた各地がそうだったように、へそ石もまた地元の方には単なる石、と認識されていることでしょう。すでに天平は遠く、ましてや造営途中で廃都、その主は廃帝となった地。それくらい、忘れられているのでしょう。
 「さゝなみのしがゆ」でも少し書きましたが滋賀県、それも殊、大津市内の史跡は個人的にとても好感を持っています。いや、違いますね。好感を持っているのでは史跡に対して、ではなくてそれを管理している大津市の史跡に対する考え方、姿勢、なのでしょう。

 過去の古歌紀行文でも再三に渡って書いていますが、史跡を観光資源としてしまうことにははっきりと抵抗感を覚えます。けれども、ならば滅ぶものは滅ぶに任せよ、と断言できるかといえばそれもまた厳しく。...断言したい気持ちは山々なれど実際、そういった史跡の恩恵に与っているのだから仕方なし。
 だけから毎回、複雑な思いを抱いたまま各地を巡っています。そうする以外に、今のわたしには答えが出せないのですから、ただそのままをそのままとして、です。

 けれども大津市の場合、史跡はあくまでも史跡として、存在させているような感触が、わたし個人に限定するならば、得られたのが半年前のこと。土地と往時の人々に対する敬意と、それを通して未来を模索してゆこうする者たちへの在るものを在るがまま提示してくださっている姿勢、とでもいいましょうか。...いえいえ、それが必ずしもいいとか正しいなんて言えません。わたしはジャッジする権利も資格も有していませんしね。ただ、わたしの前提としている考え方に、たまたま近かったというだけのことなんですが。
 ほらの前の礎石。...何となくすでに予感がしています。きっと、とてもわたしにはしっくり来る形で、そこにあってくれるのだろう、と。きっと、いえ。必ずです。

 目的地近くまで来ると右手はこんもりと茂った丘、なのか公園なのか。後で知ったのですが近津尾神社さん、というお社でした。そしてこの境内にあるのが芭蕉の幻住庵跡、と。石山寺にしろ幻住庵後にしろ、この瀬田川西岸の地は人々に愛される何かがあったのでしょうね。天平末期と平安中期、そして江戸中期に至るまで、ずいぶんと長い時代に跨って、この地は歴史に登場してきます。...こういうものを土地の力、引力なのかな、と考えたりもするのですが。
 右手は木々が茂っていても、左手はまさしく現代の住宅地。バス通りにもなっている路地をゆっくり進みながらへそ石を探します。下調べでは、明確な場所までは特定できず、ただ京阪バスの停留所近く、ということまでは手繰れました。...但し、肝心の停留所の名前が判らなかったんですけれども。

 ともあれバス停を1つ過ぎる毎に確認しつつゆくと、バスの方向転換用と思われる小さなロータリーのような場所が。しかも、そこにバスがエンジンも掛けずに止まり、バス停までもが立っていて。
「...終点、ってことだよね」
 思わず言葉になって漏れたものの、はてさて一体、どうしましょうか。この先に進む必要がないことは判れど、ここまでの通り道に、それらしき石もなかったはず。バス通りではあっても両脇に側溝がある狭い道幅の住宅地。そして、自身はレンタカーに乗っているという状況です。これは早々に車を降りて、徒歩で探すのが懸命でしょう。でも、レンタカーである以上、路肩に停めるのもちょっと...。結局、約1kmほど戻って確実な場所に車を停めました。そして今一度、徒歩でバスの終点界隈まで戻ります。

 淳仁。やはり絶対的に情報量が少なく、わたしの中で彼の印象は未だに淡いままです。そして、これから保良宮跡を訪ねようとしているにも関わらず、わたしの意識が向いてしまうのはむしろ孝謙、あるいは後に再度即位して称徳となった女性です。彼女は聖武の娘、それも皇后・光明子から生まれた子どもでした。聖武と光明子の間には男子がいたものの夭折してしまいましたし、聖武の別の妃にも男子がいましたが、こちらも成人せずに夭折。後者に関してはおそらく暗殺だったのだろう、とされていますが。
 そして残った皇女の中から、皇后の子どもということで彼女が即位するわけですが、これがまた生涯、夫を持たなかった、と。

 結論から言えば、最終的にはそれまでの天武系ではない天智系の白壁王(のちの光仁天皇)が彼女の後に即位し、その光仁の後は桓武が継承。そして、時代は平安へと流れてゆくわけですけれど、わたしにはさっぱり理解できない女帝・称徳。孝謙ではありません、称徳が理解不能というか不気味なんですね。何を望み、何を欲していたのかすらも手繰りようがない、といいますか。
 例えば聖武の狂気、あるいは弱さはそれでもわたしなりに手繰れるんですね。いや、そうやって手繰ったものの正確性は、まったく別。要するにわたしなりの、手前勝手な解釈という意味で聖武は手繰れます。でも、称徳にはそれも敵いません。

 世間を知らないお嬢ちゃん天皇、とも思い切れず、かといって権力支配の権化とも、また思えず。けれども、彼女のあの実感のない存在感とは何なのだろうか、と。淳仁自体は彼女の毒の巻き添えをくらってしまった存在のように感じられてなりません。
 そしてもう1つ。何かが、...それが何かは判りません。ですが何かが、似ている気がしてならないのです。彼女の祖母の祖母、つまり称徳が玄孫となるあの女帝、そう。鵜野讚良その人に、です。

 鵜野讚良、言うまでもなく持統天皇のことですが、壬申の乱で勝利した大海人皇子の后。そして、亡き父・天智天皇の正統な血脈は自身から、という意図もおそらくはあってのことでしょう。彼女は自身の血脈の継承に、執心しました。あるいは、あまりにも不運だった血脈だからこそ、執心していたように感じられてしまうだけ、なのかも知れません。
 息子・草壁は即位することなく病死。ならばその遺児である文武を即位させんがため、自らが中継ぎ即位もします。やがて文武は即位すれどやはり若くして他界。その遺児・聖武が即位するまでの中継ぎをしたのは文武の母にして草壁の后だった元明と、文武の姉だった元正。ただ、やはり元正は終生独身で、何とかそれでも繋がった血脈は聖武の時代に限界が見え隠れし始めて、と。

 ですが、後世から見た結果はすでに、讃良の時代から見えていたのかもしれません。大化の改新で政治の舞台に踊り出た鎌足。壬申の乱を経ても鎌足とその息子である不比等を重用したのは他でもない讃良自身です。あまつさえ、彼女が造ったわが国最初の都とも言える京に、わざわざその名を冠させたりもしているわけで、それはつまり、いずれ、藤原氏が政治の実権を握り、皇統にすら首を突っ込んでくる処までに増長させたのも、また讃良自身とも言えてしまえる根拠。
 ただ、そうまでして執着した血筋というものを、彼女はどう捉えていたのかな、という点に少し引っかかるものを感じてしまうのも事実です。そして一見、そんな讃良とは正反対の行動をとった印象の称徳とも、両極端すぎて却って相通ずる印象が拭えない、とでもいいましょうか。

 現代の価値観を基点に、当時のことをあれこれ想像してしまうと、難しくなりがちですがあの時代殊、皇族に於いては繰り返される近親婚を背景に、そもそも血脈なんてものにどれほどの正統性なり優位性があったのか個人的にはちょっと疑問なんですね。天皇のご落胤であることは大前提として、父親が同じ以上、そこに上下・優劣をつけるには母親の出自となるのは当然のことで、けれどもその母親の出自だって優位性ということを考えれば必然的により近親になってしまいます。そんなことを繰り返していればまあ、色々と不具合は後の世代に出現しても仕方なし。現代の科学で語るならば劣性遺伝が多くなって遺伝子欠損や異常が増え、そして云々。...こうなりますか。これらの類似例は日本ならずとも世襲を旨とした各国王室の系譜でも多々見られるお話。
 当然、彼らにだって近親婚を繰り返すことの弊害に関する知識はあったはずですし、けれども日本に限らず各国の王室はそれをやめようとはしませんでした。つまり、そうまでしてでも維持し継承しなければならないものである、と自らの血筋を認識していたことになりますね。

 何故でしょう。...本質的に磐石のものならば、人は殊更に正統性など主張しません。必要がないですからね。つまりは、そうまでして維持し、囲い込み、継承し、主張しなければならなかったことこそが、当時の政権なり皇統なりの脆弱さを裏打ちしているわけで、けれどもその事実を、あの時代の天皇・皇族たちが何処まで自覚していたのだろうか、と。
 わたしが彼女達に相通ずると感じているのは、きっとこの自覚があった存在同士、ということなのではないかな、とこうやって書きながら思っています。自覚していたからこそ、必死に守ろうとしていた讃良と、自覚していたからこそなりゆきに任せた称徳。...ちょっと突飛過ぎる考えか、とは承知しているんですけれどね。承知しているんですけれども、要は彼女たちが拒否し、破壊したかったのはそれぞれの時代に存在していた既存の概念・価値観ではないのか、と。

 天武即位によってそれまでの価値観は一変し、天皇制という制度も初めて確立されました。同時に、政教一致の時代にあって政教を最初に、明確に分離し始めたのもまた天武だ、と個人的には思っています。...推古と豊聡耳皇子、という辺りからすでに胎動はしていたのでしょうけれど、きちんと産み落としたのは、と。
 そして、それをより強固な形にしたのが讃良となりますし、少なくともわたしには彼女が世界をそのまま良し、として受け入れたようにもとても思えません。

 時は下って讃良の時代より約60年。天武と讃良によって始まった時代の変革は、当然ですが価値観の進化、あるいは退化を発現させるわけで、今度はその60年間に培われたものを、称徳が拒否し、破壊した。...おそらくはわたし自身が漠然と感じている彼女たちの相似性はこういうことなんだと思います。
 第一、万世一系なんて概念そのものがきっと後世の人間が歴史に触れたことで生み出したもののはず。その時代々々を必死に生きる者たちにはそんな概念、そもそもないでしょうし、あったとしてもとても遠いもの。きっとそうなのでしょう。

 既存の価値観からの脱却を図ったのか、望んだのは破壊か。それとも成り行きに任せることで与えた緩慢的消失か。...判りません。すべてはわたしの
「なんとなくそう感じる」
 という主観から始まっていますから、正当性はもちろん確認する必要性もなし。ただ、白鳳・天平という時代もそうですし、天皇は天武系とした血脈もそうですが、事実として天武と讃良によって始まったものを称徳が終わらせたことは、否定のしようもありません。もっともこれとても、たまたま後世の人間にはそう見えただけであって、それが彼女たちでなければならなかった理由など、きっと存在していないのでしょうけれどね。すべては、巡り合わせ、なのかもしれません。

 お話は逸れてしまいますが、こんなことを人と話したことがあります。つまり、染色体レベルに於いて、雄というのは劣勢であって生物学的には雌の方が圧倒的に強い。これは霊長類ホモサピエンスで見ても、それぞれの平均寿命などで明らかだし、逆にアメーバなどの単細胞生物の社会では、そもそも雄が存在しない。雌だけが分裂し続けることで生殖している。
 だが、1つ言えるのは雌だけの社会では確かに戦争も、何もないだろうが同時にまさしく何もない。進歩も発展もない。永遠に同じであり続けるのみ。すなわち雄とは変数因子なのだ、と。変数によって退化も起こるし、壊滅的な打撃をうけることもある。それこそ絶滅の危機に瀕するような事態も招きかねない。...けれども、上昇もある、発展もある。それまでとはまったく違う形への進化もある、と。
「ああそうか。変数、だ...」
 約1kmの道のり、その終点近くで辿り着いた思い。それは、わたしが讃良と称徳の中に見ていながら、皇極・斉明・元明・元正・孝謙といった天平期の前後100年に在位していた女帝たちに感じられないものの名前でした。変数、と。...もちろん、感覚的に、という意味であって生物学的に云々、ということではなく、です。

 快晴の晩春、その真昼。住宅街は静かで穏やかな光の中、側溝を流れる水の音だけを反響させます。さっき、Uターンしたロータリー状のバス停には、発車待ちをしていたはずのバスがもうなく、代わって次のバスを待っている地元の方たちが数人。
「あの、保良宮跡を探しているんですが...」
「...え、何」
「保良宮跡です」
「知らんなあ。そこ何ですの」
「天平期の離宮跡みたいにところで、でも遺跡ではなくて、ただ礎石だけが発見されていて、確かへそ石って...」
「ああ、石か。石ならほら、そこ」
「えっ」
 地元の方が指差してくださっている方を見るも、目に映るのは普通のお宅の家屋のみ。
「...ええっと、何処ですか」
 きょとんとした顔で振り返るわたしに、地元の方はまた同じことを言います。それも、複数の方が口々に。
「そこだよ、そこ。お姉さんのすぐ後ろ」
「そこんちの門のとこさ」

                 

 すぐ後ろ、門のとこ。軽く混乱している頭のまま振り返ると、確かに白壁のお宅の門扉の角にポールとブロックで囲まれた、ほんの半畳もないような一画。囲いの中は細かな砂利が敷かれ、小ぶりな庭木と立て札、そして地面から突き出た石が1つ。

 宮柱太しくありしかけふ時を太しくあれる御石が霊ぞ  遼川るか
 (於:ほらの前の礎石)


 ...いや、決してこれまでに見てきた礎石と比べて小さいとか、みすぼらしい、というのではありません。そういう意味ではむしろ綺麗なくらいなのですが、こんな住宅街のど真ん中の、それも民家の一画とも感じられる場所に、皇宮の礎石がある、という事実がわたしの中のこれまでとは違いすぎて、しばし唖然としてしまっていました。

| この石は、その大きさから塔の心柱を支える礎石ではないか、と言われています。
|しかし、あまりにも巨大であるため、はたして実際に使われたかどうか疑問があり
|ます。ここに寺があったことわ証明するものが、何もないからです。
| 奈良時代、この地周辺は、国昌寺や国分寺また、淳仁天皇の保良宮等があった場所
|でもあり、そのどれにあたるのかは断定できません。
| このように不明な点も多いですが堂々たる礎石の姿はみごとで、この地の歴史を
|語るうえにおいて見逃すことのできない存在です。
          大津教育委員会「ほらの前の礎石(通称へそ石)」の看板より転載


  

 解説文を読んで、やはり大津市さんのこういう姿勢は共感できるな、と嬉しくなってしまいました。殊更、喧伝するわけでもなく、ただ事実だけを連ねるだけでもなく。でも、その史跡に対してとても体温をもって接していらっしゃる雰囲気が、わたしには安心できるのでしょうね。
 しかし、どう見ても元々は民家の一画だったように感じるのですが、あとから市が買い上げたのでしょうか。それとも宅地造成中に見つかったこのへそ石を保存するため、その造成時に買い上げたのか。...いやはや、つい下世話なことを考えてしまいました、ごめんなさい。

 廃帝・淳仁、そして称徳。沈みゆく天平という落日の中にあって、でもそれを知らずに生きた者たち。人の世は留まることなくただ移ろうばかりで、過ぎてしまえばすべては等しく風と土の中。明かすものは何もなく、そもそも明かす、という行為も恐らくは過ぎてしまえば大した意味も持たなくなる。それがその時々を生きる人々が負い続ける唯一の標としたなら、今こうして生きているわたしもまた、今を過ぎれば意味が薄れるのだ、と。今という微分に於いては、ですが。
 明かすことよりも、ただ在ることを。だからわたしは古歌紀行を。ただ紀行文を、書き続けるのでしょう。

 無きものは無きゆゑに在り在りゐては在るがまにまにその在るものを  遼川るか
 (於:ほらの前の礎石)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 へそ石に添えられていた看板にも書かれていましたが、近江国分寺は、保良宮跡と同じ界隈に在った、とされているのが定説です。わたし自身は訪ねていませんが、地元の晴嵐小学校の校庭には、近江国分寺の碑も建っている、といいます。ですが、それはあくまでも第三次近江国分寺のことであって、昨秋からわたしが探しているのはそこではありません。
 近江国分寺。果たして21世紀の現代にそれ、と指定・定説化されているからといって、それが当時、本当に近江国分寺であったのかはわたしは知りません。そして、何が何でも白黒つけて知りたい、とも思っていません。そんなわたしが現時点で捉えている近江国分寺とは第一次から第三次まで、3箇所に在ったのであろう、ということで第一次は昨秋、訪ねた紫香楽宮跡。あそここそが実は宮跡ではなく、第一次近江国分寺であったのだろう、とされています。そして紫香楽宮は北へもう1kmほどいった処なのだ、と。

 第一次近江国分寺、近江甲賀寺と呼ばれているようですがともあれそこが第一次。一方、先述している第三次は瀬田川西岸、近江国昌寺と呼ばれているらしくここの跡地と目されている場所に碑が建っているわけですね。
 この第三次近江国分寺に関しては源平盛衰記の記述の中に何度も登場しています。

|彼粟田口、両葉山、四宮河原を打過て、影も涼しき会坂の、関の清水を過越て、粟津の
|浦にぞ出給。漫々たる海上に、山田、矢橋の渡舟、漕わかれける形勢も、渺々たる浦路
|の、志賀坂本に立煙、空に消ゆく景気まで、我身の上とぞ思召。無動寺の御本坊、根本
|中堂の杉の本、遥に顧給て、御名残こそ惜かりけめ。汀に遊鴎鳥、群居て思やなかる
|らん、唐崎の一松、友なき事をや歎らん。此れを見彼れを見給ても、唯香染の御衣を
|ぞ被絞ける。角て暫く粟津の国分寺の毘沙門洞に立入給へり。
                        「源平盛衰記 巻5 山門奏状事」

|範頼は勢多の手に向給たりけれ共、橋は引れぬ底は深し、渡べき様なければ、稲毛三
|郎重成、榛谷四郎重朝を先として、田上の貢御瀬を渡しつゝ、石山通に攻上、今井四
|郎兼平、五百余騎にて国分寺の毘沙門堂に陣を取たりけるが、出合防戦けり。
                        「源平盛衰記 巻35 粟津合戦事」


 キーワードとなる地名・粟津、そして石山通を攻め上がり、とありますからまさしく第三次国分寺の場所。晴嵐小学校敷地内の碑は、これらも含めた根拠ゆえのものなのでしょう。...但し、ここではあえて源平盛衰記そのものの信憑性や成立年代に関しては不問としていますが。
 第一次の紫香楽は「さゝなみのしがゆ」でかなり詳細に書きましたが、要するに火災によってあの一帯は放棄されてしまったわけで、宮もその後、平城へ戻っていますし当然ですが、国分寺もまた移設されたのであろう、と。

 ただ、どうもそれだけでは片付けられないのが、瀬田川東岸の野畑遺跡から出土した
「国分僧寺」
 と書かれた墨書土器です。甲賀でもなく、石山でもない地に国分寺縁のものが眠っていたわけですけれども、そこからは名神高速道路の建設に伴う発掘で奈良〜平安期にかけての遺物も多く出土。寺院跡も発掘されていましたから、その寺院跡。すなわち瀬田廃寺跡が、甲賀から遷移された第二次国分寺であったのだろう、と。...そして、その後に何らかの理由により瀬田川西岸の石山の地へ、もう一度、遷移された、と考えられている近江国分寺。

 わたし自身は資料そのものを入手あるいは、図書館で確認することができませんでしたので孫引きになってしまいますが、日本略記には

|国分僧寺延暦四年火災焼尽
                            「日本略記 弘仁11年」
            ※Webサイト「がらくた置き場」さんよりの孫引きです。


 と記述されているらしきことは聞き及んでいます。それゆえの対岸への遷移、ということでしょうか。いずれにせよ昨秋、訪ねた近江国庁址との位置関係からしても、やはり訪ねてみたく、けれども半年前はついぞ見つけられなかったことから、改めて今日、チャレンジです。第二次近江国分寺址にして瀬田廃寺跡へ向かいます。

                 

 再び瀬田の唐橋を渡ります。今度は半年前と同じ方向へ。
「...しかし、探すといっても半年前、あれだけしらみつぶしに探しても見つからなかったものを今回どうやって」
 何となく独り言が洩れました。そもそも、そうまでしてでも
「探したい」
 と思えるほど記紀万葉に関連する史跡でもなし。もうこうなってくると半ば意地、なのかも知れません。野畑遺跡まで辿り着けていながら、そのごく近くにあるはずの史跡に届かなかった指。
 いや、届かなかったのは指でも、存在でもなく、気持ちでしょうね。それだからこそ、余計に意地を張りたいかも知れません。

 まずは昨秋、探した周辺一帯を車に乗ったまま流します。...やはりそれらしきものは影も形もないわけで、けれどもWeb上などで見た瀬田廃寺跡の画像。あれらに偽りがあるはずはなし。何処か、何処かで洩らしているはずなのです。でも、それが一体何処なのかはさっぱり見当もつきませんが。
 時間的な余裕はそこそこあります。だって悔しいじゃないですか。そもそも今回の近江再訪は、きっかけこそ仕事絡みの偶然だったとはいえ、やるからにはテーマは拾遺。それも前回、自身の精神的な隙間から零れ落ちてしまった箇所ばかりです。もっと厳密に言うならば、日和った場所ばかり。...流石にまた、日和るわけにはゆきません。

 そんなこんなで、もはやいつもの古歌紀行とは、凡そ異なった様相を呈しつつも、あっちへこっちへと走り回ること数10分。気づけば自分が何処を走っているのかも判らなくなっていて挙句、絶対にこっちのはずがない、と判りきっているのに何故か、ごく近くを走る名神高速道路を高架で超えてしまい...。
 何とか高速の向こう側へ戻ろうにも、高架の橋はどんどん背後に遠ざかるわ、すぐ後ろを走る後続車から煽られるわで、もはや勘だけで路地をあちこち曲がっているうちに、明らかに自分が高台の上へ登り始めてしまっていることに気づきました。







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