野畑遺跡はこの高台の下。どんどん推測地点から離れていってしまうわけで、高台を降りようか、高速の反対側へ行こうか、などと考えながらまたぐちゃぐちゃ曲がれば、ふいに目の前に高架の橋。これで何とか高速は越せそうです。
「あとはこの高台を降りて...」
 独り言を呟きながら橋を渡りきり、坂を下るためにハンドルを右に切ろうとした瞬間です。橋を渡ってきた自分の目の前にすこんとした空間が広がっていて、しかもそこにはかなり大きな石碑。それだけじゃありません。なにやら看板も立っているような...。慌ててブレーキを踏みました。車を路肩に止めて、降りてみます。最初に確かめたのは立てられていた看板。曰く
「瀬田廃寺(桑畑廃寺)」

 正直、嬉しいというよりは率直に腹が立っていました。もちろん自分自身に、です。いや、つまり本当に野畑遺跡のごく近くなんですよ。それも隣り合っている、といってしまっていいほどの距離圏内。但し、元々が丘陵状の土地を階段状に拓いたからなのか、野畑遺跡と瀬田廃寺跡は地図上ではほぼ隣り合っていても、野畑遺跡側からでは判らないんですね。目の前に数mの段差が聳えていて。・・・通りで、あれほど探しても見つからなかったわけです。けれども同時に、どうしてこの段差の先にまで頭が回らなかったのか、と。
 半ば意地で探し、ようやく見つけられてもそれは怪我の功名といいますか、迷った末の偶然。迷わなかったらまたわたしは、段差の上にまで気持ちが行くことなく、空振りのまま次の目的地へと向かっていたのでしょうね。いやはや、何とも...。

     

 瀬田廃寺。こう言ってしまっては難ですが、詳しい史実はよく判りません。ただ、紫香楽宮の放棄の後の時期から、平安初期までここがまぎれもなく近江国分寺であったわけで、であるならば聖武の迷走と、孝謙と仲麻呂の蜜月、その仲麻呂の最期と滅びゆく天平、そして平城より長岡への遷都に至るまで。この地にあったという寺は、歴史を見つめ続けたのでしょう。
 日本略記の記述を信じるのならば延暦4年とは784年のことですから、まさしく長岡遷都のその年です。すでに聖武も称徳も、その後を継いだ光仁も没し、時代の天皇は桓武となっていました。

 これまでに訪ねた多くの地で滅び行く天平に触れました。なので、何もいまさらこんな感傷に襲われてしまうこと自体が不思議ですし、可笑しいですし。けれども、初夏の風吹く高台の上、すぐ隣を高速道路が走っているという状況にも関わらず、世界から音が消えてゆくような錯覚に見舞われていました。
 時代に挑むもの、抗うもの、受け入れるもの、流れるもの。変わりゆくものとそれでも変わらないものと、それらすべてを内包して、ただ時間だけが雪のように降り積もります。そして融けることなく堆積し、けれどもそれはまるで海底の砂のように、手を伸ばすとさらさらと逃げ、触れがたく、捉えどころなく...。

|題詞:大宰帥大伴卿、冬の日に雪を見て京を憶ふ歌一首
|沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも
                       大宰帥大伴卿「万葉集 巻8-1639」


 凡そ今この状況とは無関係なのに、なぜか思い出してしまった旅人の1首です。理由なんて判りませんが。

 み雪降るごとく降りつつあるは時
 ごとく降りゆくものも時
 いにしへいづへ
 いまいづへ
 あしたいづへに在るものか
 また無きものか
 みなひとの知らで
 知らむを欲りもせず
 なほしゆくなへ
 くるなへに
 春に花受く
 夏に風
 秋に紅葉のさにつらふ色またも受く
 冬に雪
 時降るごとく天降りては
 天つみ空ゆ降り降りて
 地に舞ひ落つ
 しがのちに
 消ぬるものこそ時ならめ
 時のごとくに降り降るは
 みなひとのうら
 しがならむ
 なれば降り降れ
 降るほどになほし古り古れ
 ゆくなへに
 なほくるなへにみなひとの知るは違はず
 いかへるてふを

 祈ひ祷むはいかへらるてふ違はずにみなひともろとも違はざる倖  遼川るか
 (於:瀬田廃寺跡)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 琵琶湖に架かる2つの大橋。近江大橋と琵琶湖大橋ですが、ここからはその2つの橋のお世話になりながら一気に宿題を片付けてゆきましょう。まずは近江大橋を通過して琵琶湖西岸へ。訪問先はやはり半年前、車を止める場所が見つからなくて直前で引き返してしまった地。...はい、小野妹子の墓、唐臼山古墳です。現在は小野妹子公園、として整備されている、とのことですが。
 瀬田の廃寺とは違い、今度は場所もしっかり判っていますから何ら迷うことなし。琵琶湖西岸をドライブしながら北上します。車の窓を開け放ち、恐らくは琵琶湖1周サイクリングの最中であろう、外国人カップルを信号のたびに抜きつ、抜かれつ。流石に道路は渋滞気味です。

 妹子については、すでに「さゝなみのしがゆ」であれこれ書いているので、ここでは特に何かを書こうとも思っていませんが、ただこの半年の間に、1つ関連してあったのは妹子の子孫である小野篁が一時期流されていた、隠岐を訪ねたこと。...といって、隠岐でもわたしの興味の中心はやはり上代であり、そこから若干逸れる篁については、あまり深くは考えも、感じもしなかったのですけれどね。
 ただ、日本と大陸、あるいは半島という距離感や、何かを越えてしまう恐怖のようなものは確かに感じられて、それをあの時代に果たした妹子の強さは、しみじみと感じられたものです。あるいは、あれを怖い、と感じることこそが、現代人のゆえの弱さ、なのかも知れませんが。恐怖の概念や範疇とてまた、現代とは違っていたのやも知れず。

 科学や文明の発達とともに、時間という断層を飛び越えてゆく霊長類ホモサピエンス。それが齎すものの行く末は知りませんが、わたしたちは常に過去の誰かが勝ち取ったものを譲り受け、生きています。高速の乗り物も、世界の地図も、記紀万葉風土記もすべてすべてが委譲されたものであり、同時に委譲あるいはより進化させたうえで委譲すべきもの。
 ならば今、この琵琶湖から吹き寄せる風を爽やかだ、と感じているのは本当にわたしなのでしょうか。あるいは、過去の何処かで初めてそう感じた人が、初夏の風は爽やかである、という公式を残し、それが連綿と受け継がれているだけなのではないでしょうか。もし、最初の人がそれを切ない、と感じていたならば...。果たして現代のわたしたちは、それでもなお初夏の風は爽やかだ、と感じられていたのか。

 あれ問はむ
 問はまくほしき
 あれぞたれ
 あれあれなるもあれならず
 あれあらずともあれなれば
 あれの沁むてふうらぞたれ
 たがうらなるや
 うましものうましけれども
 うましてふ沁みゐるうらの
 座いづへ
 いにしへびとら謡ひしは
 うらのまにまに
 言霊のまにまに謡ひ
 あれ知るは
 あれたれなるか
 あれぞたれ
 あれいにしへの言霊なむ
 みなひとおなじ
 いにしへの言霊なるを
 あれのけふ知る

 いにしへゆみなひと来たりみなひとは継ぎてつぎゆきいのちをうけふ  遼川るか
 (於:琵琶湖湖畔国道161号途上)


 古歌紀行をやり続けていると、時々こういう混乱に襲われます。様式の踏襲という安心と、それに対する破壊衝動と。いにしえに触れれば触れるほど逆に、現代が判らなくなりそうで、個人的には温故知新というは如何なものか、と思ってもしまいますが。あるいは、そういう部分に疑問を持てることこそが新しきを知る、ということなのかも知れません。
 世間的なイメージではこの爽やかな季節には不釣合いとされるであろう愚考を、また寄りによって湖畔、というシチュエーションで脳内展開している自身が、何とも胡乱といいますか剣呑といいますか。反骨精神から
「野狂」
 と異名をとった小野篁に、少し当てられたのかもしれません。

 そろそろ渋滞を抜け、半ば伴走状態だった外国人カップルを追い越します。やがて現れた琵琶湖大橋へと続く国道477号を横断すれば、右手に広がる琵琶湖はその表情を変えます。いかな沿岸部とはいえさすがに運転しながらは目視できませんけれど、それでも判ります。
 琵琶湖の一番くびれた部分に架かっている琵琶湖大橋。それより北側は、まさしく琵琶湖が琵琶湖たる大きさで横たわり、その一気に広がった湖面を反射する太陽光で、周囲の明るさが変わるのです。だから、見えなくとも判るんですね。この明るさこそがさゝなみのしが。されどその明るさゆえに、落ちる影もなお一層色濃い国。
 半年前に迷いに迷った住宅街・びわこローズタウンが見えてきました。

 まそ鏡見ざれど沁むるかはべこそ知りゐてをらめ
 ひかりのうらも影のうらとて           遼川るか
 (於:びわこローズタウン)


 前回、雨が降り出したことと、駐車する場所が見つけられなかったことも手伝って、
「ここはいいや...」
 と放棄してしまった訪問地です。けれども、そういう精神状態になるくらいには散々迷い、車が停められそうな場所を探しもしましたから、流石に今回はダイレクトに目的地へ向かい、予定していた場所に車もしっかり停められました。比叡の山々から琵琶湖へと向かう傾斜面の裾野近くに拓かれたびわこローズタウンの中腹辺りにあるこんもり繁った緑の一画。今でこそ小野妹子公園とされていますが、本来は唐臼山古墳、と呼ぶべき地です。...といって果たして本当に、ここの被葬者が妹子なのか、という点はお話が別となりますけれども。

 

 車から降り、古墳を登れるところまで登ります。古墳の周りをぐるり囲むように造られている側溝を跨ぎ、どうやら正面らしき場所に足を踏み入れると、出迎えてくれたのは鳥居と小野妹子神社、とある碑。そういえば半年前、わたしが訪ねたのは小野神社と小野篁神社で、小野妹子神社は場所がよく判らないし、墓所の方に惹かれるから、と最初に訪問候補地から外してしまったのを思い出しました。
 ...なるほど、小野妹子神社はそのまま妹子の墓所でもある、ということですね。これは嬉しい誤算です。

 鳥居を潜り、進む石段。どうやらここが整備されたのは比較的、最近のことなのでしょう。足場もしっかりしていますし、とにかく綺麗な古墳だと感じられましたから。それからもう1つ。元々が傾斜地にある古墳をより低い側から眺めていたゆえの錯覚からか、実際に登ってみるとさほど高くない、小ぶりな円墳であることにも気づきました。
 ...いや、もちろんかつての大きさは判りません。周辺の住宅地までも含む大古墳だった可能性はあるわけで、ですが宅地造成によってここだけが古墳として残されているのかも知れず。あくまでも今わたしが登っている現存古墳部については、となりますが。

 登った先にあったのは拓けた広場のような場所。そしてその奥には鳥居と祠と。鳥居に添えられた笹、祠に供えられた榊、いずれも氏子さんか、地元の方か、が頻繁にお手入れをされているからでしょう。あまり注視していませんでしたが案外、周辺のお宅の表札に何件かは
「小野」
 とあるかも知れませんね。鳥居や祠それぞれに書き添えられている奉納の年を見ても、やはりかなり新しく、どうやら宅地造成時に分譲地の一画をこういう形で残し、ある種の地鎮といいますか、そういう意味で整備されたのだろう、と推測するのが自然な気がします。

         

 まずは手を合わせて、参拝。本当に小ぶりで可愛らしい祠に向けて、いつも通りに祈り、鳥居の外に出ると、反対側が琵琶湖方面に向けて、まるで展望台のように眺めがいいことに気づきました。なるほど、古墳の頂上部へ向かう形で祠があるのですから、反対側は琵琶湖となりますね。
 4月末日、空は晴れ。小野妹子公園から眺めると最初に視界に飛び込んできたのは、近江富士。...はい、三上山です。半年前は三上山と同じく湖東側から眺めた山影はしっかり覚えているのですが、万葉期に一番多く眺められていたであろう姿は湖西側からのもの。そういう意味では今、眺めているこの稜線こそが、万葉の人々が眺めたものとに等しい、ということになるのではないでしょうか。

 ...確かに。確かに一際、眼をひく姿です。独立峰であることはすでに知識としてもっていますが、こうやって見ると同方向の稜線はすべて重なって見えるために、独立峰か否かまでは、よく判りません。そう、例えば実際は別の光年の星たちなのに、地球から見ると同方向なので星座が描けてしまうのと、よく似ています。けれども、そういう視界にあってもやはり、そのすっくりと立つ山容はなるほど、山岳信仰を喚起しても不思議ではないでしょう。
 今日の最終訪問地はあの山の麓。そう思うと、改めて琵琶湖の巨大さを実感します。湖上を横断する大橋をゆけば、恐らくは大した時間も掛からずにあそこまでゆけるはず。なのに、視界に鎮座する三上山の小ささが...。それだけじゃないですね。もう1つ改めて実感できるのが、現代人が超えてしまった時間の壁、でしょうか。

  

 お話は大きく逸れますが、つい最近やっと何とか理解できたものがあります。それは時間という壁。いや、違いますね。厳密には時間という壁を超えている、という現代における事実たちです
 正直、こんな年になってから気づくなくて中々噴飯物なのでしょうけれど、例えば乗り物によって本来ならもっともっと移動に時間が掛かる場所へ、速く着く。これは、こことそことの間に横たわっていた距離の壁ともう1つ、時間の壁を超えているということなのだ、と。

 ただ、現代人が超えられる時間の壁は精々数日から数ヶ月程度のもので、だからそれを超えた前後にあまり大きな支障はきたさないでしょうけれど、これが数十年単位で超えてしまったならば...。はい、SFの世界では定番となりつつあるウラシマ効果ですし、それの立脚点となっているものがアインシュタインの相対性理論、となりますか。
 鈍感なわたしには、徒歩ならば1時間かかる移動を、車で10分で済ませた場合、時間の壁を超えているという実感がなかったんですね。ただ、距離の壁だけ、としか。...距離は視覚的に捉えられますけれど時間、それも数時間単位の短いものは視覚的には捉えられませんから、判っていなかったのではないか、と。

 でもそうじゃないですね。同じことを移動に数年を要する場所で再現すれば、確実に時間の壁を超えていることになりますし、つまりはわたしたちの前に横たわっているのは距離だではなくてもう1つ、時間もあるのだ、と。でも、そう悟った時に襲われた衝撃は中々へビィでした。何故ならば、現代人のわたしたちは、万葉期に数ヶ月掛かった移動をほんの数時間でこなし、数ヶ月掛かったものを1日、2日で済ませてしまいます。
 例えば妹子が何度も派遣された隋や唐。大和からではどれだけの時間を要したのか。

|秋七月の戊申の朔、庚戌に、大礼小野妹子を大唐に遣す。
            「日本書紀 巻22 推古天皇 推古15年(607年)7月3日」
|十六年の夏四月に、小野臣妹子、大唐より至る。
              「日本書紀 巻22 推古天皇 推古16年(608年)4月」
|則ち復小野妹子臣を以て大使とす。
            「日本書紀 巻22 推古天皇 推古16年(608年)9月5日」
|秋九月に、小野臣妹子等、大唐より至る。
               「日本書紀 巻22 推古天皇 推古17年(609年)9月」


 日本書紀に残る記述からでは、出発した時と還ってきた時しか判りませんので、隋での滞在期間も含めて往復で最短9ヶ月くらい、としか計算できません。...移動に要する時間、割り出せないんですね。ですが、少なくとも現代に於いて奈良辺りから中国、陝西省の西安(かつての長安)までの移動は、奈良から大阪か京都、名古屋経由で成田までゆき、成田から約4時間のフライトで現地着。但し、時差1時間があるので現地到着時間と、フライト時間は単純計算してはならないですが。ともあれ、そうやって計算すると大体、8〜10時間以下で移動できることになります。
 ですが、やはり妹子の時代にそんなことが可能だったはずもなし。その時間なら、大和から難波での出航くらいで終わってしまうのではないか、と。

 こう考えてゆくと恐ろしいことに、実は現代人は時間に追われているようでその実、時間という概念から遠ざかってしまっているのではないか、とふいに感じてしまいました。だってそうでしょう。万葉期、すでに人々は浦島伝説を日本書紀や丹後風土記にちゃんと残し、あまつさえそれを題材に高橋蟲麻呂は万葉歌まで謡っているのです。

|題詞:水江の浦嶋の子を詠む一首(短歌を并せたり)
|春の日の 霞める時に
|住吉の 岸に出で居て
|釣舟の とをらふ見れば
|いにしへの ことぞ思ほゆる
|水江の 浦島の子が
|鰹釣り 鯛釣りほこり
|七日まで 家にも来ずて
|海境を 過ぎて漕ぎ行くに
|海神の 神の娘子に
|たまさかに い漕ぎ向ひ
|相とぶらひ 言成りしかば
|かき結び 常世に至り
|海神の 神の宮の
|内のへの 妙なる殿に
|たづさはり ふたり入り居て
|老いもせず 死にもせずして
|長き世に ありけるものを
|世間の 愚か人の
|我妹子に 告りて語らく
|しましくは 家に帰りて
|父母に 事も告らひ
|明日のごと 我れは来なむと
|言ひければ 妹が言へらく
|常世辺に また帰り来て
|今のごと 逢はむとならば
|この櫛笥 開くなゆめと
|そこらくに 堅めし言を
|住吉に 帰り来りて
|家見れど 家も見かねて
|里見れど 里も見かねて
|あやしみと そこに思はく
|家ゆ出でて 三年の間に
|垣もなく 家失せめやと
|この箱を 開きて見てば
|もとのごと 家はあらむと
|玉櫛笥 少し開くに
|白雲の 箱より出でて
|常世辺に たなびきぬれば
|立ち走り 叫び袖振り
|こいまろび 足ずりしつつ
|たちまちに 心消失せぬ
|若くありし 肌も皺みぬ
|黒くありし 髪も白けぬ
|ゆなゆなは 息さへ絶えて
|後つひに 命死にける
|水江の 浦島の子が
|家ところ見ゆ
           高橋連蟲麻呂「万葉集 巻9-1740」 高橋連蟲麻呂歌集より撰
|題詞:水江の浦嶋の子を詠む一首(短歌を并せたり) 反歌
|常世辺に住むべきものを剣大刀汝が心からおそやこの君
           高橋連蟲麻呂「万葉集 巻9-1741」 高橋連蟲麻呂歌集より撰







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