美濃。中でも当時は安八磨と呼ばれた地(現代の安八郡界隈)は、大海人の私領として朝廷から与えられていた地です。また、美濃にしても、尾張にしても同じですが、要は地理的に近江から見て、東国へと抜ける要衝の向こうなんですね。つまり、不破道の向こう側の美濃、そして鈴鹿関の向こう側の尾張。
 後に、3関と呼ばれるようになった交通の要衝。それは北陸道の愛発関、東海道の鈴鹿関、そして東山道の不破関、となるのですが不破道というのは関が置かれる以前の呼び名でしょうね。...すなわち、越前にある愛発はともかくとしても残る鈴鹿と不破。この2ヵ所を抑えてしまえば、大海人たちは袋のネズミ。

 こういう意図、あるいは戦略があったとしても不思議ではないでしょう。これ以外で東国へ抜けるには、もう若狭や越前方面から北陸経由でゆくしかありませんからね。まさしく愛発のを越える、ということになるのでしょうか。けれども、流石にそこまでの迂回は、もう迂回という範疇ではないですし第一、それには大津を通過することが不可欠(北陸道は湖西から北陸へと抜ける街道)。
 はい。もし、もし本当に大友側に大海人掃討の意思があったならば、天智の御陵造成を名目に美濃と尾張を監視下に入れるのは定石中の定石と言った処でしょう。戦略の基本は先ず、敵の退路を断ち、自らの退路を確保することですから。

 ただこれがもし、記紀にありがちな捏造や歪曲による正当化のもとに記されたものだとしたならば。...少なくとも人夫をどの土地から徴発するのかはともかくとしても、武器を持っていた云々というのは、どうなのかな、とも思えなくはありません。
 あるいは、前述している俗説・唐による傀儡政権化であったならば、取り敢えず辻褄は合いますけれどもね。

 ともあれ挙兵を決意したものの、武器もなければ、兵もいない。それどころか逃走するための足となる馬もなく挙句、下手をすると食糧確保すらも危うくなりかねない状況下で、大海人が選択した戦略。それはやはり、朝廷の支配力があまり強くなく、同時に自身の私領も存在する東国方面への逃亡でした。

| 六月の辛酉の朔壬午に、村國連男依・和珥臣君手・身毛君広に詔して曰はく
|「今聞、近江朝庭の臣等、朕が為に害はむことを謀る。是を以て、汝等三人、急に美濃国に往
|りて、安八磨郡の湯沐令多臣品治に告げて、機要を宣ひ示して、先づ当郡の兵を発せ。仍、
|国司等に経れて、諸軍を差し発して、急に不破道を塞げ。朕、今発路たむ」
| とのたまふ。
| 甲申に、東に入らむとす。時に一の臣有りて、奏して曰さく
|「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を害らむ。則ち道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵
|無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣恐るらくは、事の就らざらむことを」
| とまうす。天皇、従ひて、男依等を返し召さむと思欲す。即ち大分君惠尺・黄書造大伴・逢
|臣志摩を留守司高阪王のもとに遣はして、駅鈴を乞はしめたまふ。因りて惠尺等に謂りて
|曰はく
|「若し鈴を得ずは、廼ち志摩は還りて覆奏せ。惠尺は馳せて、近江に往きて、高市皇子・大津
|皇子を喚して、伊勢に逢へ」
| とのたまふ。既にして惠尺等、留守司のもとに至りて、東宮の命を挙げて、駅鈴を高阪王
|に乞ふ。然るに聴さず。時に惠尺、近江に往く。志摩は乃ち還りて、復奏して曰さく
|「鈴を得ず」
| とまうす。
                  「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)6月」


 

 不破道。後に関所が設けられたこの道は本当に、日本という国の天下分け目の舞台となります。そう、不破道とは所謂、関が原界隈を通る東山道の要衝です。本州が最も細く括れた地理、しかも両側に山が聳えている為に、迂回のしようがありません。そういう意味では天然の要塞の中に、唯一存在した、同じく天然の直通路。そんな風情なのでしょう。
 大海人の描いた戦略は非常に判り易いものでした。

 1) とにかく不破道を越えて身の安全を図ること。そしてできれば、本陣も不破より東に置
   くこと
 2) その不破道を封鎖して、近江勢の東国入りを阻止すること
 3) 不破道の先にある私領で徴兵すること
 4) 近江に残っている高市・大津の両皇子に大津を脱出させて合流すること

 この基本路線に沿って、大海人に従っていた臣下たちが各地へ飛びます。美濃への急使となった者、高市・大津への使者となった者、移動用の交通手段として駅馬を利用するために、駅鈴を手に入れにいった者。

 蛇足ながら当時は、街道沿いに駅が設けられていました。そして、その駅と駅の間の役人用乗り物として駅馬が整備されていたんですね。また、その駅馬を使用できる身分証明にも匹敵したものが駅鈴です。これがあれば、駅ごとに新しい馬が得られるわけで、吉野にいた大海人たちにとっては、大和で駅鈴を入手しなければならなかった次第。
 余談になりますが、この駅鈴。唯一、現存しているものが隠岐国にあります。島根県から約60kmも沖合いの日本海にある、隠岐群島。そこで今なお1000年以上も昔の鈴が安置されているのを、わたし自身もこの目で見てきています。

 お話を戻します。さて、一方この時、新都・大津に対して旧都・大和を統治していたのが高坂王です。王、とあるのですから皇族出身であることは間違いないのですが、詳細は不明。そして彼は、大海人の使者たちに駅鈴を渡しませんでした。...が、同時に使者たちを捕らえることもまた、しなかったんですね。
 個人的にはこの高坂王。なかなか要領のいい、老獪なタイプに感じられるのですが、実際はどちらに与していいのか迷っていただけなのかもしれません。だからでしょうか。壬申の乱に於いて最初こそ大友側で戦った高坂王は、後に大海人側にて戦うようになります。

| 是の日に、途発ちて東国に入りたまふ。事急にして、駕を待たずして行く。に縣犬養連
|大伴の鞍馬に遇ひ、因りて御駕す。乃ち皇后は、輿に載せて従せしむ。津振川に逮りて、車
|駕始めて至れり。便ち乗す。是の時に、元より従へる者、草壁皇子・忍壁皇子、及び舍人朴井
|連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百P・書首根摩呂・書直智コ・
|山背直小林・山背部小田・安斗連智コ・調首淡海之類、二十有余人、女孺十有余人なり。即日
|に、菟田の吾城に到る。大伴連馬来田・黄書造大伴、吉野宮より追ひて至けり。此の時に、屯
|田司の舍人土師連馬手、従駕者の食を供る。甘羅村を過ぎ、猟者二十余人有り。大伴朴本連
|大国、猟者の首たり。則ち悉に喚して従駕らしむ。亦美濃王を徴す。乃ち参赴りて従る。湯
|沐の米を運ぶ伊勢国の駄馬五十匹、菟田郡家の頭に遇ひぬ。仍りて皆米を棄てて、歩者を
|乗らしむ。大野に到りて日落れぬ。山暗くして進行すること能はず。則ち当邑の家の籬を
|壊ち取りて燭とす。夜半に及りて、隠郡に到りて、隠駅家を焚く。因りて唱そて曰はく、
|「天皇、東国に入ります。故、人夫諸参赴」
| といふ。然るに一人も来肯へず。河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天
|に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて、占ひて曰はく、
|「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」
| とのたまふ。即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当
|国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる。会明に、荻野に至りて、暫く駕を停めて進食す。
|積殖の山口に到りて、高市皇子、鹿深より越えて遇へり。民直大火・赤染造コ足・大蔵直広
|隅・阪上直国麻呂・古市黒麻呂・竹田大コ・胆香瓦臣安倍、従なり。大山を越えて、伊勢の鈴
|鹿に至る。爰に国司守三宅連石床・介三輪君子首、及び湯沐令田中臣足麻呂・高田首新家等、
|鈴鹿郡に参遇へり。則ち且、五百軍を発して、鈴鹿山道を塞へむとす。川曲の阪下に到りて、
|日暮れぬ。皇后の疲れたまふを以て、暫く輿を留めて息む。然るに夜りて雨ふらむとす。
|淹息むこと得ずして進行す。是に、寒くして雷なり雨ふること已甚し。駕に従ふ者、衣裳湿
|れて、寒きに堪へず。乃ち三重郡に到りて、屋一間を焚きて、寒いたる者をめしむ。是の
|夜半に、鈴鹿関司、使を遣して奏して言さく、
|「山郡王・石川王・並に来帰れり。故、関に置らしむ」
| とまうす。天皇、便ち路直益人を使して徴さしむ。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)6月」


 大海人たちの進路は、吉野→津風呂→阿騎→大宇陀→榛原→室生、と現在の国道370号沿いに近いものだったようです。ですが、この辺りの記述は何とコメントしていいのか...、といった印象ですね。
 無い無い尽くしの一行は大海人と后・讃良、皇子の草壁と忍壁に臣下が20人くらい、後は女性の従者が10人ほど。大海人当人も徒歩ですし、讃良だけは輿に乗っていたようではありますが、この当時の人が担ぐ輿など却って乗り心地は酷いものだっただろう、と率直に感じます。

 休息する地で、兵を募りますが芳しい成果はなし。やがて日が暮れてしまえば、明かりをとるために手近な垣や建物を焼き、米を運んでいる駄馬をみつけると米を捨てさせてその馬に徒歩だったものを乗せる、といった有様。
 ...私見で恐縮ですが、これをどう捉えていいのかかなり迷います。即位した後に、彼がこんな歌を詠んで苦しかった当時を振り返るのも、確かにな、と頷けてしまいます。

|み吉野の 耳我の嶺に
|時なくぞ 雪は降りける
|間無くぞ 雨は降りける
|その雪の 時なきがごと
|その雨の 間なきがごと
|隈もおちず 思ひつつぞ来る
|その山道を
                            天武天皇「万葉集 巻1-0025」
|み吉野の 耳我の山に
|時じくぞ 雪は降るといふ
|間なくぞ 雨は降るといふ
|その雪の 時じきがごと
|その雨の 間なきがごと
|隈もおちず 思ひつつぞ来る
|その山道を
                            天武天皇「万葉集 巻1-0026」


 諸人の来し方に隈さはにあるよし
 諸人の行くすゑに隈さはにあるらむ    遼川るか
 (於:瀬田の唐橋)


 つまり、有様からしてもまさしく反乱軍。いや、むしろ賊軍と言ってしまっていいと思います。なので、これは当時の実際を率直に記したものなのか。あるいは、所謂お涙頂戴を意図したものなのか。いやはや、何とも判断に窮します。

 半ば略奪、とも言えてしまうような風情の大海人軍は、それでも少しずつ合流する者が増えてきます。名張を越えると大きな黒雲が空に広がっていたことから、大海人は得意の占いをしました。
「天下が2つに分かれる兆しである。だが、天下はわたしが得る」
 と。さらに伊賀に入って積殖の山口、現在の伊賀市柘植にて、ようやく高市皇子と合流。そこからまた進んで鈴鹿山を越え、三重の郡家へ。途中、休もうにも雨が酷くてみな寒さに耐えられずに進み続け、また家を焼いて暖をとっていると、鈴鹿関の使者がやってきます。
「山郡王・石川王が従駕したい、と言ってきているので鈴鹿関に留めてあります」
 と。そこで大海人は使者を鈴鹿関へ向かわせました。

 ここで肝心なのはすでに鈴鹿関は大海人軍が制圧している、という点でしょう。また、もう一方の不破へも別働隊がすでに向かっています。...正直、驚くほど迅速な初動だったと感じますね。
 ともあれ、ようやく人心地つけた一行。そして、吉報が齎されます。

| 丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の辺にして、天照大神を望拝みたまふ。是の時に、益人到
|りて、奏して曰さく
|「関に置らしめし者は、山部王・石川王に非ず。是大津皇子なり」
| とまうす。便ち益人に随ひて参来る。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山辺君安
|麻呂・小墾田豬手・泥部胝枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背が輩、従る。天皇大きに喜び
|たまふ。郡家に及らむとするに、男依、駅に乗りて来て奏して曰さく、
|「美濃の師三千人を発して、不破道を塞ふることを得つ」
| とまうす。是に、天皇、雄依が務しきことを美めて、既に郡家に到りて、先づ高市皇子を
|不破に遣して、軍事を監しむ。山背部小田・安斗連阿加布を遣して、東海の軍を発す。又稚
|櫻部臣五百P・土師連馬手を遣して、東山の軍を発す。是の日に、天皇、桑名郡家に宿りた
|まふ。即ち停りて進さず。
                  「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)6月」


 前日、鈴鹿関へ向かった使者が戻って来て言うに
「鈴鹿にいらしたのは山部王・石川王ではありません、大津皇子です」
 使者に促されて進み出た大津。彼に従駕してきた者たちも加わり、陣中は一気に活気付きます。さらには、不破道を抑えるために派遣されていた別働隊。それを率いていた村国連男依も合流し報告します。
「美濃の兵3000人で、不破道を塞ぐことに成功しました」
 そこで高市を不破に残して軍事にあたらせ、大海人自身は桑名に本陣をおきました。

 これにて事実上、大海人軍は自らの退路を確保し、さらには兵士や兵糧、物資を供給するルートも確保できたことになります。...この初動で、戦局は8割方とは言いませんが6、7割方は決まってしまったものでしょうね。
 掛かる火の粉を払うためだったのか、あるいはクーデターだったのか。いずれにせよ、大海人たちはもう死に物狂いだったのだと思います。生きるか、死ぬか。その瀬戸際だったからこそ、形振り構わず進んだ結果ではないでしょうか。勝たなければ、待っているのは朝敵、あるいは賊としての死のみ、だったのですから。


 ですが、そんな大海人サイドに比べて、いま1つ危機感に欠けると言いますか、ピリッとしないのが大津宮にいた大友サイドでした。

| 是の時に、近江朝、大皇弟東国に入りたまふことを聞きて、其の群臣悉に愕ぢて、京の内
|震動く。或いは遁れて東国に入らむとす。或いは退きて山沢に匿れむとす。爰に大友皇子、
|群臣に謂りて曰はく
|「何か計らむ」
| とのたまふ。一の臣進みて曰さく
|「遅くらば後けなむ。如かじ、急に驍騎を聚へて、跡に乗りて逐はむには」
| とまうす。皇子従ひたまはず、韋那公磐鍬・書直薬・忍阪直大摩侶を以て、東国に遣す。穗
|積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭の京に遣す。且、佐伯連男を筑紫に遣す。樟使主
|磐手を吉備国に遣して、並に悉に兵を興さしむ。仍りて男と磐手とに謂りて曰はく
|「其れ筑紫大宰栗隈王と、吉備国守当摩公広嶋と、二人、元より大皇弟に隷きまつること有
|り。疑はくは反くこと有らむか。若し服はぬ色有らば、即ち殺せ」
| とのたまふ。是に、磐手、吉備国に到りて、符を授ふ日に、広嶋を紿きて刀を解かしむ。磐
|手、乃ち刀を抜きて殺しつ。男、筑紫に至る、時に栗隈王、符を承けて対へて曰さく
|「筑紫国は、元より辺賊の難を戍る。其れ城を峻くし隍を深くして、海に臨みて守らする
|は、豈内賊の為ならむや。今命を畏みて軍を発さば、国空しけむ。若し不意之外に、倉卒な
|る事有らば、頓に社稷傾きなむ。然して後に百たび臣を殺すと雖も、何の益かあらしむ。豈
|敢へて徳に背かむや。輙く兵を動さざることは、其れ是の縁なり」
| とまうす。時に栗隈王の二の子三野王・武家王、剣を佩きて側に立ちて退くこと無し。是
|に、男、剣を按りて進まむとするに、還りて亡されむことを恐る。故、事を成すこと能はず
|して、空しく還りぬ。東の方の駅使磐鍬等、不破に及らむとするに、磐鍬独り山中に兵有ら
|むことを疑ひて、後れて緩くに行く。時に伏兵山より出でて、薬等が後を遮ふ。磐鍬見て、
|薬等が捕はるることを知りて、返りて逃走げて僅に脱るるを得たり。
                  「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)6月」


 大海人たちが東国へ逃れた。もう大津宮はその噂で持ちきりでした。ある者は自分も東国へ行こうとし、またある者はことが治まるまで何処かに身を隠してしまおうとし。
「虎に翼を着けて放てり」
 前述している通りです。人々は大海人を虎と評していたわけで、彼の器量はみな知っていたのでしょう。それ故に、恐れを喚起してしまいますし、逆に大友への忠義も薄らいでいってしまって...。
 いや、まだまだ天智崩御から間もないこの時期、年若き大友にそこまで期待する方が酷、というものです。けれども時流は、そんなことなど容赦なく渦巻き、進みます。

 群臣に向かって大友が問います。どうするべきか、と。ある者が進言するに
「とにかく騎馬で追撃するべきです。そうしないと手遅れになります」
 ですが、大友はそれに従いませんでした。...くどくなりますが、多分。この時点で戦局は9割方決まってしまった。そうわたしは断言したいです。痛恨の判断ミス、なのでしょう。

 大友が選択した戦略です。つまり、防衛を最優先とした、ということでしょうか。

 1) 本陣・大津宮と旧都・大和を防衛する
 2) 大海人に近かった吉備と、筑紫・大宰府から徴兵
 3) 東国への派兵

 判らなくはないんですけれどもね。筑紫や吉備といった土地から背後をつかれたら、東国追撃どころではない、だから先ずは足場を固めて...。そういう判断だったのでしょう。
 ただ、この吉備と筑紫での徴兵。これが何とも前述している尾張や美濃から御陵造営のための人夫を集めた、というやり方とよく似ているわけで、徴兵と同時に味方するのか、しないのか。しないのなら死を、というつまりは踏み絵だったわけです。

 恐怖政治。...そのなりそこないのようなもの、と言ったところでしょうか。結局、大友の使者たちは吉備では国守を斬り殺し、大宰府では徴兵そのものを拒否されてしまう始末。
「大宰府は国防の砦であって、内賊へ向ける兵などない。ここを空にして亡国の暁に、内賊を100回斬っても遅いのです」
 大和の高坂王と比較的近い反応です。大海人サイドにも、大友サイドにも与さず、自らの職務のみを全うする。時の筑紫大宰・栗隈王はそう返事をしました。あるいは、臣下を信頼することで統率するのではなく、疑い脅すことで統率しようという大友に、少なくない落胆があったのかもしれません。

 さて。そして大海人・大友両軍が最初の衝突をします。...もっとも衝突とは言っても、実際はニアミス程度でしかありませんでしたが、大津から東国へ派遣された兵たちが不破へ至ろうとした時、山に隠れていた大海人軍がそれを抑えたんですね。近江軍の将軍たちは1人は逃亡、他は捕縛されました。

| 是の時に当たりて、大伴連馬来田・弟吹負、並に時の否を見て、病を称して、倭の家に退
|りぬ。然して其の登嗣位さむは、必ず吉野に居します大皇弟ならむといふことを知れり。
|是を以て、馬来田、先づ天皇に従ふ。唯し吹負のみ留りて謂はく、名を一時に立てて、艱難
|を寧めむと欲ふ。即ち1、2の族及び諸の豪傑を招きて、僅に数十人を得つ。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇即位前記(672年)6月」


 一方、大津宮と並んで確実に落さなければならなかった本丸。それが大和の旧都です。いや、遷都してさほど時間も経っていなければ、もしかすると大友が皇位を継ぐために用意されたのかも知れない新都・大津より、大海人本人にとっても、群臣にとっても、そして多くの民草にとっても。
 真の本丸はやはり、大和だったはずです。

 

 大伴連馬来田と吹負という兄弟が大津宮にいました。彼らは早々に大局を掴むのは大海人であろう、と判断して本丸である旧都・大和の防衛を画策します。
 兄の馬来田は大津に残って、大友サイドに与している振りをし、弟の吹負は病気と称して大和へ帰還。機を見て一気に挙兵しよう、と水面下で大和の豪族たちや豪傑たちを集め始めます。

 余談になりますが、この吹負がある意味では壬申の乱で1番の働きだったのかもしれません。青垣山隠れる大和盆地。その中での戦いなど、するまでもなく消耗戦になることは判りきっていますし、何よりも大和は敵の腹中です。
 つまり、要は東国からの軍勢が近江を陥落させて、大和へ至るまでの時間を、とにもかくにも稼ぐこと。勝つ戦など最初から目指せず、ひたすら負けない戦を展開しなければならない、という困難さです。それが最初から明々白々な戦局予想でしたでしょうし、にも関わらず彼は立派にやり遂げることとなります。

 大津宮を落すため、最も華やかな働きをした高市と村国連男依に比べて、戦果そのものも負けることが多く、派手さは殆どありません。ですが、彼なくして壬申の乱は、先ず絶対に語れない、まさしく最大のキー・マン。
 それが大伴連吹負でしょう。

| 丁亥に、高市皇子、使を桑名郡家に遣して奏して言さく
|「御所に遠り居りては、政を行はむに便もあらず。近き処に御すべし」
| とまうす。即日に、天皇、皇后を留めたまひて、不破に入りたまふ。郡家に及る比に、尾張
|国司守小子部連鉤、二万の衆を率て帰りまつる。天皇、即ち美めたまひて、其の軍を分り
|て、処処の道を塞ふ。野上に到りたまふに、高市皇子、和より参迎へて、便ちに奏して言
|さく、
|「昨夜、近江朝より、駅使馳せ至りぬ。因りて伏兵を以て捕ふれば、書直薬・忍阪直大麻呂な
|り。何所か往くと問ふ。答へて曰しつらく『吉野に居します大皇弟の為に、東国の軍を発
|しに遣す韋那公磐鍬が徒なり。然るに磐鍬は兵の起るを見て、乃ち逃げ還りぬ』とまうし
|つ」
| とまうす。既にして天皇、高市皇子に謂りて曰はく、
|「其れ近江朝には、左右大臣、及び智謀き群臣、共に議を定む。今朕、与に無を計る者無し。
|唯幼少き孺子有るのみなり。奈之何かせむ」
| とのたまふ。皇子、臂を攘りて剣を案りて奏言さく、
|「近江の群臣、多なりと雖も、何ぞ敢へて天皇の霊に逆はむや。天皇独りのみましますと雖
|も、臣高市、神祇の霊に頼り、天皇の命を請けて、諸将を引率て征討たむ。豈距くこと有ら
|むや」
| とまうす。爰に天皇誉めて、手を携りて背を撫でて曰はく、
|「慎め、不可怠」
| とのたまふ。因りて鞍馬を賜ひて、悉に軍事を授けたまふ。皇子、和に還る。天皇、茲に
|行宮を野上に興して居します。此の夜、雷電なりて雨ふること甚し。天皇祈ひて曰はく、
|「天地神祇、朕を扶けたまば、雷なり雨ふること息めむ」
| とのたまふ。言ひ訖りて即ち雷なり雨ふること止みぬ。戊子に、天皇、和に往でまして、
|軍事の検校へて還りたまふ。己丑に、天皇、和に往でまして、高市皇子に命して、軍衆に
|号令したまふ。天皇、亦于野上に還りて居します。
                  「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)6月」







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