近江からの兵を退け、1部を捕縛した高市は早速、それを大海人に報告します。また、本陣が桑名では、前線基地の不破と遠すぎて不便だ、という高市の進言を呑んで大海人も不破へやってきます。
 すでに近江からの追撃が始まっているのを目の当たりにした大海人。怖気づいたのか、あるいは裏返しのカンフル剤を意図したのか。いきなり嘆きだします。
「近江には左右の両大臣と智謀に長ける群臣たちが今頃、戦略会議を開いているのだろう。なのにこのわたしには誰もいない。いるのは年若い息子たちだけだ...」

 ...個人的には、大ダヌキもいいところだな、と感じて仕方ないんですが、ともあれそう嘆かれてしまったら長子・高市は黙っていられません。
「確かに近江には群臣がたくさんいます。ですが、どうして天皇(大海人)の霊威に逆らうことができるでしょうか。天皇が独りでいらしても、わたし高市が神々のお力を借り、天皇の命を受けて軍を率います。そうすれば、敵は我々を防ぐことなどできようはずもありません」

 時に高市は19歳だった、といいます。対する近江方の大友は23歳。天智と天武、それぞれの長男であり、同時に母親の出自の関係で不遇を託つことも、まま有り兼ねなかったであろうはずの存在同士。なれど太政大臣ともなった者同士の明暗。
 それも壬申の乱が浮き彫りにした、1つの側面なのかもしれません。

 そんな我が子・高市。それはもう大海人とて大満足。心強かったのか、してやったりだったのかは別として、高市に
「しっかりやれよ」
 と。...この場面の原文“慎、不可怠”。訓読みするならば「ゆめなおこたりそ」となりますけれど、字面の通りならば何とも気弱な言い方です。前述している嘆きも含めて、見ようによっては中国は漢の高祖・劉邦にも近い雰囲気ですけれども。
 曰く
「ゆめゆめ、どうか怠らないでね...」
 こんな感じになりますが。それも含めてタヌキに思えてしまうのは、わたしがヘソ曲がりだからなのでしょう。

 ただ、どうやらこの場面。天平期かあるいはそれより少し後の平安初期の人々には、とても好まれたようですね。催馬楽にこんな歌謡が残っています。

|鷹の子は 麿に賜らむ 手に据ゑて 粟津の原の
|御栗栖の周りの 鶉狩らせむや さきむだちや
                                   催馬楽「鷹子」


 言葉そのものの意味よりも、謡ぶりや響きが重視される歌謡です。ましてや殆どが暗喩で成り立っている代物ですから、天平から平安初期の一般的な概念が明確ではない以上、かなり曖昧な意味しか判りません。
 ですが「粟津の原の 御栗栖の周り」という地名からして、壬申の乱をモチーフとしていることは明らかです。...そう、武内宿禰と忍熊王の戦いの舞台としても登場した栗林(くりす)のことでもあるのですが、要するにここ・瀬田の唐橋から琵琶湖湖岸沿いに少し西へ行った辺りのことです。

 「鷹の子は、僕が賜りましょう。この腕に据えて、粟津の丘の栗栖の辺りにいる鶉を狩らせてください、という若き公達よ」
 直訳すればこんな感じになるでしょうか。つまり、鷹の子=大海人軍、鶉=近江軍、あるいはもっと突き詰めて大友皇子、ということですね。
 どうも、いちいち個人的な感想を差し挟んでしまって恐縮なのですが“麿”と“さきむだちや”に救われていますけれど、なかなか強烈かつブラックな風刺歌です。しかもこれが、催馬楽として平安中期に大流行したというのですから、何とも...。

 世に流るゝは風にみづ 背面かくればあれのすゑ
 影面かくればいましすゑ あれあるあしたはいづへとや  遼川るか
 (於:瀬田の唐橋)


 余談です。“麿”はそのまま男の子のこと。しかも自分で自分を麿、と言っているのですから雰囲気としては、現代の一人称代名詞だと「俺は」でも「わたしは」でもなくて、もっと初々しい「僕は」といったものになるでしょう。
 また“さきむだち”は“さ公達”のこと。そしてこの“さ”は早蕨などの“さ”と同じと考えて戴いていいと思います。


| 是の日に、大伴連吹負、密に留守司阪上直熊毛と議りて、一、二の漢直等に謂りて曰はく
|「我詐りて高市皇子と称りて、数十騎を率い、飛鳥寺の北の路より、出でて営に臨まむ。乃
|ち汝内応せよ」
| といふ。既にして兵を百済の家に繕ひて、南の門より出づ。先づ秦造熊に、犢鼻して、馬
|に乗せて、馳せて、寺の西の営の中に唱へしめて曰はく、
|「高市皇子、不破より至ります。軍衆多に従へり」
| といふ。爰に留守司高阪王、及び兵を興す使者穗積臣百足等、飛鳥寺の西の槻の下に拠
|りて営を為る。唯し百足のみは小墾田の兵庫に居りて、兵を近江に運ぶ。時に営の中の軍
|衆、熊が叫ふ声を聞きて、悉に散け走げぬ。仍りて大伴連吹負、数十騎を率て劇に来る。則
|ち熊毛及び諸の直等、共与に連和し。軍士亦従ひぬ。乃ち高市皇子の命を挙げて、穗積臣百
|足を小墾田の兵庫に喚す。爰に百足、馬に乗りて緩く来る。飛鳥寺の西の槻の下に逮るに、
|人有りて曰はく
|「馬より下りね」
| といふ。時に百足、馬より下るること遅し。便ちに其の襟を取りて引き墮して、射て一箭
|を中つ。刀を抜きて斬りて殺しつ。乃ち禁穗積臣五百枝・物部首日向を禁ふ。俄ありて赦し
|て軍の中に置く。且、高阪王・稚狹王を喚して、軍に従はしむ。既にして大伴連安麻呂・阪上
|直老・佐味君宿那麻呂等を不破宮に遣して、事の状を奏さしむ。天皇、大きに喜びたまふ。
|因りて吹負に命して将軍に拝す。是の時に、三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷等、及び群の豪傑し
|き者、響の如く悉に将軍の麾下に会ひぬ。乃ち近江を襲はむことを規る。衆の中の英俊を
|撰びて、別将及び軍監とす。庚寅に、初づ乃楽に向ふ。
                  「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)6月」


 一方、旧都・大和では吹負が作戦を練り、それを味方たちに伝えてゆきます。曰く
「俺が偽って高市皇子と名乗って飛鳥寺の北側から出て、高坂王の陣に迫る。その混乱に乗じて、敵を討て」
 と。高坂王たちは飛鳥寺の西側に旧都防衛の陣を敷いていたんですね。

 そして吹負は味方を褌だけ、という取るものも取り敢えず飛び出した風情で高坂王たちの陣へ駆け込ませます。この奇策は大成功で、陣内の兵たちは散り散りに逃げ、そこを吹負たちがついたのですから、戦果は上々。
 近江へ送る武器を納めた倉を抑え、尚且つそれを守っていた穗積臣百足を斬ります。そして高坂王たちを従わせることにも成功し、すぐさま不破へ報告の使者を送ったのですが以後、吹負は大和戦線の将軍に任命されています。

 この意味するところも大きいでしょう。つまり、本丸・大和は事実上、この時点で大海人軍が制圧したことになりますし、以降はその為の防衛戦線を張ることになった、と。同時にうまくゆけば近江を東西から挟み撃ちにもできます。...実際は、そうはならなかったものの、大和が落ちたという精神的プレッシャーだけで充分。そうわたしは思います。
 吹負たちは最初から近江へ進軍するつもりなどなかったはずです。大和を落したあとは大和・山城間の奈良山に陣を張ります。

 こうしてじっくり壬申の乱の戦局を見てゆくと、改めて大海人軍には負ける要素が見当たらないんですね。もちろん、この日本書紀巻28が、あくまでも大海人=天武賛美の前提で記述されているのは判っています。
 ですが、それにしても拠点となる陣取りがあまりにスムーズで、やはり掛かる火の粉を払うために止むを得ず、といった挙兵ではなく、明らかに綿密に準備・計算されていたものだったのであろう、と。...そんな、かすかにザラザラした感触が底流しているようにわたしは感じます。

| 秋七月の庚寅の朔辛卯に、天皇、紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟を遣し
|て、数万の衆を率て、伊勢の大山より、越えて倭に向はしむ。且、村国連男依・書首根麻呂・
|和珥部臣君手・胆香瓦臣安倍を遣して、数万の衆を率て、不破より出でて、直に近江に入
|らしむ。其の衆の近江の師と別け難きことを恐りて、赤色を以て衣の上に着く。然して後
|に、別に多臣品治に命して、三千の衆を率て、荻野に屯ましむ。田中臣足麻呂を遣して、
|倉歴道を守らしむ。時に近江、山部王・蘇賀臣果安・巨勢臣比等に命せて数万の衆を率て、
|不破を襲はむとして、犬上川の浜に軍す。山部王、蘇賀臣果安・巨勢臣比等のために殺さ
|れぬ。是の乱に由りて、軍進まず。乃ち蘇賀臣果安、犬上より返りて頸を刺して死す。是の
|時に、近江の将軍羽田公矢国、其の子大人等、己が族を率て来降ひまつる。因りて斧鉞を
|授けて、将軍に拝す。即ち北越に入らしむ。是より先に、近江、精兵を放ちて、忽に玉倉部
|邑を衝く。則ち出雲臣貊を遣して、撃ちて追はしむ。
                  「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」


 大海人が挙兵を決意したのが6月の20日頃。そして月を跨いで7月、遂に大海人勢は進軍を開始します。
 全体を2つの部隊に分け、片や鈴鹿関を通過して大和へと向かうもの(東海道)。片や不破道から近江へ直接入るもの(東山道=中山道)。その数、それぞれに数万。...たった数10人の従者しかいなかったのはほんの10日前のことです。

 鈴鹿関を通過する部隊は事実上、当時の大和・伊勢間の街道をゆくような形となっていたのでしょう。つまり、敵方の本陣・近江に入ることなく旧都奪回に向かえるルート、ということでしょうか。
 この部隊は進軍途上の要衝となりうる荻野に多臣品治と3000の兵を配置。さらには田中臣足麻呂を倉歴道を配置しました。

 一方の、不破道から近江へ向かう部隊は、ある意味では別働隊の為の陽動作戦も兼ねていたのでしょうね。陽動でありながら、同時に敵方の本陣を脅かそうとしている主力部隊でもあったわけですけれども。そして、こちらの軍の総指揮を高市が担い、将軍には村国連男依が就きます。
 何せ当時の野戦です。もう敵も見方も判別不能なくらいに入り乱れることは、容易に想像できたのでしょう。高市たちは自軍の全員に赤い衣を着けさせることで、戦場での判別方法としたようです。

 余談になりますが、中国史を眺めているとこの手の色の目印で、敵味方を分けるというやり方は頻繁に見かけます。有名なものでは前漢の高祖・劉邦軍もそうですし、それより後の時代では三国志演義の冒頭にある黄巾の乱なども、同様でしょう。
 ...このあたりにも渡来文化の影響のあとが見て取れます。

 近江の大津からもまた、数万の兵が不破を目指して進軍を開始していました。ですが、それを率いていた山部王・蘇賀臣果安・巨勢臣比の3人の間で諍いが起きてしまったようで、山部王は他の2人に斬られ、蘇賀臣果安は自害、そして部隊は混乱のあまり進めなくなってしまったようです。
 そんな成り行きを見ていたからでしょうか。近江軍から羽田公矢国とその一族が大海人軍へ投降。彼もまた高坂王同様、以後は大海人軍として戦うことになります。湖北。つまり、琵琶湖の北岸方面から大きく迂回して大津の背後を衝くべく進路をとったのが、彼の部隊です。

 古代史最大の戦・壬申の乱。その最初の戦闘、すなわち流血を伴う最初の戦は玉倉部で起こりました。ここは現在の地名で言うと、岐阜県不破郡関ヶ原町玉、伊吹ドライブウェイのすぐ近くになります。
 この緒戦を制したのは大海人軍。出雲臣貊が部隊を指揮していました。

| 壬辰に、将軍吹負、乃楽山の上に屯む。時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく、「古京
|は是れ本の営の処なり。固く守るべし」
| とまうす。将軍従ふ。則ち遣赤麻呂・忌紀部首子人を遣して、古京を戍らしむ。是に、赤麻
|呂等、古京に詣りて、道路の橋の板を解ち取りて、楯に作りて、京の辺の衢に竪てて守る。
|癸巳に、将軍吹負、近江の将大野君果安と乃楽山に戦ふ。果安が為に敗られて、軍卒悉に走
|ぐ。将軍吹負、僅に身を脱るること得つ。是に、果安、追ひて八口に至りて、りて京を視る
|に街毎に楯を竪つ。伏兵有らむことを疑ひて、乃ち稍に引きて還る。
| 甲午に、近江の別将田辺小隅、鹿深山を越えて幟を巻き鼓を抱きて、倉歴に詣る。夜半を
|以て、梅を銜みて城を穿ちて、劇に営の中に入る。則ち己が卒と足摩侶が衆と別ち難きこ
|とを畏りて、人毎に
|「金」
| と言はしむ。仍利て刀を抜き殴ち、
|「金」
| と言ふに非ざるを斬る。是に、足摩侶が衆悉に乱る。事忽に起りて所為を知らず。唯し足
|摩侶のみ、聡く知りて、独り
|「金」
| と言ひて僅に免るること得つ。乙未に、小隅亦進みて、荻野の営を襲はむとして急に
|到る。爰に将軍多臣品治遮へて、精兵を以て追ひ撃つ。小隅、独り免れて走げぬ。以後、遂に
|復来ず。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」


 さて、こちらは旧都・大和を巡る大伴連吹負の部隊です。彼らが陣取ったのは、現在の奈良・京都間を結ぶ奈良山の峠。とにかく、ある意味に於いては新都・大津よりずっと多くの者たちの心の故郷である旧都・大和は
「必ず死守しなければならない」
 そんな決意と覚悟をもって、大和防衛戦に臨む吹負たちは京内の道路に架かる橋板を剥がして、京の周辺に楯として並べます。そこへ襲撃してきた近江軍に、吹負たちは敗走してしまうのですが、近江軍は京に立てられた楯に、さらなる伏兵がいるのでは、と警戒。それ以上は進みませんでした。

 余談になりますが、これ以降の吹負は、とにかく厳しい戦いが続きます。...そもそも厳しくない戦いなど、存在しないのかもしれませんが、それにしても息が詰まるような密閉空間・大和盆地の中で衝突→敗北→逃走→衝突→敗北→逃走の繰り返しです。
 この状況が好転し始めるのは、後に大和への援軍として急行することになる、置始連菟たちと合流してからです。

 こうやって改めて追いかけてみると、当時の戦闘というのは本当にまさしく野戦で、現在のような情報戦がありません。また当然ですけれど、中長距離攻撃なんて存在もしませんから、ちょっとカモフラージュしただけで進軍を中止してしまうことも多かったのでしょうね。そういう意味では、ある種のゲリラ戦にも近い風情は拭えないのかも知れません。
 そして、ゲリラ戦になればなるほど、地の利を活かせる方が圧倒的に有利になることは間違いないでしょう。

 日本書紀の記述に沿って書いていますから、若干お話が複雑になってきてしまいました。要するに現在、不破道を出て東から進軍している大海人勢は3つの進路をとっています。

 1) 近江には入らずに大和国へ直行する部隊。鈴鹿関を経由する大和・伊勢間を大和へ向
   かって進軍中。
 2) 不破道から近江へ入って、中山道沿いに大津へと向かう主力部隊。琵琶湖湖岸を湖東
   から湖南へと交戦しながら進軍中。
 3) 不破道から近江北部を越前方面へ向かい、そのまま湖北より一気に南下して大津を叩
   く予定の別働隊。

 これら3つの進路とは別に、大和盆地内の衝突が次々と起こっている、と考えて戴けばいいと思います。...どうでしょうか。現代を暮らすわたしたちにとっては、感覚的に関西圏に限定された戦役。そんな印象を受けてしまうのかも知れません。
 ですが、当時のこの国。そう、当時のこの日本という国の概念で考えたならば、壬申の乱がどれほどの規模の内戦であったのかが、自ずと手繰れてしまいます。

 新都と旧都の両方を舞台とした内戦。...例えば、首都・東京の23区内で繰り返し、繰り返し戦闘が行われ、一方でその東京へ向けて幾つもの方向から国内を進む革命軍もいて。大阪や名古屋といった首都に匹敵する都市部が、恐らくは最終決戦地になるであろうと目される内乱。
 現代の感覚に置き換えるならば、きっとこんな感じになってしまうでしょうし、逆を言えばそれが当時の人々にとっての壬申の乱だったのだ、ということになります。

 捗々しい戦果はあげられないものの、それでも近江軍は次々と部隊を送り込みます。田辺小隅が率いる別隊が、今度は倉歴に駐屯する田中臣足麻呂の1隊を襲うんですね。
 その際に、近江側の将軍・田辺小隅は
「金」
 という合言葉で敵味方の判別をするようにしていたのですが、一方の大海人側の田中臣足麻呂たちには特別な備えもなく、混乱のうちに敗走。けれども、荻野に駐屯していた多臣品治以下3000の兵たちが、逆にこれを強襲し、破ります。
 ...これで、大和への道が完全に開けた、と言うべきでしょう。鈴鹿ルートの部隊はこの後、これといった武力衝突に見舞われる記述が、日本書紀に残っていません。

 

| 丙申に、男依等、近江の軍と息長の河に戦ひて破りつ。其の将境部連来を斬りつ。戊戌
|に、男依等、近江の将秦友足を鳥籠山に討ちて斬りつ。
| 是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京の将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを
|聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率て、急に倭京に馳せしむ。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」


 近江国内を進む高市指揮下、将軍・村国連男依の部隊と、近江軍の武力衝突は、次第に苛烈さを増してゆきます。7月7日に息長の河、現在の米原市醒井界隈と目される土地にて交戦し、大海人軍の勝利。続く、9日に今度は鳥籠山、同じく現在の彦根市大堀町界隈ではないか、とされている土地でも交戦。こちらも、近江軍を退けていますね。
 一方、鈴鹿ルートの将軍・紀臣阿閉麻呂たちは、大和の吹負が近江軍に敗れたことを聞き、置始連菟を援軍として急行させます。

| 壬寅に、男依等、安河の浜に戦ひて大きに破りつ。則ち社戸臣大口・土師連千嶋を獲たり。
|丙午に、栗太の軍を討ちて追ふ。辛亥に、男依等瀬田に到る。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」


 7月13日。高市・男依の部隊は安河のほとりで近江軍と衝突します。...はい、すでにわたしがご紹介しているあの野州川です。
 わたしが訪ねた野州川の岸辺は初秋の涼しい風が吹き、早朝の光に縁取られた川面と、まだまだ生い茂る背の高い草たち、そしてのんびりと佇む白鷺たちのいる、静かな土地でした。けれども、今から1300年もの昔はたくさんの血が流れ流された土地でもありました。

 ここ瀬田の唐橋から近江富士・三上山は立地の関係なのか、それともたまたま今日が曇っているからなのかは判りませんが、よくは見えません。まだほんの昨日のことなんですけれどね。
 時々、自分が当然のように踏みしめてしまっている地面に、どれほどの命が刻まれているのだろうか、と怖くなることがあります。いや、怖いというのは的確ではなく、畏れ多いというべきでしょうか。...もちろん、それは上古に限ったことではなく、平安以降の戦国時代も、そして現代に至るまで全て、です。逆を言えば、どれほどの礎のうえに自分がいられているのか、という感慨なのかも知れませんが。

 17日、更に進んだ高市・男依は栗太でも勝利します。こちらの場所は現在の名神栗東IC付近でしょうか。ここまでの行程を地図上で確認してみると判ります。進軍のスピードとしては、それほど速くないのかも知れませんが、それでも確実に、着実に、大津へと近づいて来ていますね。
 一方の近江軍からすれば、流石に本陣・大津京での交戦は避けたいわけで、こうも肉迫されてしまった以上は、大津京から出て、何処かで。そう、何処かで高市・男依軍を迎え撃たなければなりません。

 そして、ここまでの交戦地はもちろん、当時の武力衝突というものは、必ずと言っていいほど両軍をきちんと隔てられる地形の場所で行われました。例えば峠。あるいは関であったり、川を挟んでの対峙であったり。
 ...もうお判りでしょう。大津京から迎撃に出てきた近江軍と、大津へと進み続ける高市・男依軍の最終決戦地。それは瀬田川を挟んで両軍が対峙し、さらにはその両岸を結ぶ唯一の通い路であった、ここ・瀬田の唐橋だったのです。...その瀬田の唐橋へ22日。遂に高市・男依軍が到着します。


|時に大友皇子及び群臣等、共に橋の西に営りて、大きに陣を成せり。其の後見えず。旗
|を蔽し、埃塵天に連なる。鉦鼓の声、数十里に聞ゆ。列弩乱れ発ちて、矢の下ること雨の如
|し。其の将智尊、精兵を率て、先鋒として距く。仍りて橋の中を切り断つこと、3丈須容にし
|て、一つの長板を置く。設ひ板をみて度る者有らば、乃ち板を引きて墮さむとす。是を以
|て、進み襲ふことを得ず。是に、勇敢き士有り。大分君稚臣と曰ふ。長矛を棄てて、甲を重ね
て、刀を抜きて急ぎて板を蹈みて度る。便ち板に着けたる綱を断りて、被矢つつ陣に入
|る。衆悉に乱れて散け走ぐ。禁むべからず。時に将軍智尊、刀を抜きて退ぐる者を斬る。而
|れども止むること能はず。因りて、智尊を橋の辺に斬る。大友皇子・左右大臣等、僅に身免
|れて逃げぬ。男依等、即ち粟津岡の下に軍す。
                   「日本書紀 巻28 天武天皇上 即位前記(672年)7月」







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