日日並べて日に夜にと
 いにしへは継ぎて継がれし
 継がれたるものがばかりと
 知りゐれど
 知らにあれあり
 知るなへに
 知らにあれあるばかりをし
 なほし知り知る
 くさまくら旅にてあれば
 あがうらにあれ直に会ふ
 直に会ひ
 直言ふものも天降りては
 歌となるらむ
 いにしへに猛きものあり
 またもなし
 国さはにあり
 またもなし
 玉鉾の道ゆきゆきて
 統べたるものは
 大倭豊秋津島
 大八嶋
 なるかならぬかあれ知らに
 なにを欲りすか
 なに知らむ
 なにをか見むか
 あれなに見むや

 吹く風はうむがしきまたあしきをしあれ知りゐるは風のあるゆゑ

 道なれど道にやまぢもうみつぢもありて給へばあれのゆかるを   遼川るか
 (於:建部大社)


      −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

|近江のや八橋の小竹を矢はがずてまことありえむや恋しきものを
                            作者未詳「万葉集 巻7-1350」


 「近江の八橋に生える篠(小竹)を、矢尻や矢羽をつけて矢にしないでいられるものだろうか。恋焦がれているというのに」
 矢というものと凡そ縁遠い現代人には、どうもすっきりと胸に響いて来づらい比喩ではありますけれど、要するにこれ、恋歌です。女性を篠に喩えているのでしょうから、噛み砕いてしまえば
「こんなに恋焦がれているのに、彼女を放っておくことなんて、ただ眺めているだけなんて、できるわけがないじゃないか」
 こんな感じになると思います。

 ただ「万葉集」の括りではあくまでも寄草(草に思いを寄せた)歌となっていますから、もしかすると近江の八橋とやらは、上質な竹の産地だったのかも知れませんね。
 その、近江国八橋。この現代にも地名として生きています。場所は草津市矢橋町。少し飛び地になってしまうのですが、せめて通り過ぎるだけでもしてみようと思います。

 建部大社を後にしてもう一度、琵琶湖岸近くへ戻ります。そしてそのまま軽く北上すると、琵琶湖8景に選ばれている矢橋の帰帆の舞台となった帰帆島公園なる島が左手に、かすかに見えてきます。いや。もしかしたら、わたしがそう思っていただけで、島ではなかったのかも知れませんが、ともあれ走っていて、建物が途切れるたびに見る場所があって。
 また、島と本土を繋ぐ矢橋大橋というものも架かっているようですね。

 詳しくは寡聞にして知りませんが、東海道が賑わっていた時代、陸路を行かずに草津から対岸の石場(大津市)まで水路を行くのが、早道とされていたようです。...つまり、瀬田の辺りはパスしてしまっていた、ということでしょうか。そして大津から逢坂を越えれば、そこはもう京都。終点の三条大橋まではあと僅か、ということだったのでしょう。
 そんな次第でかなり賑わっていた草津の港に船が戻ってきて、帆を下ろす光景を描いたのが安藤広重となりますが、その矢橋が件の万葉歌に謳われた土地でもありますね。

 江戸期と違って、万葉期には恐らく港らしい港も無かったでしょうし、比喩に登場するほど有名な竹の産地だったとしたならば、やや水辺に近すぎる気もしなくはないのですが、そこは淡水の琵琶湖です。湿地帯のような所に群生していた笹なり、小竹なり、という可能性は考えられなくもないのかなあ、と。
 ...植物に疎いわたしでは、これ以上はちょっと難しいですけれども。

 矢橋、というそのものずばりを名前としている交差点を、目指してみました。もしかしたら歌碑の1つとでも遭遇できれば幸運かな、と考えていたんですが、そう単純ではなかったようです。
 走っていた県道・大津守山近江八幡線の両側は、民家と田圃が続くばかり。そしてそれは矢橋の交差点界隈でも、あまり変わりませんでした。

 石碑はあったんですね。だから喜び勇んで近づいてみたら、交通安全祈念のもので「万葉集」との関係はなさそうです。
 時刻はそろそろ正午近く。午前中には何とか信楽の山を越えたいと思っていたのですが、これまたそう単純にはゆきません。もっとも、だからこそ旅は飽きない。そうも言えてしまうんですけれどね。

 湖から吹き寄せる風が、金色に実った稲穂を揺らします。そう言えば、今日も今日とて早朝からずっと休むことなく走り廻っていることに、ここでやっと気づきました。少し、疲れ始めてもいるようです。
 急ぐんですけれどね。急いでいるのは承知していましたけれど、
「少しだけ。少しだけ、風に吹かれていてもいいかな。...いいよね」
 そんな誘惑に抗えなくて、車を路肩に止めたまま、ぼんやりガードレールに腰掛けていました。

 前日に、目前まで迫れていながら気力が続かなくて訪ねなかった小野妹子の墓所。紀貫之の墓所に至っては、もう最初からギブアップしてしまっていました。一方、今日は前述している通り、保良宮を諦めましたし、恐らくはその近くにあるであろう近江国分寺跡も最初から諦めてしまっていて。
 いや、正確に言うと近江国分寺跡に関しては少し違います。というのも近江の国分寺は何度か移転しているらしく、最初のものは当然ですけれど紫香楽宮のすぐ傍にあった、とのこと。

 全国に国分寺を建立する詔を発布したのは聖武天皇です。そしてその彼が遷都したのが信楽の山の中の紫香楽宮。...もっとも、その後に聖武は奈良の平城京へ戻ってしまいますが、いずれにせよ時代的に見て、最初の近江国分寺が紫香楽宮近くにあったのは道理でしょう。
 そして、平城への再遷都の後、国分寺も移されたのですが、その地は瀬田だった、といいます。余談ですが、その後に近江国分寺は瀬田川の対岸の方へさらに移転。つまり、その瀬田川対岸の国分寺跡への訪問を、最初から見送っていた、ということです。

 現在の瀬田西ICのすぐ傍、野郷原にその第2次近江国分寺なる瀬田廃寺跡がある、とのことで建部大社へ向かう前に随分と探したんですね。何せ住所まで判っているのだから、造作なく辿り着けるだろう、と高を括っていたら、これがとんでもなく...。
 周辺は、そう遠くない時期に宅地開拓されたようで、ちょっとしたお屋敷町になっている始末。その上、すぐそこには高速が走っていますから、もうどうにも進みたいように進めませんでした。最後はコンビニエンス・ストアの駐車場に車をおいて、歩いて探し回ったのにも関わらず空振り。お屋敷から出でいらした奥様方に
「瀬田廃寺跡って何処ですか」
 と訊いても、みなさま数年以内に越してきたので知らない、と。

 そんなこんなで瀬田廃寺跡の訪問は諦めてしまったんですが、探し回っている途中で偶然見つけた野畑遺跡には、立ち寄ることができました。ただこの野畑遺跡。全くのノーマークだった上に、史跡紹介の看板が、風雨に晒されすぎてもう殆ど読めず...。
 デジカメで写して、期間後に画像をでかでかと表示しても判読不能という有様。

 

 でも。実はこの野畑遺跡から
「国分憎寺」
 と書かれた木簡が出土していたこと。さらには野畑遺跡のすぐ隣こそが、わたしの探し回っていた瀬田廃寺跡であったこと。そして、第2次近江国分寺が瀬田廃寺であったことをほぼ決定付けたのが、野畑遺跡から出土した木簡に他ならないこと。
 これらをわたしが知ったのは、もちろん近江から神奈川へ戻ってからしばらくしてのこと。...少なくとも、ここ・矢橋の交差点で。かすかに覚え始めた疲労に、しばしの休息をとっていた時のわたしは、まだまだ胸に悔しさを募らせていたんですけれどもね。

 これが旅の残酷さであり、旅の醍醐味でもあります。同じ土地でも訪ねる季節や天気、時間帯で、それぞれの表情も変わってしまいますし、訪ねる順番にしてもそうでしょう。
 結局、すべては一期一会。同じことなどない、この世界のうえでの束の間の邂逅です。だから旅がやめられません。全てが違うからです。

 もし前日、土砂降りにならなかったら。もしかしたら保良宮と近江第3次国分寺を、わたしはは訪ねたかも知れません。そうなっていれば。...少なくとも、わたしは野畑遺跡には辿り着けなかったですし、方向からしてここ・矢橋も訪問せずに信楽へ向かったことでしょう。
 そして、この拙歌もまた詠んでいなかった。いや、違いますね。詠めなかった。そう、詠めなかったのです。


 近江のや矢橋に来ずは逢はえぬを
 思はざれども
 あれは来ぬ
 あれ来たるなら歌はなり
 あれゆくならば歌のなる
 ゆかばゆくなへ
 来らばまた来るなへにして
 謡はずて
 まことありえむ
 恋しきものを

 なにしかにあれ来しものかなにしかにあれの謡ふか よろづことのは  遼川るか
 (於:矢橋の交差点)


      −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 さっき来た道を戻って、
「このままゆけばまた建部大社の鳥居が見えるだろうな」
 と感じる辺りで左折しました。今度はお社の正面ではなく、裏側に大きく回り込む為に、です。先に建部大社を訪ねた際、神職さんに訊いたんですね。
「近江の国庁跡へはどうゆけばいいんでしょうか」
 と。けれども、返って来た答えは、なかなかに厳しいものでした。曰く
「距離的にはそれほど遠くはないですけれど、車でゆけない場所です。路上駐車はこのご時世ですから、ここの駐車場に車をおいて、歩かれるのがいいと思いますよ」
「歩いてどれくらいでしょう」
「20〜30分あれば着けますよ」

 地図上で確認した範囲では、少なくとも国庁跡の案外近くまでは、確かにバス路線が走っています。つまり、車でゆけないというのは建部神社側からは、ということでその裏手側からならば、少なくとも20〜30分も歩かなくても済むのではないか、と。
 そう考えたからこそ、飛び地の矢橋まで行って、そこから回り込めたら。そんな風に考えた結果だったのですけれども。

 県道・大津守山近江八幡線は国道1号と交わって終わります。そして、その先の狭い路地へ。かなり古くからあるお屋敷町のようですね。旧家と思しき佇まいのお宅が、広い側溝を挟んだ向こうに並びます。また、その側溝へ各お宅が架けている橋。
 いや、橋というような規模ではなくて、それこそ歩幅1歩分くらいの側溝にコンクリートのブロックなどのささやかな橋、あるいは側溝の蓋が架かっているのですけれど、この風情が本当に古いお屋敷町という印象なんですね。しかも中には、木製のお宅まであって。

 そんな路地を、かなり徐行しながら行ける所まで入ってみました。バス路線は途中で右折してしまっています。つまり、そのまま建部大社の方角に進むのでしょう。一方の近江国庁跡は右折しないで進む先のようです。
 ...が、流石に
「この道幅は参ったな。最悪、バックで戻ることになったら、この幅広い側溝に、脱輪しないで帰れるだろうか...」
 と呆然としてしまった次第で、やはり建部大社の神職さんの仰る通りでした。

 仕方ないので、ここまでの途中で車が止められそうな場所を探せど、そう都合よくは見つからず。なのでせめて人様の邪魔にならないだけの道幅の場所に止めて、あとはキップを切られないことを祈りながら早足です。
 バス路線を過ぎて、極端に狭くなった道幅の地点を越えます。すると、また少し道幅が広くなって、そこで突き当たりになります。T字路になっていますから、右に折れて坂を登って。登りきったあたりで今度は左折して少し行くと、何やら周囲には工事中の看板やら、標識なら、何やらが...。

 立地としてはかなり広々とした建物のない一帯だっただけに、先ず間違いなくここが近江国庁跡なのでしょう。ですが、未だ発掘中というのではなく明らかに工事中である状況に、少々きょとんとしてしまいまして。
 もっとも大津宮の状態にしても、あるいは奈良各地の遺跡にしても、こうもあからさまに工事中であったものは未経験ですが、それでも本質的には近い状態は、ままあるので大体の状態は呑み込めます。

 恐らくは、発掘調査自体はある程度、もう終わっているのでしょう。そして、その手の遺跡は得てして2つの進路から一方を選択させられるわけで、1つはそのまま再び埋め戻されます。現代人側からの古代へのアプローチとして、自分たちに必要なデータと資料だけを採取たせてもらった後は、そのまま当時の人々の元へ遺跡をお返しする、と。
 ...こう書いてしまえば、随分と綺麗なお話ですが、要するに現在の土地の所有者が、土地を手放さなかった場合は、よくこうなります。明日香の嶋宮などが好例でしょうか。

 そしてもう1つの進路。それが史跡として保全される、と。ただ、この保全にもやり方は色々あるわけであくまでも現状維持を最優先とした史跡もあれば、そこまでに掛かった予算の回収と、今後も掛かり続けであろう保全費用の確保の為に、半ば観光地化されてゆくものもあるわけで。
 過去の拙作内で繰り返し、繰り返し、書いてきていますが個人的には埋め戻せるものは埋め戻して欲しい、と思っています。けれども同時に、訪ねるべき史跡があってくれるから、わたしの古歌紀行が続いているのもまた、厳然たる事実です。

 

 工事中を表す黄色と黒で縒られた綱を跨いで、広々とした空間に足を踏み入れてみます。最初にあったのは“近江国庁跡”という看板。その隣には“近江国衙跡”の碑です。
 国庁。これは律令下で国司が実際の政務を行った建物のことで、一方の国衙はその国庁も含めて区画整理された周辺一帯のこと。そして国府は、国衙よりももう少し広範囲を表す言葉になるでしょうか。
 つまり、県庁所在地が国府、県庁も含む周辺の各種役場などのある一画が国衙、そして県庁そのものが国庁。そんな感じでいいと思います。

 国衙跡、という石碑を過ぎた先には、東屋のような建物があって、そのさらに奥。...そこには、それで完成形なのか、あるいはまだまだ復元途中なのかやや判断に迷う一画が広がっていました。
 先ずは東屋へ行ってみると、壁には発掘途中の写真や解説文が掲示されています。簡単に目を通してみたのですが、どうやらここは幾つかの時代の建物が1つの地表を共有した場所らしく、8世紀は天平期の遺跡はもちろん、それ以降のものもあれこれと見つかっているようでした。

 ただ、国庁の中心部が発掘されたのは、全国でもこの近江が最初だった、とのこと。だからでしょうか。とても貴重な史料ということですでに国の史跡指定もされているようですね。
 また、復元の仕方についても随分と工夫・腐心されているようです。発掘によって明らかになっている部分は復元すれど、そうではない部分はそのまま、と。こんな1文にしばし目が吸い寄せられて,逸らせませんでした。

|この土地で営まれた人々の暮らしの跡を見つめ、活かしてゆくことは、この地域の歴史を
|知ることであり、私たちの祖先の生き方を知ることであり、さらには未来を考えることに
|つながります。遺跡にたたずんで、遺跡からいろいろなことを知っていただくために、地
|下の遺構(昔の生活の跡)は大切に保存しながら、史跡の広場として整備しました。
                     近江国庁跡・掲示物「遺跡を活用するために」



 何だか、これがとても響いてしまって読みながら軽く涙ぐんでいる自分がいました。わたしが各地で感じてきたある種の拒絶反応といいますか、嫌悪感はすべて当時、必死に暮らしていた人々の営みに対する敬意や尊重よりも手前に、観光という名の営利なり、教育という名の捏造・歪曲なりが見え隠れしたものばかりだったからです。
 ですが、工事中の看板に囲まれ、復元の仕方も一見、中途半端にしか見えず、凡そ足を踏み入れたくなるような華やかさなどないこの近江国庁跡。それが、凛然かつ明確な意思のもとに、保全されていることが、わたしにはたまらなく嬉しかったのだと思います。

 もちろん、他の史跡も往事の人々の営みを蹂躙している、とは思っていません。ただ、何を最優先するべきなのか。その部分の考え方が、わたしとはたまたま合わなかっただけです。
 かつても何処かで書いた気がしますが、わたしがよく使う喩えとして、この手の遺跡や史跡は絶滅が危惧される野生生物と同じではないか、と。

 失われてしまうかも知れないものだから、保護して人間の手で生殖までコントロールして、そんな生命としての尊厳さえも汚しながら種を保存させるのが、果たしてその生物に対する愛情なのでしょうか。さらにはもう1歩、踏み進むならばそれにかかる予算を確保するために、そのレッドデータの生物を一般公開もするのが、と。
 あるいは、たとえ絶滅する日が来ようとも、その生物にある生命力にすべてを委ね、人間という別生物の干渉は控えることこそが愛情なのか。

 個人的には、干渉するのはどうなのか、と躊躇してしまう人間です。絶滅を絶滅として惜しむ感情すらも、突き詰めてしまえば人間ならではのものであって、野生生物は絶滅などという概念なんて持っていませんから。それこそが、人類の驕りではないのか、と。
 けれども同時に、他の生物では持ち得ない知識と技術と概念と。それらを持って生まれたからこそ、それらを他の生物にも捧げ活かすべきだ、とも考えることはわたしにだってできます。
 ...判りません。この自問への回答は、これまで何度も試みましたが、いつも最後は、
「判らない」
 そうなります。

 「遺跡にたたずんで、遺跡からいろいろなことを知っていただくために」
 特別、人寄せをするつもりもなく、脚色することもなく。けれども、復元などしなくても佇むだけで何かを感じ、考える人には、出来得る限りあったままを見て欲しい。そんな媚びるでも、肩肘をはるでもない当たり前の1文に、わたしもまた“遺跡からいろいろなことを知ることができた”のかも知れません。
 何も往時に関することだけでなくてもいいと思っています。わたしのような史跡というもの自体に対して、ずっと割り切れない思いを抱いている者が、それでも何かに少し触れられたと感じたならば。
 それもまた、遺跡に佇んで知ったこと、となるでしょう。

| 二年の春正月の甲子の朔に、賀正礼畢りて、即ち改新之詔を宣ひて曰はく、「其の一に曰
|はく、昔在の天皇等の立てたまへる子代の民・処ところの屯倉、及び、別には臣・連・伴造・
|国造・村首の所有る部曲の民・処処の田荘を罷めよ」
                  「日本書紀 巻25 孝徳天皇 大化2年(646年)1月1日」


 大化の改新の詔の1部です。これが、各国に国府や国庁がおかれるようになった、最初のきっかでした。そして、それを受け継いで律令を作り始めたのが大化の改新を推し進めた天智の弟・天武。さらには、遂にほぼ完成形としたのが、文武天皇。大宝律令の制定、という形を以てしての達成でした。時代にして約50年後となります。
 文武。彼は先鞭ともなった天智の曾孫です。そして同時に、天武の孫でもあります。大宝律令の制定に関連して、続日本紀にも天智はさておき、天武の時代より云々という件は記されています。







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