難波遷都が前年の3月、そしてその9ヵ月後となる翌年の元旦には、紫香楽宮に皇都の証としての大楯と大槍が立てられたのです。
 あの迷走、あるいは自らの祖先が辿った天皇としての行程をなぞった行幸から5年。果たしてこの聖武の足跡は、迷走であり狂気の現われだったのか。それとも、科学という力を持たない非力な人間の身には重過ぎる、万民の清栄という理想に、それでも近づこうと悩み、苦しんだ煩悶の道程だったのか。

 その答えを、科学という力を持ってしまっている現代人には出す資格などきっとない。少なくともわたし自身はそう思っています。...現代の尺度で測られてしまったら、聖武があまりにも不憫ではないか、と。
 もちろん、この造営に次ぐ造営の中で、田上山のように削られ、破壊されたものもあるでしょう。また、各地ではこれら京の造営とは別に、国分寺と国分尼寺が造られている真っ最中でもあります。聖武自身が、
「徒に民を苦しめてはならないから、だからそうやって造営した寺や仏や京による恩恵が、きちんと万民に届くように、それらは造らねばならない」
 と明言して詔した、国分寺と国分尼寺が、です。

 ...このロジックを、暴君ゆえの暴論と捉えることは容易いと思います。ただ、個人的にはとてもよく似た印象の事例として、フランスは悲劇の王妃と言われるマリーアントワネットが、国民はパンもなく飢えていると聞いた時に応えた
「パンがないのなら、ケーキを食べればいいじゃない」
 という言葉を思い出します。こちらも、とんでもない暴言、とされることが多いようですけれどもね。
 飢えるということがどういうものか知らなかったマリーと、造営に次ぐ造営によって疲弊してゆくことが、どういうものか知らなかった聖武と。

 被支配者には被支配者の哀しみも、痛みも、苦しみもあって。でも被支配者ならではの喜びや、愉しさだって必ずあります。同じように支配者には支配者の哀しみも、痛みも、苦しみも、喜びも、愉しみも、そして夢想も。
 ...いつの時代も、どこの土地でも、それぞれにある。ただ、それぞれに、です。

 やつかれのいましにあらず
 またいましやつかれならず
 空蝉のひとしき人にあるものゝ
 人はひとしきものならず
 人なるゆゑに違ひては
 違ふまにまに
 知らせむを
 知らまくほしを
 祈ひ祷みて
 あるがゝぎりの
 稲筵
 あるはすなはちみづのごと
 あるはすなはちつちのごと
 留まりつ流れ
 流れては留まりつなほし流れゆくを
 ほかなきひとしきものなれば
 いたくな言ひそ
 いまし来し方

 とこしへに知らえぬものゝ近ければおのづ知らるはやつかれの丈  遼川るか
 (於:信楽へ向かう国道307号途上)


 周囲の景色がそろそろ変わり始めてきました。ずっと山の中を走っていたのですが、道幅も広く、そして道路の両脇には民家や店舗などがまだ現われ始め、さらには増えてきています。また、そんな店舗の店先に所狭しと並んでいるのは、あの信楽の狸像たち。まさしく大狸もあれば、小狸もありといった状態は、なかなか壮観です。
 走っている国道と並走するように、恐らくは信楽高原鉄道でしょうか。それに因んでいるらしき鉄塔が田圃の中、所々に続いています。


 国道を脇道にそれると、途端にその1区画だけが農地ではない、でも林にしてはやや木々がまばらになっている空間となります。背の高い石碑と大きな看板にこうありました。
 紫香楽宮跡、と。

|夏四月戊子の朔、市の西の山に火あり。庚寅、寺の東の山に火あり。
                 「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)4月1〜3日」
|戊戌、宮城の東の山に火あり。連日きて滅えず。是に都下の男女、競ひ徃きて川に臨みて物
|を埋む。
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)4月11日」
|庚子、夜、微雨ふりて火乃ち滅え止む。
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)4月13日」
|是の日、通夜、地震ふる。
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)4月27日」
|五月戊午の朔、地震ふる。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月1日」
|己未、地震ふる。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月2日」
|是の日、太政官、諸司の官人等を召して、何の処を以て京とすべきかを問ふ。皆言さく
|「平城に都すべし」
| とまうす。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月2日」
|庚申、地震ふる。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月3日」
|辛酉、地震ふる。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月4日」
|大膳大夫正四位下栗栖王を平城の薬師寺に遣して、四大寺の衆僧を請ひ集へしめ、何の処
|を以て京とすべきかを問はしむ。僉曰さく
|「平城を以て都とすべし」
| とまうす。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月4日」
|壬戌、地震ふる。日夜止ます。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月5日」
|癸亥、地震ふる。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月6日」
|甲子、地震ふる。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月7日」
|乙丑、地震ふる。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月8日」
|四月より雨ふらず。種藝を得ず。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月8日」
|丙寅、地震ふる。近江の国民一千人を発して甲賀宮の辺の山の火を滅たしむ。
                   「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月9日」
|丁卯、地震
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月10日」
|是の時、甲賀宮空しくして人无し。盗賊充ち斥ちて、火も亦滅えず。
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月11日」
|癸酉、地震ふる。
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月16日」
|乙亥、地震ふる。
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)5月18日」
|是の日、宮門の大楯を樹つ。
                  「続日本紀 巻16 聖武天皇 天平17年(745年)6月14日」


 天平17年元旦に、皇都として定められた紫香楽宮が辿った、その後について。続日本紀から関連ある事項を列挙させて戴きました。...いやはや、何とも。
 自然災害だったのか、あるいは人為的なものだったのか。紫香楽宮は皇都となった年の4月から相次ぐ火事に襲われます。周囲の山が燃え始めてしまったのですが、如何にせん時代は天平です。現代ですら山火事レベルともなれば中々鎮火しませんし、それは空中と地上からの散水は行ったうえでのこと。

 ...そもそも水を汲む器としてせいぜい、須恵器と土器がある程度、という時代に山火事をどう消せというのでしょうか。雨が降ること、燃え尽きること。いずれにしても、自然に鎮火するのをただ、待つことしかできようはずもないでしょう。
 この火事については、紫香楽宮造営に反対する何某かの放火だったのではないか、という説をよく見かけます。正直、わたしには人為的なものだったのか、自然発火だったのかはよく判りませんし、判りたいとも思えません。ただ何れにしようとも、やはり歴史の歯車が聖武とは噛み合わなくなってしまったのだろう、と。
 ...非常に観念的ではありますけれど、そう感じています。

 火事に続いて、今度は地震の群発です。人々の不安もどんどん高まりますし、あちらこちらに意見を求めれば、みな平城を都とするべきだ、と具申する始末。
 そして聖武本人も身の安全を図るためなのか、他に理由があったのかは判りませんが、紫香楽宮から恭仁京を経て、また平城へと戻って。6月、遂に平城が再び皇都へ返り咲きます。

 そもそも最初は新都・恭仁京に対し、その北東に位置する仏都。そんな位置づけとして紫香楽の離宮は構想されたといいます。ただ、財政が破綻に近い状態になったことをきっかけに、連鎖反応的に全てが行き詰まってしまった、というのが客観的に感じることです。
 ただ、先のマリーの話ではないですが、そうであったならばむしろ、聖武本人よりも周囲の群臣たちにも、もう少しどうにかできなかったのかな、と思ってしまうのはまた事実。時の主導者・橘諸兄に対してはなおさらです。...あるいは諸兄もまた、マリーと同じだったのかも知れませんね。

 

 車を降りて最初に感じたのは、静けさでした。いや、紫香楽宮跡は国指定の史跡ですし、それなりに人が来られるように、と整備もされています。実際、わたし以外の来訪者もいました。小さな駐車場へは順番待ちをしてとめたほどです。
 なのに。それなのに、とにかく静かさだけが際立っていて周囲の木々の梢に切り取られた高い高い空を、思わず仰ぎ見ていました。

 順路に従って少しずつ登ります。...原野、とまでは流石に思いませんが、感じていたのは1300年近い時間というものの威力です。たった5ヵ月とはいえ、まがりなりにも皇都として造営されたはずの地が、すでに半ば原野にも近い状態になっているのです。すなわちこれが、この世の形あるものが、本来ならば負っている定めなのでしょう。
 順路を登るごとに、かつて建っていたであろう建造物の礎石が散らばっている広場があり、そこを進むとまた同様の広場があって。


 中門跡、金堂跡、経楼、僧坊、塔院、講堂...。静かな林に囲まれてるようにして眠っていた、1300年前の痕跡は、礎石だけしかないはずなのに、確かにその空間を満たしている空気、いや。圧のようなものがあって、しばし自身の呼吸音すら耳障りに思うほど、じっと立ち尽くすばかりでした。
 人々の思いの地層。そんな風に言うのが、わたしにはしっくりくる気がします。

 現在、紫香楽宮跡として国定史跡にされているのは、後の発掘によって紫香楽宮跡ではなくて当時、隣に建っていたという甲賀寺であったことが、ほぼ判明しているといいます。では本当の紫香楽宮跡は、というと近くの田圃の辺りだったらしく、そこから木簡が出土しているそうです。
 ですが、甲賀寺です。そう、聖武が最もしたいと願っていた大仏の建立。この大仏を鎮座させるべき寺、として建てられた寺こそが甲賀寺ですから、ここは聖武の描いた理想国家という夢の集積地、そのものなのではないでしょうか。

 思えば、大津宮もそうでした。そしてもしかすると、わたしの訪ねなかった保良宮もまた、大津やここ紫香楽と同様に、理想国家という夢に生まれ、理想国家という夢に滅んだ都だったのかも知れません。
 さゝなみのしが。偶然なのか、それとも必然だったのか。いずれにせよ、この近江国は、夢の残滓たちによる、あまりにも鮮やかな陰影に縁取られている国。そう思い至った途端、涙がひと粒、溢れて風に飛ばされてゆきました。
 ...いや、あるいはそう感じているわたし自身が、勝手な夢想をしているだけなのかも知れませんけれども。

 

 再び、平城へと戻った皇都。ですが、聖武は数々の思いを断念しながらも、本当に実現したかったことは、場所を変えても実現させてゆきます。
 はい、この国のみながよく知っている奈良は東大寺の大仏。ここ・紫香楽に大仏はなくとも、確かに1300年を経た今でも、聖武の夢の結晶は生きているのです。

 天平17年(745年)の平城遷都から5年後の天平勝宝元年(749年)7月。聖武は譲位して、孝謙女帝の時代が幕を開けます。

秋七月甲午、皇太子、禅を受けて、大極殿に即位きたまふ。
               「続日本紀 巻17 聖武天皇 天平勝宝元年(749年)7月2日」


 そしてその3年後である天平勝宝4年(752年)には、奈良の大仏が開眼。

|夏四月乙酉、盧舍那大仏の像成りて、始めて開眼す。
                「続日本紀 巻18 聖武天皇 天平勝宝4年(752年)4月9日」


 また、天平勝宝8年(756年)2月に橘諸兄が辞職し、同じ年の5月には、聖武が静かに永眠します。享年55歳。事実上、彼の永眠と同時に、天平という時代も、奈良という都も。...もう、終焉を迎えたということ。

|八歳春二月丙戌、左大臣正一位橘朝臣諸兄、致仕す。勅して、請に依りて許したまふ。
                 「続日本紀 巻19 聖武天皇 天平勝宝8年(756年)2月2日」

|是の日、太上天皇、寝殿に崩りましぬ。
                 「続日本紀 巻18 聖武天皇 天平勝宝8年(756年)5月2日」


 時代は流れてゆきます。流れ流れて決して止まることなどなく、諸兄に代わって台頭し、一時は権勢を欲しいままにしていた藤原仲麻呂が、それでも最後は謀反人として斬られたことは、すでに書いた通りです。

 この国の歴史の中で、国外にも大きく門戸を開いていた屈指の時代・天平。その落日の様は大きな大きな時代という歯車に挑んだ、ちっぽけな人間の軌跡です。ですが、滑稽とは思いませんし、憐憫の情も抱きません。そう、断じてです。
 ただ、権力を持ってしまった者の哀しみも喜びも、権力を持たなかった者の喜びも哀しみも。そのすべてを受けとめて流れる、時の川だけが何人も隔てることなく穏やかな眠りを授けてくれたら、と。
 それだけを胸に信楽の山の中で、掌を合わせました。

 人あれば人過ぐかぎり よろづよに天はひとつに土ひとつなるも  遼川るか
 (於:紫香楽宮跡)


 聖武と橘諸兄が残した歌から数首、因縁めいているものを引いておきます。前者は皇族だった諸兄が臣下に下り、橘姓を授かった時に天皇(聖武ではなく元正という説もあります)が詠んだもの。後者はもう晩年の諸兄が太上天皇だった元正への忠誠を謡ったものです。

|題詞:冬十一月、左大弁葛城王等に、橘の氏をたまへる時の御製歌一首
|橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木
                            聖武天皇「万葉集 巻6-1009」

|題詞:左大臣橘宿禰の詔に応ふる歌一首
|降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか
                             橘宿禰「万葉集 巻17-3922」



      −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 刻々と時間は過ぎてゆきます。スケジュールがこなしきれなかった時のために、と明日は1日予備日にしてあるのですが、それでも予定では今日中に、近江国を後にすることになっていたのですが。
「...多分、無理かもしれない。もう1日かな」
 そんなことを考え始めたのは、信楽の山を降り始めてからです。

 すでに3日目となる旅の疲れも溜まり始めていましたし、それ以上に今日は早朝からヘビィな訪問地ばかりを巡っていたせいで、精神的にも疲労してきていました。地図を眺めた限り、どう考えても日没まではすべては無理か、と。
 ですが、先のことは今は措くとして、取り敢えず進める所まで進もうと思います。

|白真弓石辺の山の常磐なる命なれやも恋ひつつ居らむ
                  作者未詳「万葉集 巻11-2444」柿本人麻呂歌集より撰


 「石辺の山の常磐のような永遠の命ではないのに、どうしてただ恋し続けていられようか。いや、逢わずにはいられない」

 「万葉集」。古歌紀行をするたびに、改めてこの歌集の奥行きに愕然とさせられます。何故ならば、ゆく先々に何らかの形で関わっている万葉歌が存在するからです。本当に東も、西も、何処でも。
 信楽の山を再び琵琶湖方面へ降ります。来た時とは違って、今度はさらに細い県道を、大津より東の湖南市に向けて、です。近年は市町村の合併が相次いで、1年前の地図でも地名や自治体区分が変わってしまうのには、正直いつも手を焼いています。今回の近江国には去年出たばかりの地図を持って来ていたというのに、今年4月の大合併で、特に湖東や湖南は地図と現在地が、どうも合致してくれません。

 わたしが頼りにしていた地図には、石部町が存在しているんですね。ですが今、走っているここは湖南市、と。いやはや、困惑すること頻りです。そして「万葉集」にも詠まれた石辺の山。その名を戴く石部という町が、消えてしまったことも、です。
 石辺の山。「万葉集」にはたった1首、前述の通り人麻呂歌集からの撰という形で採られた歌に、詠まれました。ですが、この歌、前半は万葉歌にありがちな序詞になっていますから、往時は人々の噂に上るくらいの山だったのかも知れません。歌としての区分は寄物陳思で、思いを寄せているものは石、とされているようですから、もしかしたら石の産地だったのか、あるいは大岩があってそれが噂になっていたのかも知れませんね。

 近江入りする前に、いくつかの資料で調べた範囲ではこの石辺の山。詳細は不明となっていました。ですが恐らくは、と目されている山はあるようで、それが式内社の石部鹿塩上神社の裏手にあるという、松籟山です。
 ただ、困ったことに余程、小さな山なのか手持ちの地図関係での捜索は全滅でして、目印となる石部鹿塩上神社も同様。...余談になりますが、延喜式による社格も小、となっていますからもしかすると現存すらも危ういお社かもしれません。

 これまでの古歌紀行でも、もうどうにも地理的な手掛かりが掴めない、という訪問地は複数ありました。そして、そういう場所に限って地元の方に尋ねても、ご存じないことがとても多く...。
 そんな予感はやはり的中しました。あちらこちらで訊いて周るも、みなさん一様に
「ちょっと判らないですね」
 と。

 できるだけ急ぎたい。でも、訪問地も諦めたくない。そんな煩悶にジリジリしつつも、周囲の自治会地図やら、地番表記やらをひたすらキョロキョロ。悪いことに駅が近いのか、一方通行が増えてきて、自分のいる地点を頭の中で俯瞰図に置き換えられなくなってきまして。つまり、すでに自分が地図上の何処にいるのかが判らなくなりかかっている、ということです。
「...もう、だめかな。飛ばして次にゆくしかないか」
 自然と洩れた独り言です。

 とにかくいつまでも迷っているわけにはゆかないのであと1人、地元の人にお尋ねして、それでだめなら次の訪問地へ。そう決めて、たまたま通りかかったおじいさんに尋ねます。
「すみません、石部鹿塩上神社ってご存知でしょうか」
「...知らんなあ」
「...そう、ですか。それならば松籟山はご存知ないですか」
「...何処」
「松籟山です」
「ああ、松籟山ならこの先を左に曲がって真っ直ぐゆくと自治会館みたいなのがあるから、その裏手にあたるよ」
「ああ、そうなんですか。近いですか」
「近い近い、すぐそこだよ。山を拓いて公園になっているからゆけば判るさ」
「ありがとうございます」







BEFORE  BACK  NEXT