そうしてまたゆっくり車を走らせながら、ちょっと不安になっていました。何故ならばすぐそこの山、と言われても周囲に見えているのは遠くの山ばかりですし、何よりも自分が走っている道路が、とても平らなんですね。
 これでごく近くに山があるというのが何とも...。

 おじいさんに教えて戴いた通り、左折して道なりに進みます。ですが、狭い路地の住宅地の中に入ってしまい、またしてもうろうろ。ちょっとした広場のような所に近所の子どもたちでしょうか。ボール遊びをしているようで、その中に若いお母さんがいらしたので、同じことを尋ねました。
 すると
「これから松籟山に登りますから、ご一緒しませんか」
 と。...どうやら問題の松籟山は、山と言っても散歩感覚で登れるくらいの高さなのでしょう。

 若いお母さんと、まだ小学校に上がるか上がらないか、というくらいの坊やと、彼らからすれば何処の誰とも判らない旅人と。3人で進む野原の中の砂利道の先には、まるで自身が子どもの頃に遊んだような近所の山、あるいは丘です。
 さっきのおじいさんが言っていたように、かなり山を拓いたのでしょう。手前側の斜面には樹木が殆どなく、けれども下草は青々と茂っています。その草叢に人が歩いてつけたちょっとした道があり、道とは離れた斜面にはカラフルな遊具も少し据えられていました。

 何でもこの山の持ち主、もしくは管理しているお宅に嫁がれた若奥さまなのだとか。そしてこの松籟山を、公園として整備しようとしていらっしゃることを聞きました。
「山を拓いたら、途端にゴミがすごくなってしまったので、毎日2回、子どもと登ってゴミを拾っているんですよ」
 実際に、登りながら彼女は幾つかのゴミを拾っていました。この松籟山が、「万葉集」に詠まれた石辺の山、とする説が有力であることをお話したら、ご存知なかったらしく驚かれていましたけれども。

 台風一過の晴天と暑さで、汗を拭きつつ、薮蚊に腕や頬を刺されつつ、登りきった丘の頂上には小さなお稲荷さまが1つ。後から確認したことですが、これは石部鹿塩上神社ではないようです。建っていた石碑には官幣大社の日吉神社宮司、と彫られていました。
 また、余談になりますが石部鹿塩上神社は現在、吉姫神社という名前になっているとのことで、とても豪華な社殿の古社なのだそうです。

 

 息が切れるというほどの勾配でもなく、でも汗が次々に噴き出したあとの高台は、涼やかな風が吹き抜けていて気持ちよく、思わず束ねていた髪を解きました。遠くには比良や比叡の山々が、かすかに。
 今回の旅で、特に重要視していた大津界隈と紫香楽宮跡を無事、訪ね終えられたからでしょうか。何だか神奈川を発ってから初めて、開放的な気持ちになれていました。

 「本当は、この斜面を下まで一気に降りられる滑り台を設置しようとしていたんですよ。でも、ものすごくお金が掛かるので諦めました」
「そうなんですか」
「まだ公園として完成できていないので、来年また来てください、ぜひ」
「...ええと」
「ぜひ、ぜひ」
 熱心に話しかけてくれている彼女の言葉を聞きながら、色々な思いが断片的に浮上して、沈んで、消えて。まるで膨らんでは七色に光って、そして消えるしゃぼん玉みたいに、次々と何かが弾けてゆくのを感じていました。

 人の欲、望み、願い、祈り。世界には、それぞれの地域に、時代に、...それぞれの人が存在しています。そして、その誰もが何かを欲してもいて。
 古代国家という野望もあったでしょう。御仏に鎮護された仏教都市という切望もあったでしょう。掛かる火の粉を払ったのか、あるいは権勢奪取の欲望だったのかは判らないまでも、自らの命と未来を賭した男は、とにかく生き抜くことを願い、欲しました。

 それだけではありません。そういった遠いいにしえの人々の営みたち。その断片同士を繋げては、
「こうであったらドラマチックかもしれない」
「ああだったら素敵だと思う」
 と様々な歴史絵巻を創り上げていった歴代の人々の夢想もまた、人間という生き物の欲と願いの発露です。そして、4516首の万葉歌たちの中には、人間の欲望が結晶のように封じ込まれてもいて。

 誰だって望む権利はあり、誰だって自身を守る権利もあります。ですが時に、それは別の誰かの望みを阻み、誰かを責めることと表裏一体ともなります。誰も傷めたくなどないのに、みんなで笑っていたのに、自分を守ることで結果として、誰かを傷めてしまう。
 そんな哀しくも残酷な相対性のうえに、わたしたちの世界が成立している以上、人として生まれた哀しみは、命ある限り続くのでしょうね。

 ならば望むのをやめるのか。それとも、その哀しみを哀しみとせずに生きるのか。あるいは、その哀しみを抱えたまま、哀しみから視線を逸らすことなく敢えて生きてゆくのか。
 今のわたしに考え得る選択肢は、この3つくらいしかありません。そして、わたし自身の答えは、選ぶまでもなく決まっています。自身の痛みに常に敏感でありたいです。そして誰かを傷めていることにも常に自覚的でありたいです。

 望みの形は人それぞれ大きいものも、小さいものも、千差万別。また、同じ1個の人間の中にも複数の大きい望みも、小さい望みも犇いています。ですが、そのどれもが望みであることには変わりなどないでしょう。
 個人的には、自分を守ろうとする余り、誰かを蔑んだり、踏みつけにする。そんなことをするくらいなら、背筋を丸めたままでもいい、とずっと思っていました。ですが、違いますね。正確には、むしろその方が安心だと知っていたから、そこに逃げてしまっていただけなのだと思います。

 ですが、それでは同じなんですね。矛先が自分か、他人か、という違いだけであって、自身の願いを願いとして、きちんと背負いきっていない、と言いますか。
 人の世に理想郷はありません。誰もが痛まず、誰も傷めず、みなが等しく幸せで微笑み交し合えるような世界は、人の世であるからこそ存在しません。自分が我慢すればそれでいい、という発想は自分さえ良ければそれでいい、という発想と根源的には多分、何も違わないように、今のわたしならば感じられます。自己犠牲もまた、犠牲には他ならないのだ、と。

 小さな、小さな石辺の山。けれども、その山を守るために毎日登り続ける人々がいます。たったそれだけのことです。ですがその、たったそれだけのことがわたしにとってはどれほど重く、厳粛だったのかは、どうもうまく綴れません。
 ただ、敢えて語るのならば夢を見たがる世界の中で、人は人であるが故の哀しみを負って生きている。この現実を真っ直ぐに、そして真摯に受け止めたい、と心から思えてしまっていたんですね。...もちろん、支離滅裂は承知の上です。

 わたしにとって、これは激震とも言える大きな波。すなわち石辺の山が、それくらい大きな波を生みだしたということです、
 小さな山でも。山とは言えない丘であっても。それでも石辺の山はやはり大山なのだ、と。軽く唇を噛み締めながら思い続けていました。


 旅という非日常。だからこそその中で、感じやすくなれる自身がいて、感じる何かを授けてくれる出会いもあります。人もそうですし、景色の1つも、風の1陣も。そしてその先には、そうやって醒めてゆく新しい自身との出会いもあって。
 だからわたしは旅を続けます。そして、謡います。小さな思いの1つひとつを、結晶にして封じ込めるために。

 白真弓石辺の山のおほきなる空にし醒めむ人の子とてや  遼川るか
 (於:松籟山)


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 東海道51番目の宿場だったという石部界隈を後にした時には、もう陽射しが傾き始めてしまっていました。...やはり、間に合わないようですね。
 少しずつ、少しずつ、黄昏時に向かって翳ってゆく中、車は近江入りした日に、訪ねて周った界隈へと近づいてきています。

 昨日、この時間帯はすでにぽつり、ぽつりと雨に降られ始めていましたし、茜色の空など当然ですけれど見ることは叶いませんでした。ですが、今日は違います。また、初日も午前中が雨だったにも関わらず、とても綺麗な夕空と遭遇できました。
 ...もちろん、こんなことは単なる偶然ですけれど、やはり彼女に縁ある土地で、茜空と遭遇できるのはちょっと嬉しいものです。
 はい、茜空と言えばもちろん彼女のこと。額田王です。すでに彼女については詳細を前述していますので、再度それを繰り返すつもりはありません。ですが、額田王。こう「万葉集」に記された彼女が誰だったのか、という謎についてのみはもう少し考えてもいいかな、と思っています。

 額田王。その名前からして、彼女が皇族であったであろうことはすでに書きました。また、壬申の乱に因んで、当時の皇族の名前に関する法則についても、前述しています。
 つまり、彼女の養育係か、それに匹敵する存在の拠点とする土地の名前が額田、といったのでしょうし、王という以上は皇族である、と。

 ですが、同時に件の日本書紀の記述についても考慮しなければならないでしょう。

|天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。
                    「日本書紀 巻29 天武2年(674年)2月」再引用


 これに習うならば、やはり額田というのは養育係に関連する土地、となります。また、ここで候補として挙げられるのが大和国の平群郡額田郡(現在の奈良県生駒郡平群町)と、三河国額田郡(現在の愛知県岡崎市〜額田郡幸田町界隈)などです。
 一方、彼女の父親とされる人物が鏡王とありますが、この人物については他に記述は残っていないようですね。ですが、よく耳にする通説では宣化天皇の曾孫にして、近江国野洲郡鏡の里の豪族だった、とのことですがどうなのでしょうか。

 県道・竜王石部線は、高架になっている名神高速道路と揃って北東へと伸びていました。けれどもやがて現れた竜王のICの近くで、国道477号にぶつかり、そこで終点。高架と別れて、そのまま国道を北へと真っ直ぐ進めば、もう周囲の地番表記が鏡、という1文字になり始めます。
 鏡の里。東海道と並ぶ、歴史的大動脈の中山道は、上古の時代よりあった東山道を前身にしていました。そして、その東山道にあった宿は必ずしも、中山道69次とイコールではありません。つまり、東山道にはあっても中山道にはない宿があった、ということで鏡の里もその1つなのだといいます。
 なるほど。走ってきた国道は、国道8号(中山道)とぶつかっていますし、国道8号沿いにはこんなお社が鎮座しています。その名も鏡神社、と。

 お社からごく近くの道の駅に車を止めて、とにかく参拝から。やはりこのお社にも神楽殿があり、しかも本殿は禁足の地。...関西の方にとっては特別、珍しいことではないのかもしれませんが、関東の人間にとっては街中の小さなお社の多くが、こういった造りと規模であることに驚いてしまいますね。
 もう太陽の角度が角度なので、建物の影になってしまって西日が射し込まない境内は静かで、すぐ目の前を中山道が走っているとは思えないほどの厳かさの中にありました。


 鏡神社。本殿その他が、重文指定されているということは事前に知っていたのですが、歴史的には上代よりもむしろ、中世に存在感を放っていたようです。源義経がこの地で元服をし、武運を祈ったのだ、といいます。また、神社ではありませんが後深草院二条のとはずがたりも、この界隈について記述していますね。

| 二月の二十日あまりの月とともに都を出で侍れば、なにとなく捨て果てにしすみかな
|がらも、またと思ふべき世のならひかはと思ふより、袖の涙もいまさら、宿る月さへ濡る
|るがほにやとまでおぼゆるに、われながら心弱くおぼえつつ、逢坂の関ときけば、宮も藁
|屋も果てしなくとながめすぐしけん蝉丸のすみかも、跡だにもなく、関の清水にやどるわ
|が面影は、出で立つ足もとよりうちはじめ、ならはぬ旅の装ひいとあはれにて、やすらは
|るるに、いと盛りとみゆる桜のただ一木あるも、これさへ見捨てがたきに、田舎人とみゆ
|るが、馬の上四五人きたなげならぬが、またこの花のもとに休らふも、同じ心にやとおぼ
|えて、

|行く人の心をとむる桜かな花や関守あふさかの山

|など思ひつづけて、鏡の宿といふところにも着きぬ。暮るるほどなれば、遊女ども契り求
|めてありくさま、憂かりける世のならひかなとおぼえて、いと悲し。明けゆく鐘の音にす
|すめられて出で立つも、あはれに悲しきに、

|立ちよりてみるとも知らじ鏡山心のうちに残るおもかげ
           後深草院二条「とはずがたり 巻4-1 都を立つ、逢坂、赤坂の遊女」


 宿場だけあって、夕方になると遊女が客を引く。そんな界隈だったようですね、中世の鏡の里は。けれどもこれが万葉期や、それよりさらに時代を遡った古代では、当然ですけれどまた違いました。どうやら須恵器の産地だったようです。
 須恵器。陶質土器のことですが、それまでの土器が野焼きで作られていたのに対し、穴窯の中、非常な高温で焼かれた土器のことです。

 ...もうお判りでしょう。その須恵器の産地、ということですからこの地には古代、大きな穴窯があったことになりますし、そもそも須恵器の文化は大陸渡来のもの。そう、この鏡の里は上古の時代、渡来人の里でもあったわけで、額田王もまた渡来系ではなかったのではないか、とされている根拠の1つでもあります。
 額田以外にも、渡来系と目されている、あるいは断定されている万葉歌人は、意外に多いです。「あきづしまやまとゆ」で書きましたが、山上憶良はその筆頭格でしょう。

 直接的には額田と関連していませんが、ここ・鏡神社の祭神もまた渡来系として記紀に明記されている、数少ない存在です。天日槍神。これが鏡神社の祭神です。
 古事記から引きます。

|また昔、新羅の国王の子ありき。名は天之日矛といふ。この人参り渡り来ぬ。
                    「古事記 中巻 応神天皇 8 天之日矛の渡来」


 ほぼ同様の展開となる記述は、日本書紀にも収められているのですが、日本書紀では垂仁天皇紀の挿話となっています。内容を簡単に要約します。
 曰く、新羅の阿具奴摩という沼で女が昼寝をしていたところ、その陰部に陽射しがあたってすぐに妊娠。そして赤い玉を産みます。その様子を見ていたある男が、玉を譲り受けるのですが、今度はその男が、誤解から投獄されてしまいます。
 許してもらう代償として、男はその玉を天之日矛(天日槍の古事記での表記)に差し出したところ、玉は美しい娘となります。

 娘を妻にした天之日矛。娘も彼に日々尽くします。けれどもある日、天之日矛が娘を罵ったために、娘は親の国に帰る、と逃亡。これが日本ということですね。
 反省した天之日矛は娘を追って渡来するのですが、どうしても娘とは再び会うこと叶わず、但馬国にて現地の娘と結婚しましたとさ。
 大体、こんな内容になるでしょうか。

 いやはや、記紀をあれこれと読んでいても、こうも明確に渡来系とされている神様は他にいなかったように記憶していますが、その天日槍を祀る渡来人の里。それが鏡の里であり、同時にもしかしたならば、額田の出自と関わりあるかも知れない、ということですね。
 こんな記述も、日本書紀にあります。

|天日槍、菟道河より泝りて、北近江国吾名邑に入りて暫く住む。復更近江より若狭国を経
|て、西但馬国に到りて則ち住処を定む。是を以て、近江国の鏡村の谷の陶人は、天日槍之従
|人なり。
                  「日本書紀 巻6 垂仁天皇 垂仁3年(紀元前27年)3月

|又佐平余自信・佐平鬼室集斯等、男女七百余人を以て、近江国蒲生郡に遷し居く。又大唐、
|郭務等二千余人を遣せり。
                     「日本書紀 巻27 天智天皇 天智8年(669年)」


 額田に限定したことではなく、改めてわたしたちは何処から来たのか。そんな思いが足元からせり上がって来るような感覚に襲われながら、夕風の吹き寄せる境内に立ち尽くしている自身がいました。
 本当に、わたしたちは。いや、わたしは。何処から来たのでしょうね。

 ただ、額田にしても、憶良にしても、いや。それどころか、わたし自身も含めたすべての日本人にしても。出自をずっと遡ってゆけば必ず、国という概念すらない時代にも、辿り着けることでしょう。
 大陸から来たのか、あるいは海人族のいずれかとして、この島国に住み着いたのか。どちらにせよ国という概念は、人より後から来たものです。人が、作り上げたものです。ならばそもそも、
「何処から来たのか」
 という問いに、国で答えること自体がナンセンス、とも言えてしまうのではないでしょうか。額田が誰で、何処から来たのか。そして、わたしは誰で、何処から来て今ここにいるのか。いられるのか。

 極めて個人的な認識と感覚論になりますが、わたしはこの日本という国をガラパゴスのような国、と感じています。琉球とアイヌと倭。あるいは大陸系と南方系。この国は決して単一民族ではないですが、それでもそこで育った人間たちの感覚や概念に底流しているのは、地続きではないがゆえのものだ、と。
 日本人の感覚を否定も、批判も、するつもりはありませんけれど、どうしても内側にばかり目が行きがちな思考・行動パターンや、
「異なる者を忌む、異なることを恐れる」
 という素地は、とてもとても美徳であり、同時に醜悪だ、とも。

 同じであることに安堵し、同じであることを尊ぶ。すなわちそれが、紛うことなき
「和する文化」
 なのでしょう。けれどもその表裏一体の事実とは、
「個として立つのが苦手な傾向」
 ともなります。また和する対象を、あくまでも和することのできる同胞に求める傾向も強いと感じますし、それは言い直せば交わることを敬遠する傾向、ともなりますね。...常に異なるものと隣り合い、融和も、区別も、繰り返してきた民族とは、やはり大きく違うと思います。

 そもそも、ここが島であり、同時に島よりも大きな大陸というものが世界にはある、ということをこの国の人々はいつから知っていたのでしょうか。史実として明確であろうものは遣隋使あたりから、となりますか。
 ですが、隋に人材を派遣するという発想からしてすでに、島であることを知っていたからこそのもの。邪馬台国の金印。雪野山古墳から大量に出土したという鏡たち。魏志倭人伝と倭国の5王。その5王、讃・珍・済・興・武は履中天皇から雄略天皇まで、とするのが有力です。履中は、あの億計・弘計の祖父となります。
 本当に、いつから...。


 中山道を渡って、道の駅へ戻ります。何だかとてもとても疲れていました。身体がというのではなく、心がというのでもなく、ただ頭が疲れてしまっていて。駐車場に車を止めたまま、そのままシートにもたれてぼんやりし続けました。時間にして30分くらいだったでしょうか。
 鏡神社では、ついぞ歌も詠むことができずただただ、様々な知識や、記憶や、推測の断片たちが渦巻いては脈打ってしまって、もうどうにも。

 近江国。ここまでにも数ヵ所、予定していたにも関わらず訪ねるのを断念した場所がありました。ですが、何とか今日中に訪問したい、しよう。...そう思っていた故地がまだ3ヵ所ほど手付かずのままです。
 そのうちの1ヵ所だけならば、今から急げば大丈夫かもしれません。ですが、甲賀の山の向こう側にある飛び地は、無理です。

 「もう1泊しようか...。そうすれば、今回の旅では訪ねるつもりがなかった沖島にも、渡れるんだもの。...もう1泊、してしまおうか」
 迷っていたのは、ほんの数分です。そしてすぐさま、近江八幡に宿をとるために携帯電話に手を伸ばしていました。
 もう1日。もう1日だけ。あれこれと理由はあれど結局、わたしは近江国を去りたくないのです。もっともっと、この国にいたいのです。

 さゝなみのしが なにしかもあれこにあるか
 地は地に道は道にも継ぎても継がる

 しほうみの先に土あり陸も島も
 陸にてあふみ隠れぬ弥遠長し

 綿津見はみづ空こそはかぜゆゑ来ぬれ
 あがあもがあもがあもとてなべて児なりき

 世は広く広きを知られしあれをし祝かむ
 大八島もなほし広くもなほし広き世

 内ゆ外に外ゆ内に来つゆくがあが旅
 このこなることはりを欲る いざ賜はむや

 其は其なり是の是なりゐるがごとくに
 あがゝはべあれ守れどもいましに離る

 はじまりは綿津見なるかゝつも陸か
 はじまりは闇でありしか日にありしか

 あれ問ふはあれがゝぎりにあれのまにまに
 あれ答ふ あれ問ふかぎりあれ欲るかぎり

 空蝉のひとの子なるはかなしびと沁み
 かなしびをかなしばるゝもひとなるがよし

 天ありて地ありて世に結ぶ玉の緒
 息の緒は時のまにまになゝえそなえそ      遼川るか
 (於:道の駅・鏡の里駐車場)







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