旧丸山町界隈の風車 2013.11.16
| その労苦を偲んで、古代の人の心に触れたいものです。
                  真福寺境内の石碑「たちこもの抄」抜粋・再引用


 あの何気ない石碑の一文が宿している重み。これに気づけるようになれるのにも、本格的に上代文学と向き合うようになってから、かれこれ20年を要してしまっているわたしがいます。
 いやいや、本当に。必要な遠回りなのかもしれませんが、改めて自身の未熟と、けれどももう気づけたという事実が、お腹の底のほうで柔らかな重みとなって伝わってきました。

 ともあれ、たはみづらです。類歌に詠まれているいはゐつらは、現代でいうところのスベリヒユだとされていますけれども、どうなんでしょうね。スベリヒユ自体は畑の雑草として今でも、そこここでも見かけますし、ただ結構簡単に抜ける雑草だったような...。あと食べられるのも知っていますけれど、それほどぬめりが強かったですかね。何となく、歌の印象とは合致していない気がしてしまいます。
 一方のヒルムシロ。こちらも少し調べてみたのですが、近年ではずいぶん減ってしまっている、もしかしたらレッドデータなのかもしれません。農害草としての程度は「強」。多年草で繁殖力自体はかなり強いらしいのですが、どうなのでしょう。ただ、確かに水中でどんどん繁殖するあたりは、1つを抜こうとすると一気にずるずる、たくさんの根や水中茎が芋づる式になることは間違いないようですから、たはみづら=ヒルムシロ、とするのはそれほど無理筋ではないのかもしれません。

 男女の仲が途切れず、絶えず、長く続く。それを比喩するところに蔓系の草が登場するわけですが、このあたりも現代とは異なった感覚なのかもしれません。...個人的な感覚論になってしまって恐縮ですが、わたしならば少なくとも“ずるずる”続きそうな蔓草系のものは、そういう祈りや願いを仮託させる材にはやや...。もとい、かなり難いか、と。むしろ、逆のイメージに繋がりそうなんですが。
 勝手な解釈をさせて頂くならば、現代のような夫婦という概念も緩く、通い婚が前提だった大らかな時代。男女の仲というのは細く長く続くのが宜しかったのかもしれませんね。一夫一婦制が当たり前で、別居結婚もありとは言え、多くの人が夫婦で同居する現代とは、根本が違いすぎる気がします。

 南房総内陸部の山道は、さほど急峻ではなく、けれどもそれなりの坂とカーブを繰り返します。そして、時々現れる白い風車。合併によって、現在は南房総市に組み込まれていますが、かつての自治体区分で丸山町とされていた地域は、この白い風車が名物。わたし自身も詳しくは知らないのですけれど、このあたりの地質があまり水田には向かなかったことから、開発・設置されたものだ、と聞いています。とても水持ちが悪く、直ぐに土に浸透してしまったそうなんですね。だから風車による水揚げを、ということなのでしょう。
 余談ですが、その後はポンプによる水揚げがなされるようになったため、現存している風車は実質的には景観用なのだそうですが。...さすがに万葉期にも風車があった、とは思うわけもありませんが、それでもこの地に暮らしていた人々の農作業上の苦労はうっすらと想像できそうですし、そうであるならばああいった民謡が自然と謡われるようになったことも、何となくならば手繰れそうです。

 水田に生えることが嫌われる蔓草。しかも元々が、水田にはあまり向かない地に、そんなものがたくさん生えてしまったら、当然みな生える端から抜こうとするでしょう。けれども、その蔓草は憎らしいことにぬるぬる、ずるずると抜いても抜いても繋がっている...。そんな、半ば呪わしいけれども、だからこそそれに等しく続く仲でありたい。そんな背景だと想像するのは、少しばかり穿った見方でしょうか。
 あるいは、この手の古代歌謡に多く見られるある主の諧謔、なのかも知れませんね。...いや、これこそがまさしく穿った見方、なのでしょうけれども。

 ・・・正直、初めての経験かもしれません。いや、この手の山を詠み込んだ歌の場合、どうしてもその姿がきちんと拝めるように少し離れた場所から、わたしは山を眺めてきましたから。ですが、この万葉歌に限っては山容は殆ど拝めませんし、もうすっかり山の中、です。そうしなければ手繰れない歌ですから、それ自体には何も問題がないのですけれど、こうして山中にいる自分が何だか馴染みなくて、若干の困惑も伴います。
 何処かで車を停められたらいいな、とは思っていたのですが残念ながら叶いそうにありません。通行量は間違っても多くない道路ではありますが、かといって路肩に停めて云々、と構えられるほどではなし。

 安波峰ろ。歌自体は山の中に軸足を置いているものですが、どうやらわたし自身は、やはり少し下ってから振り返り見ることになりそうですね。

 安波峰ろの峰ろに穂の満つ
 みづの満つ
 風よりしかば
 ひとのゑふ
 ひとゑひしかば
 こゑは満ち
 こゑ満ちしかば
 歌のいづ
 いで謡はむや
 いで祝かむ
 今夜に朝に舞ひ謡ひ
 峰ろ田に集ひ
 穂を成さむ
 穂の真秀ならむ
 去年今年ひと日を束ね
 こゑ束ね
 祈ひ祷むことを束ねては
 たれも幸はふ
 みなひとの真幸きくあるを
 なほしあれ
 真幸きくあるを祈ひ祷みて
 こにし来し来し
 こゆ越ゆを
 こゆ越え越ゆを
 謡ひ謡はむ

 地に在るはおほみたからのこゑゆゑ謡はむ
 ひと在るは天のことはりゆゑなほし生く     遼川るか
 (於:国道410号途上)


        −・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 「あきづしまやまとゆ・弐」で、こんな歌を引かせていただいたことがあります。

|我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに
                        作者未詳「万葉集 巻10-1822」


 鏡女王の歌に登場する、呼子鳥。これに関連しての引用だったと記憶していますけれども、その際にこうも書いていましたね。

| 余談になりますが、引用歌の中に登場している莫越の山。こちらもやはり場所が
|定かではありませんね。奈良盆地の巨勢方面にある、という説はよく目にします。け
|れども、そうかと思えば、はるか遠い東国は安房国。現在の千葉県ですが、その房総
|半島の先端へ程近い地に莫越山ではないか、といわれる山と、莫越山神社が存在し
|ているのだ、といいます。
                      遼川るか「あきづしまやまとゆ・弐」


 はい、その莫越の山です。恐らく、山そのものは定説通り大和国は巨勢が相応しいように感じます。といいますのも、件の歌がどうにも洗練されているからなんですね。恋歌、それも妻から夫への恋歌となりますが東国のもの、すなわち民謡とするには、この端正さがどうにも...。
 ならばといって防人に出た夫を思っての歌とするならば、地理的にいかがなものか、と。「さねさしさがむゆ〜足柄峠」で詳細に書きましたが、東国から西へと向かった人との別れの地として詠まれたのは、やはり東国=あづまの際であった足柄が1番多いですし、この地の出身者ならば海路で相模に渡ったでしょうから、南房総内陸部とは位置関係が合致しません。

 歌そのものの雰囲気からしても、やはりこれが詠まれたのは当時の都に程近い巨勢あたりなのでしょう。...目下、安房国を訪ねている身としては少々残念ですが、致し方ありません。ですが、前記引用のように莫越山神社、は存在しているんですね。それも何故か2社、です。
 延喜式にこうあります。

|安房国六座 大二座 小四座
|安房郡二座 並
|      大
|      安房坐神社 名神大。月次。新甞
|      后神天比理乃当ス神社 大。元名洲神
|朝夷郡四座 並
|      小
|       天神社 
|      莫越山神社
|       下立松原神社 
|      高家神社
                            「延喜式 巻9 神祇9」


 莫越山神社。式内社で社格は小。式内社なのですから当然、どれほど遅く見積もったとしても平安末期には、すでに安房国に莫越山神社と呼ばれるお社が鎮座していたことになりますけれど、恐らくはその後の時代、あるいはそれ以前から、何らかの経緯によって2つ建てられてしまった莫越山神社。
 南房総の内陸部を南下。次第に道路は下りが多くなり、確実に海岸部へ向けて標高が低くなってきているのが判ります。2つの莫越山神社はそれほど離れた場所に建っているのではなく、市町村合併前の自治体で語るならば、旧丸山町にいずれも存在しています。一方は宮下地区に、もう一方は沓見地区に、です。まずはより内陸にある宮下地区の莫越山神社へ、向かいましょう。

 宮下地区の莫越山神社は、地図から判断するに、恐らくは三輪山に対する大神神社のように山を臨む形で建っているようです。元々は山岳信仰から始まった土着のひもろぎ、あるいは遥拝所だったのでしょうか。また、祭神は手置帆負命と彦狹知命。併せて祀られているのは、小民命と御道命、となります。きっと、土着の山岳信仰に後から、祭神たる手置帆負命や彦狹知命らが祀られた、と考えるが順当でしょう。
 ...しかし、ここで手置帆負命や彦狹知命といった名前が出てくると、やはり南房総、やはり安房国、と思ってしまいますね。安房が何故“あは”なのか。そもそものこの地の開闢...、としてしまうと語弊がありすぎますが、開拓に纏わるお話です。


 国道410号を右折して、田圃の中を進みます。8月を目前に控えた青田は、すでに随分と稲の背丈も高くなっていて時折、吹き寄せる風に田圃全体が大きくうねります。そんな抜けのよい視界に白い鳥居がぽつん、と浮かんでいて。...恐らくは、あそこが宮下の莫越山神社なのでしょう。
 車が行き違うことの出来ない幅の道、それも両側は田圃というシチュエーションをのんびり進みます。鳥居に近づくにつれ、どうやら短いながらもそれなりの参道があるお社だということも判明しました。ならば、適当なところで車を停めないとなりませんね。ちょうど鳥居の斜向かいが空き地になっているようですから、そこでいいでしょう。

 実は、3年ほど前に莫越山神社を探して、この界隈を周ったことがあります。その時も仕事で近くまで来ていたことがきっかけだったのですが結局、こちら宮下の莫越山神社には辿り着けず、沓見の方だけで時間切れになってしまったこと、覚えています。...たまたま、その日、安房ではなく上総国の一ノ宮である玉前神社(長生郡一宮町)の例大祭だったものですから、ついそちらに時間を費やしてしまいまして。
 玉前神社が伝承しているという神楽舞や、氏子のチビちゃんたちに白装束を纏わせて馬に乗せて行う神事、そしてお神輿の行軍などなどをふらふらと眺め続けてしまって、それから慌てて探した莫越山神社。
「あの時、こられなかったのは、こんなお社だったのか...」
 最初の鳥居を潜る瞬間、ちょっぴり不思議な気持ちになりました。


 あの時も、そしてそれから今日までも。宮下の莫越山神社はずっと変わらずにここにあったのに。それどころか、あの時よりも更に更に昔から。...ずっとここにあったというのに、気まぐれに立ち寄る者にとってのそこは、線には到底なり得ない、点としてのみの存在。わたしにとっては、今日が初めて。けれども、それは宮下の莫越山神社という、長い長い線の途中にして刹那。...当たり前のことなんですけれどもね。でも、その当たり前がわたしには奇異なくらい、厳粛に思えました。
 鳥居をくぐります。幣が風にそよぐ向こうに見えるのは恐らくはご神体の莫越山。正式名は渡度山(とどやま。同じく止々山という表記もあるようです)とのこと。この山自体の経緯は寡聞にして知りませんが、このお社の奥宮が、山頂にあるという記述は何かで読んだ記憶があります。やはり三輪山型の山岳信仰なのでしょう。


 大和の巨勢山と山容が似ているからこそ、この名がついた、という通説も数回見かけていますが、真偽は不明。ただ、このお社の氏子さんたちが節分の夜に、件の万葉歌を唱える、という行事も戦前くらいまでは続いていたと、聞いています。...少なくとも古くから地元の人々にとっては、渡度山は莫越山だったのでしょうね。
 また、実際に来てみて思うに、ご神体の山であれば禁足地。すなわち、越してはならない山という意を負ったのは、解らないお話ではありません。
「な越しそね」
 どうか越さないでくださいね、という意を上代語に直すならば、こうもなりますし、なこしそね→なこし、となるのはそれほど強引とも思えません。...もっともすべては後つけ、と言ってしまえばそれまでなのかもしれませんが。

 どうなんでしょうね。前述している長狭郡上丁丈部与呂麻呂の防人歌“たちこもの〜”も、東国のものとは思い難い巧みさでしたから、あるいは洗練されているからといって、この地に縁のものではない、としてしまうのも少々早計なのかもしれません。
 ですが、だとすればなおさら万葉後期あたりのものとなってしまうでしょうし、その時期の東歌が万葉集に採られる機会は、一も二もなく防人歌。そうすると地理もそうですし、そもそもの詠み手が逆転してしまっているわけで。...あるいは、夫にあとのことを託された妻が、その役目を放棄する=禁を犯すことができないからこそ、ご神体の山を越えられない、としたのか。...ごめんなさい、やはり個人的にはここではない、と感じてしまいます。恋と神の組み合わせは、それはもう万葉歌では定番中の定番ですけれど、そういう感覚自体が中央から遠い安房で、というのが何とも。

 さほど長くない参道を進むとこぢんまりした境内。どうやら地元の自治会の会合か何かなのでしょうか。社務所の奥から話し声がかすかに届きます。吹き抜けてゆくのは、心地よい風。
 ここ・宮下の莫越山神社は、一帯に開けた水田の中。見渡す限り視界にひっかかるものと言ったら、莫越山しかないわけで、なるほど。三輪山しかり、近江の三上山しかり、とても判りやすいお社ではあります。但し、だからといってこここそが、もう一方の莫越山神社ではなく本当の莫越山神社、と言いたいわけでは決してないのですけれども。


 境内にある社伝を引きます。曰く

|由緒
| 社記に「莫越山神社は、養老2年(718)神体山の麓である現在地に遥拝所として造
|営されたもので、延喜式神名帳所載の神社(式内社)安房国6座中の1である。」と記さ
|れ、古くから多くの信仰を集め、とくに工匠の祖神としてあがめられ、この地域の中
|心的神社として今日に至っている。
|                        莫越山神社案内文より抜粋


 やはり遥拝所から始まったようですね。...しかしそれ以上に気になる、というよりは納得できてしまう記述が、
「工匠の祖神としてあがめられ〜」
 となるでしょう。何せ、祭神が祭神ですからね。

 手置帆負命、そして彦狹知命。彼らの名前が記紀で最初に登場するのは、日本書紀の天孫降臨にまつわる一説の中、となります。

|即ち紀伊国の忌部の遠祖手置帆負神を以て、定めて作笠者とす。彦狹知神を作盾者
|とす。天目一箇神を作金者とす。天日鷲神を作木綿者とす。櫛明玉神を作玉者とす。
|乃ち太玉命をして、弱肩に太手繦を被けて、御手代にして、此の神を祭らしむるは、
|始めて此より起これり。
                           「日本書紀 巻2 神代下」


 作笠者。かさぬひ、と読みますが菅を材として糸で縫い、神事幣物である笠を作る専門家という意味になります。同時に、作盾者もたてぬひの訓。往時の盾は、木製や鉄の鋲で留めたものなどもあったようですが、一般には皮革を縫い合わせたものだったようです。その専門家に手置帆負命と彦狹知命がそれぞれ定められた、と。
 ...いずれにしても、古代の政に関わる祭器具製作の始祖、ということです。なので、工匠の祖神としてあがめられるのは、もっともなお話。

 そしてこの上記引用の中に、明確に記述されている件。曰く
「紀伊忌部の遠祖」
 これこそが何故、この地を名づけて安房、としたのかを解く鍵にして回答、となります。それを端的に書き表しているのが、神社本庁が出している平成『祭』データです。ここ・宮下の莫越山神社についてこんな記載があります。

| 当社は、天正天皇養老2年(718)、勅願所にかかり地を賜る。神武天皇辛酉元年、天
|富命は阿波の忌部を率いて、当国に下り給う。この時小民命、御道命の請によりその
|祖手置帆負命、彦狭知命を祭祀し、延喜式に載する安房6座中小4座の1なり。
| 古語拾遺に曰く天照大神、高皇産霊尊が天児屋根命、天太玉命に勅令して、番匠諸
|職の神々を天降された時にこの手置帆負命、彦狭知命を棟梁の神とされもろもろの
|工匠を率いて、日向国高千穂櫛触の峰に行宮を造り、天孫(迩迩芸命)の皇居を定め
|た。さらに神武天皇が大和国内を平定して橿原を都と定めた時、天富命が手置帆負
|命、彦狭知命2神の裔の一族を率い、紀伊国名草郡御木、あらか郡より斎斧斎鋤を以
|て始めて山の材を伐りて宮城の正殿を造り、これがわが国建築のはじめとされる。
|更に神武天皇の命により四国の阿波に赴き麻殻を殖培し、のち天富命は更に肥沃な
|土地を求め、阿波忌部氏を率いて舟で東方に向かい今の房総半島に上陸し、水利と
|渡度、狐座、御木の三官有林を中心とした豊かな山林に恵まれたこの地を開拓し故
|国の地名より安房と称し定住し、それまで土着の民の祀っていた神体山の渡度山(莫
|越の山)に祖神を祀り、また付近に莫越山神社を中心として、古墳時代後期には神祭
|が盛んに行われていたことを物語る東畑遺跡、石神畑遺跡、六角堂遺跡などが発掘
|されている。
                         神社本庁「平成『祭』データ」


 はい、すなわち阿波=安房、ということでここでいう=の部分を意味するものが忌部。この氏族そのもの、というわけです。
 忌部氏。すでに「わたのそこおきゆ」でそれなりには触れていますが、そもそも忌部と言えば、中央から派生して阿波忌部、紀伊忌部、出雲忌部、讃岐忌部、さらには筑紫忌部や伊勢忌部などにも繋がり広がっていった氏族にして、前述のように主に祭器具製作や宮の造営を専らとしていた職人氏族。

 余談になりますが、恐らくは隠岐の忌部は出雲忌部から派生したものなのでしょうし、ここ・安房国は、阿波より東進・開拓・移住した一門の地、です。また、紀伊の那智勝浦と安房の勝浦という地名の相似も、忌部の東進と何らかの関わりがあってのもの、と推測するのは決して難しいことではない、と考えます。

 ともあれこの忌部氏。中央の忌部はのちに斎部と氏族名を改めていますが、そのいずれもが意味するものは穢れを忌み、斎くものを祭る氏。いってしまえば神職中の神職に携わってきていたわけで、その立場からまだこの国に文字というものがなかった頃より、口伝によって受け継がれてきた伝承を記述し、上奏した文献が存在します。

 古語拾遺。日本書紀が編纂当時の権力者だった藤原氏=中臣氏の影響色濃く編まれたものであるように。また、先代旧事本紀が勢力争いに敗れた物部氏の立場より書かれたものではないだろうか、とされているように。古語拾遺は斎部氏サイドから書き記された史書です。
 また、それと同時に有職系の史料でもあるのですが、その記述の真摯な姿勢、あるいは美化・歪曲・捏造があまりされていない本質が、21世紀の現代でも高い信憑性をもつ史書として、多くの研究者たちにとても好意的に受け入れられている、とよく耳にします。
 同時に、たかだか趣味の領域でこれら史料を読み漁っているわたし自身もまた古語拾遺を残した斎部広成老の人柄のようなものが感じられて、とても好きな読み物としてよく挙げさせて頂いていますね。






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